一テモ3・1-13
ルカ7・11-17
教会はその夫と引き合わせに息子たちを連れていくにあたり彼らを守る女性の持つ勇気を持っています。パパ・フランシスコは聖マルタの家の火曜日の朝ミサ中に強調した。教皇はイエスとナインの寡婦との出会いについて回想した。そこで歴史の中で歩み主との出会いを探し求める局面を持つ教会の「寡婦性」の局面について語りながら回想した。
イエスは「わたしたちと共に苦しみ、苦しむわたしたちの近くにおられ、それを自分のものとする能力が」あります。ローマ司教はその説教を、今日の福音が語っている、イエスとナインの寡婦との出会いに端を発して繰り広げた。強調して言った。イエスは、今や息子をも失ったこの寡婦を「深く憐れまれた」。続けて言った。イエスは、「当時女性が寡婦となることが何を意味しているか」知っていた。そして「寡婦の皆さんのために主は特別な愛を抱いており、面倒を見ていました」。この福音の一節を読みながら、と付加しながら言った。わたしは「この寡婦が」、「少し教会のイコンだった。なぜなら教会もある意味では寡婦のようなものだから」
「その夫はどこかへ行ってしまい、彼女は歴史の内で歩き、これに出会うことを待ち、主と共にまみえることを待ち望んでいた。そして彼女は決定的に妻となるだろう。けれどその間、彼女、すなわち教会は、一人ぼっちです!主にはできません。そこには寡婦性のある種の次元があります。・・・「そしてわたしは教会の寡婦状態について考えさせられます。この勇気ある教会は、子どもたちを保護して、保護したうえで、ついに勝利するのです。母である教会、わたしたちの母は勇敢です!教会には、その息子たちが自分の子らであることを知り、彼らを守り、その子らを夫と引き合わせる勇気があるのです。」
パパは聖書に見られる何人かの寡婦の代表者たちの姿を見つめ、特に神を否認しなかったために殉教した七人の子どもたちを持つマカバイ人の勇気ある寡婦のことを特記した。聖書は、この女性について「その方言で、最初に覚えた言葉で」子どもたちに語りかけたことを告げている、と教皇は強調した。そして、わたしたちの母である教会も、方言でわたしたちに語りかけている、つまり「わたしたちすべてが理解する本当の正当な言葉づかい、カトリックのあの言語」で、「まさに悪に対する戦いにおいて前進するための力を下さる」
「この教会が持つ寡婦の局面は、出会いを求め、その夫を見つけることを待っています・・・。わたしたちの母なる教会は、このようなものです!つまり忠実であるならば、泣くことを知っている教会です。教会が泣かない時、何かがうまくいっていません。その息子たちのために泣き、そして祈りなさい!前進し、その息子たちを育む教会は、最終的に『教会も出会うであろうその夫の手の中で手放していくための最後の別れまで』、彼らは力を与え、ともに寄り添うようにします。これこそがわたしたちの母なる教会です!わたしはこの、泣いている寡婦のことが分かって来ました。ここで教会に対して主は何を言っているでしょう?わたしには、泣いている、この寡婦において何かを見ます。そこで主は教会に対してどんなことを語っているのでしょう?『泣かないで。わたしはあなたと共にいて、あなたを待ち、あちら、婚礼において、最後の婚礼において待っています』。立ち止まりなさい!このあなたの息子は死んでいたが、今は生きている!』」
このことは、「主と教会との対話です」。「教会はその子らを守る、けれど子どもたちが死んでいるのを見ると、泣き、そこで主は教会に向かって言います。「わたしはあなたと共にいるよ。あなたの息子はわたしと一緒にいるよ」と。ナインの青年に死の住まいから立ち上がるようにといったように、何度もイエスはわたしたちにも「罪のために死んでしまっている時に」立ち上がるようにと言い、「そこでわたしたちは赦しを願うのです」。では「わたしたちを赦し、いのちを取り戻してくれる時に」イエスがすることは何でしょうか?母の手に返してくれるのです。
「わたしたちの主との和解は、『わたしとあなた、そしてわたしにゆるしを下さった神父』だけの対話に終わりません。わたしたちが母の手に返された時に終るのです。そこで和解が完結します。なぜなら母なる教会をおいて他にはいのちの道、赦し、和解はないからです。そうして、この寡婦を見ていると、こうしたことがすべてわたしの脳裏に浮かんできます。すこし雑多です・・・。けれどこの寡婦に夫(であるキリスト)に出会うための途上にある教会の寡婦性のイコン(代表的モデル)が見えます。いつもわたしたちをかばい、わたしたちに教え、育て、その方言で語りかけてくれるこの「ママ」である教会にいつも信頼を置く恵みを主に願いたいと思います」。
(RC-RV)
0 件のコメント:
コメントを投稿