ゼカリヤ8・1-8
ルカ9・46-50
完璧な計画表でできた機関ではなく、「平和と喜び」こそが教会における神の現存のしるしです。パパ・フランシスコはその日の朗読個所についてコメントしながら聖マルタの家での月曜日の朝ミサでこう語った。弟子たちは熱心で、計画を立て、生まれたばかりの教会の機構についての将来のためのプロジェクトを作り、誰がそこで一番偉大なものになるかについて議論し合い、自分のグループにいない人たちがイエスの名で善いことをするのを妨げようとしていました。けれどイエスは、彼らを驚かせます。議論の中心を機構の問題から子どもたちに変えたのです。「あなたたちの間で一番小さい人が、その人こそが一番偉大なのだよ!」と。そのように、預言者ゼカリアの朗読において神の現存のしるしについて語られているけれど、それは「いい感じの機構」でも「全部秩序立っていて全部完璧な前進する政府」でもなく、広場に座る老人たちや遊ぶ子供たちだというのです。危険なのは年寄りであれ子供たちであれ、こうした人たちを切り捨てることにあるのです。ローマ司教はより小さい者たちをつまずかせる人に対するイエスの厳しい忠告を思い出させた。
「ひとつの国民の将来はまさにそこ、年寄りたちと子どもたちのうちに見出されます。自分たちの間にいる老人や子供たちの心配をしない国民には未来がありません。なぜなら記憶も持たず、約束も持たなくなるからです!高齢者たちと子どもたちは民の未来なのです。ずいぶんと彼らを脇に追いやることが普通になっていますよね?飴をやったりゲームを与えたりして、子どもたちを黙らせて、あっち行って遊んで来なさい、あっち行って遊んで来なさい、とやる。そして年寄りには語る場を与えず、その助言を当てにもせずこう言う。「あぁ、年をとって、可哀想に…」
けれど弟子たちはこのことを理解しませんでした。
「わたしには効率を求めていた弟子たちのことが分ります。教会が問題なく前進することを求めていた弟子たちの気持ちが。そしてこれは教会にとって一つの誘惑になりうるのです。機能主義の教会です!うまいこと組織された教会です!それぞれお利口に自分の場所に留まり、記憶もなく、約束もない!こうした教会は、それでは機能しないでしょう。そうした教会は権力のために戦う教会になってしまうでしょう。洗礼を受けた者同士の嫉妬の教会、記憶も約束もない時にありうる他の様々なことに満ちた教会になってしまうでしょう」
ですから、「教会の精力」は「計画立て、物事をよくやろうとするための」文書や会議によって与えられるのではありません。こうしたことは必要な現実ですが、「神の現存の徴」ではないのです。
「神の現存のしるしはこれです。次のように主は言っています。『エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座すようになる、それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。都の広場はわらべとおとめに溢れ、彼らは広場で笑いさざめく』(ゼカリア8章)。笑いさざめきは、喜びを連想させます。それは主の喜びなのです。そしてこの老爺、老婆は手に杖をもって、穏やかにしています。このことは平和を連想させます。平和と喜び。これこそが教会の空気、雰囲気なのです!』
(RC-RV)
0 件のコメント:
コメントを投稿