2013年9月16日月曜日

9月9日(月)、朝ミサ説教:今していることのしるし

 9月 9日(月)コロサイ1・24~2・3
          ルカ6・6-11

 希望の徳は、恐らくあの信仰や愛の特に比べればほとんど知られていないものですが、決してわたしたちのユーモアにかかっている態度である人間的な楽観主義と勘違いされてはならないものです。キリスト者にとって、希望は人としてのイエスであり、そのそれぞれのいのちを解放し再生させる力なのです。パパ・フランシスコは聖マルタの家で捧げられたミサの説教の間に今朝こう語った。

 希望とはイエスの「賜物」である。希望はイエス自身であり、その「名」を持つ。希望は普通「半分入ったコップ」を見る人のものではありません。あれはただの「楽観主義」です。そして「楽観主義は色々な物事に依拠する人間的な態度です」。これはそうした相違をはっきりすとしながらなされたパパ・フランシスコの朝の説教の基盤となったものである。その瞑想の動機はパウロがコロサイ人たちに書いている手紙の、次のような個所から来ている。「皆さんの間におられるキリストは、栄光の希望です」。しかしながら、「希望は『二級の』徳です。もっとよりよく知られている信仰や愛と言った徳に比べれば「目立たない徳」です。このために希望が落ち着いたよいユーモアと勘違いされてもおかしくないかもしれません。

 「けれど希望とは別のことです。楽観主義ではありません。希望は賜物です。聖霊のプレゼントです。そしてそのために、パウロは言うでしょう。「けっして落胆しない」と。希望は決して落胆しません。なぜでしょうか?なぜならそれは聖霊がわたしたちに下さった賜物だからです。けれどパウロは希望には名前があるとわたしたちに言います。希望はイエスです。もしあなたが『イエスに、生きたペルソナ、エウカリスティアにおいて来られ、そのみ言葉において現存しておられるイエス・キリストに希望がある』と言わない限り、『人生には希望がある。神に希望がある』ということはできません。これ以外は、希望ではありません。それはいいユーモア、楽観主義に過ぎないのです・・・」。

 パパ・フランシスコは当日の福音から別のテーマを回想のために取り上げた。イエスが手の萎えた人を安息日に癒し、律法学者やファリサイ派の人たちの咎めを引き起こすところです。その奇跡で、イエスは病気の手を解放し、「厳しい人たち」に彼らのうちの「自由の道ではない」人に示すのです。「自由と希望は共にいきます。希望のない所には自由はありえません」と教皇は言った。

 「イエスは希望であり、あらゆることをやり直します。それはたゆまぬ奇跡です。癒しの奇跡を行っただけではありません。多くのことをしました。それらはただのサイン、しるしでした。それは教会において、今行われていることなのです。あらゆることをやり直す奇跡。わたしの人生において、あなたの人生において、わたしたちの人生において行われることです。やり直すこと。そして彼がやり直すことが、まさにわたしたちの希望の動機なのです。キリストこそが、被造物のあらゆる物事を、素晴らしい仕方でやり直してくださる方です。キリストこそがわたしたちの希望の動機なのです。そしてこの希望はわたしたちを落胆させません。なぜならキリストは忠実だからです。自分自身を偽ることはできません。これこそが希望の徳なのです」。

 この点で、ローマ司教は司祭たちに特別の眼差しを向けた。「希望のない司祭に出会うのは少し悲しいです」。一方、「楽観主義ではなく希望を持って」人生の終わりにいたる人に出会うのは素晴らしいことです。「この司祭はイエス・キリストと一致し、神の民はわたしたち司祭たちを必要としています。この希望のしるしを与え、あらゆることをやり直すイエスへのこの希望を体験しましょう」。

 「栄光の希望であり、中心であり、全体である主がこの歩み、つまり希望を与えること、希望への熱意を持つことにおいてわたしたちを助けてくださいますように。そして、言ったように、いつも楽観主義ではありません。おとめマリアはその心の中で、もっとも大いなる闇を持ったのです。あの金曜日の夕方から日曜日の明け方まで。あの希望です。マリアはその希望を持っていたのです。そしてあの希望がすべてのことをやり直したのです。主がわたしたちにこの恵みを下さいますように」
(RC-RV)

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