民数記21・4b-9、または
フィリピ2・6-11
ヨハネ3・13-17
まさに教会が聖なる十字架称賛の祭りを祝う日に、ローマ司教は朝ミサを捧げるにあたり、十字架の神秘は祈りと涙によってのみ近づくことのできる人間のための大いなる神秘であると語りました。なぜなら、パパがその説教の中で語ったように、十字架の神秘のうちに人間の歴史と神の歴史に出会うからです。それは楽園の善悪の知識の木と十字架の木との比較において教会の教父たちが集約させていることなのです。
「あの木はずいぶん悪いことを残し、この木は、わたしたちを救いに、健康に導きます。その悪を赦して下さい。これは人間の歴史の道のりです。愛によってその命を捧げるあがない主、イエス・キリストと出会うための道です。実際、神は世にその息子をおくりましたが、それは世を裁くためではなく、彼によって世が救われるためでした。わたしたちを、わたしたち全員を、自己満足と傲慢、知識を求めるおごり、すべてのことがわしたちのメンタリティに基づいて、わたしたちの判断基準に基づき、また世の裁き手として他のものを必要としないと思いこむような憶測に基づいて考えていくような、あちらの木がもたらした結果から、わたしたちを救うこの十字架の木です。これは人の歴史の歩みです。一つの木からもう一つの木へと移りゆく歴史です」。
十字架にはまた、「神の歴史」もあります。「なぜなら神には一つの歴史があるということができるからです」。事実、「彼はわたしたちとともなるわたしたちの歴史と歩みを身に受けることを望まれました」。そのために人となり、僕の状況を身に受け、十字架の死まで従順になりました。
「神はこの愛の道のりを歩まれるのです!他の説明はありません。愛だけがこうしたことをするのです。今日、人間の歴史と神の歴史である十字架を見上げます。わたしたちはそのアロエの三つを、苦味のある蜜を、イエスの犠牲の苦みのある甘美さを味わうことのできるこの十字架を仰ぎ見ます。けれどこの神秘は本当に偉大で、わたしたちはただ自分だけではこの神秘をよく見ることはできません。理解するというよりも、そうです、理解するというよりも、この神秘の持つ救いを深く感じるために限りがあるのです。何よりもまず、十字架の神秘です。跪いて、祈りのうちに、ほんの少しだけ理解することができるものです。けれど、これは涙を通しても味わえるものです。涙こそが、この神秘にわたしたちを近づけるものなのです」。
「泣くことなくして、心の中で涙を流すことなくして、この神秘を理解することは決してできません」。それは悔い改める者の嘆きです。あまりに多い人間の悲惨さを見る兄弟姉妹の嘆きです。「そしてそれをイエスのうちに見るのですが、跪いて、泣きながら、決して一人にならずに見るのです。決して一人ではありません!」
「迷路ではないけれど少しそれに似たようなこの神秘に入るためには、いつも母を必要とします。お母さんの手を必要としているのです。お母さんが、マリアさまがわたしたちにこの神秘がどれほど偉大でどれほど謙虚なものであるか、どれほど満つように甘く、どれほどアロエのように苦いものであるかを感じさせてくださいますように。マリアさまが自分以外の誰にもできないこの歩みを共に歩んでくださいますように。一人ひとりが自分の歩みをしなければならないのです!お母さんであるマリアさまと共に、跪き、涙しながら」
(María Fernanda Bernasconi – RV).
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