コロサイ2・6-15
ルカ6・12-19
キリスト者は恐れも恥も勝利主義もなくイエスを告げ知らせるように呼ばれている。とパパ・フランシスコは今朝、火曜日の聖マルタの家でのミサの中で語った。パパは復活を知らないキリスト者になる危険性を強調し、キリストこそがいつでもわたしたちの生活の中心であり希望であることを強調した。
イエスは勝利者である。死と罪に打ち勝ったあの方である。パパ・フランシスコはその説教を聖パウロのコロサイ人への手紙におけるイエスについての言葉について考えを巡らしながら発展させた。わたしたち全員に対して、聖パウロはイエスと共に歩むように助言する。「なぜならイエスは勝ったからです。イエスに根を下ろし、イエスの上に建てられ、この勝利の上に、信仰を固めるのです」。これはキーポイントであるとパパは強調した。「イエスは復活された!」。しかし、これを理解するのはいつも簡単だというわけではない。パパは例えば、聖パウロがアテネでギリシャ人たちに向かった時に復活について語るまでは興味深く聞いてもらえたことを思い出させた。「これはわたしたちを驚かせることだ、そこまでにしたほうがいい」と。これはわたしたちにも問いかけてくるエピソードである。
「実に多くのキリスト者が復活を無視して生きています。復活したキリストのないキリスト者たちです。彼らは墓までイエスについて行って、泣き、彼のことをとても好きです。けれど、そこまでです。復活したキリストを持たないキリスト者のこの態度を考えると、三つのことに出会います。おびえている人たち、おびえているキリスト者たちです。恥ずかしがり屋、恥を感じている人たち、そして勝利主義者たちです。この三者は復活したキリストに出会ったことがありません!おびえている人たちは、復活の朝の人たち、エマオに向かう人たちです。去っていきます。恐れています」。
使徒たちは、恐れのために部屋に閉じこもります。「おびえている人たちはこのようです。復活について考えるのを恐れているのです」。それはまるで、「楽譜の最初の部分に」とどまっているかのようです。「復活者を恐れているのです」。また恥ずかしがり屋のキリスト者たちがいます。「科学がこれほどまで発達したこの世で復活されたキリストについて告白するのが少し恥ずかしい」のです。こうしたキリスト者たちに向けて、教皇は、誰も哲学や人間的伝統から直観を得た虚しい罠に騙されないために注意をするようにと求める。こうした人たちは「キリストが、その肉を持って、その傷を持って復活された」と語ることに「恥を感じています」。最後に「深い所で復活者を信じておらず、あの」ほんものの「復活よりももっと派手な復活を造り出したがる」キリスト者のグループが存在する。彼らは「勝利主義者」のキリスト者である。
「『勝利』という言葉を知らず、ただ『勝利主義』と言っています。なぜなら劣等感(inferior complex)のようなものを持っていて、色々なことをしたがります・・・。その人生において、その語りにおいて、その司牧において、その典礼において、そうしたいろいろなことにおいて勝利者の態度をたくさん持つこうしたキリスト者たちを眺めると、それはふかいところでは復活者を深く信じていないからだと見えます。けれどキリストが勝利者、復活者なのです。勝利したのです。このため、畏れなく、怯えることなく、勝利主義もなく、ただ復活した主を、その美を見つめながら、そしてまたその指を傷跡に入れ、その手を脇腹に入れるのです」。
「これは、今日パウロがわたしたちにくれるメッセージです」。キリストが「すべてなのです」。キリストはその全体であり、希望です。「なぜならキリストは夫であり、勝利者だからです」。今日の福音は、イエスを聞きにいく大勢の群衆を示します。そしてまた、多くの病者はイエスに触れようとします。なぜなら彼から「すべての人を癒す力が出ていたからです」。
「わたしたちの信仰、復活者の信仰、あの世に勝つ方の信仰です!イエスに向かって行きましょう。そしてこうした病者たちのように、イエスに触れられるように、その力に触れられるようにしましょう。なぜならイエスには肉も骨もあり、通り過ぎる霊的な概念ではないからです・・・。イエスは生きているのです。イエスは復活したのです。そうして、イエスは世に勝ったのです。主がこうしたことを理解し体験できる恵みをくださいますように」
(RC-RV)
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