2013年7月9日火曜日

7月8日、ミサ説教(ランペドゥーサにて):安定した生活の文化がわたしたちを他者の叫びに対して無感覚にしてしまう



 「あなたの兄弟はどこにいるんですか?」。パパ/フランシスコはカインへの神の問いを、ランペドゥーサで繰り返した。そして問うた。「この難船の兄弟姉妹の死に涙を流した人は誰か居るでしょうか?無関心がグローバル化したことで、わたしたちから涙を流す能力が奪われてしまいました。

 紫色の祭服を身につけ、罪の許しの祈り独特の、痛悔ミサを、パパ・フランシスコはランペドゥーサ島にいる難民達と共に10時半にささげた。

 朗読された福音は、ヨゼフとマリアのベツレヘムからエジプトへ、赤ん坊のイエスを連れてにげていく場面で、ヘロデによって無垢な赤子達が殺された場面であった。その説教に於いて、フランシスコは他にも色々語ったが、とりわけ次のことを語った。希望の道となる代わりに死の道に留まった、あの舟の中、海で亡くなった移民達のことである。「この見出しは何度も繰り返されたので、わたしは今日、祈り、皆さんの側にいることを示す行為を果たし、またこの出来事が繰り返されないための意識を目覚めさせるために、来なければならないと感じたのです」と言った。「お願いですから、二度と繰り返されませんように!」

 最初に旅の途上にある人々の面倒を看、何かより良いことはないかという姿勢を示してきたランペドゥーサの住民や援助協会、ボランティア、警察に感謝をし、励ましの言葉を向けた。「皆さんは小さな現実かもしれませんが、連帯の模範を提示しています。ありがとう!」と。

 ムスリムの移民に挨拶をした後、より尊厳のある生活の探求において教会は彼らの近くにいると述べた。そしてフランシスコは神にゆるしを何度も乞うた。「主よ、この典礼、償いの典礼において、あまりにも多くの兄弟姉妹に対して無関心であったことにゆるしを願います。のんびりと構えてしまった人、心に麻酔をして完成の麻痺へと導く自分の安定した生活に閉じこもってしまった人のためにゆるしを願います。世界レベルの決断でこうした悲劇へと導く状況を作り出した人々のためにゆるしを願います」と。

 また次のようにも言った。「わたしたちの心にも残っているヘロデのような部分を主が消し去ってくださるように願い求めましょう。こうした世の中やわたしたち、またこのような悲劇の道を開く社会・経済的な決断をする無名の人々のうちにある無関心や残酷さについて涙を流す恵みを主に願いましょう」。「わたしたちはシャボンの泡の中に生きています。シャボンの泡は美しいですが、中身がありません。それは取るに足りないこと、その場しのぎのことの幻想です。その幻想は他者に対する無関心へと招くのです。他者はもはや愛するための兄弟ではなく、自分の生活、自分の身の安定に厄介な存在になるのです」。 
(イエズス会士ギリェルモ・オルティス、マリア・フェルナンダン・ベルナスコーニ - RV).


教皇の説教全文:


 移民たち海に死す。あの船から、希望への道筋となる代わりに死への道に沈む。新聞記事の標題はこのようなものでした。わたしは数週間前にこのニュースを知りました。これは悲しいことに、何度も繰り返されていました。わたしの考えはこのことでぐるぐるとしており、まるで心に茨が絡まっているかのようで、苦しくなっていました。

 そういうわけで、わたしは今日、ここに来て祈らなければならないと感じたのです。近くにいるという仕草を実現しながらも同時に、わたしたちの意識・良心を目覚めさせ、起きたことが二度と繰り返されないように、そう祈るべきだと思ったのです。お願いですから、二度と繰り返されませんように。

 けれどその前に、わたしは素直な感謝のことばと魅力の言葉を述べたいと思います。ランペドゥーサとリノーサの皆さん、組合の皆さん、ボランティアの皆さん、警備の皆さん、あなたたちは何かより良いことに向かう旅にある人々の世話をしてきましたし、今も続けています。皆さんは小さな現実ですが、連帯の模範となってます!

 また、フランチェスコ・モンテネグロ大司教にも、その援助、その仕事、その司牧的寄り添いに感謝します。市長のジュスィ・ニコリーニ女史にも、そのなしていることに、感謝いたします。

 わたしはラマダンの断食を始めている、愛すべきムスリムの移民のみなさんに一つの想いを向けます。その断食で霊的な実りが豊かにあるようにと望んでいます。教会は皆さんの側にいて、皆さんとその家族にとってより尊厳のある生活が見つかるようにと望んでいます。皆さんに、『オ・シャー』。

 今朝、先ほど聞いた神の言葉に照らされて、いくつかの言葉、特に、すべての人々の良心を目覚めさせ、掻き立て、反省をし、ある種の態度を具体的に変えるような言葉を提示したいと思います。

 「アダム、どこにいるのか?」これは神が、人の罪の後初めて人間に向ける問いです。「どこにいるのか」。彼は創造において自分の居場所を失ってしまった迷いにある人間です。なぜなら強くなり、すべてを支配し、神となることができると思ったからです。そこで調和は崩れ、人は誤り、他者との関わりにおいてもこれは繰り返され、他者はもはや愛さなければならない兄弟ではなく、単に自分の生活、自分の安定した状態をわずらわす他人になってしまったのです。そうして神は二つ目の問いをします。「カイン、あなたの兄弟はどこにいるのか?」と。強くなるという夢、神のように偉大なものになりたいという夢は、さらには神よりも偉大になりたいという夢は、間違いの連鎖に導きます。それは死の連鎖です。兄弟の血を流すことへと導くのです!

 この二つの神からの問いは、今日も響きます。それも大音量で!わたしたちの多くは、わたしも含めてですが、迷いにあります。もはやわたしたちが生活している世界を大切にせず、保護をせず、すべての人のために神が作ったものの番をしません。もうわたしたちは互いに守り合うことすらできなくなっているのです。そしてこの道の迷いが世界の様々な次元を占めると、わたしたちが見てきたような悲劇に至るのです。

 「あなたの兄弟はどこにいるのか?」その流された血の声がわたしに聞こえるように叫んでいる、と神は言います。これは他の誰かに向けられた問いではありません。わたしに、あなたに、わたしたち一人ひとりに向けられた問いです。そうしたわたしたちの兄弟姉妹は困難な状況から抜け出して少し落ち着いて、平和なところを求めようとしました。自分たちとその家族のためにより良い場所を探していました。けれど見つかった時には死んでいました。

 これを求める人々が理解や歓迎、連帯に出会えないことが、どれほどあることでしょう!

 そして彼らの声が神のところまで上っていくのです!

 そしてもう一度、みなさん、ランペドゥーサの住民の皆さん、その連帯に感謝します。

 先ほど、こうした兄弟のうちの一人の話を聞きました。ここに到着する前に、密売人の手にありました。彼らは他者の貧しさにつけ込みます。そうした人たちは他者の貧困を自分の収入源とするのです。どれほど苦しんだことか。そしてある人たちは、ここに到着できなかったのです!

 「あなたの兄弟はどこにいるのか?」。この血の責任は誰にあるのか?

 スペイン文学には、ロペ・デ・ヴェガの劇があります。フエンテ・オヴェフーナの町の住民がどのように市政者を殺すか、というものです。なぜなら市政者は暴君だったからです。そして誰が殺したか知られないようにするのです。そして王の裁判官が「誰が市政者を殺したのか?」と尋ねると、全員が「フエンテ・オヴェフーナでございます、裁判官どの」と答えるのです。全員でありながら、誰でもないのです!

 今日も、この問いが力強くわき上がっています。この兄弟姉妹の血の責任は誰にあるのか?誰でもありません!と誰もが答えるでしょう。わたしではありません。わたしは関係ありません。他の人でしょう。絶対にわたしではありませんよ。けれど神はわたしたち一人ひとりに尋ねます。「わたしに叫んでくるあなたの兄弟の血はどこにあるのか?」

 今日この頃、誰もこのことの責任を感じないのです。わたしたちは兄弟愛の責任の感覚を失ってしまいました。わたしたちは司祭や祭壇の奉仕者の偽善者のような態度に陥ってしまいました。それはイエスがよいサマリア人の譬えで語っているような偽善です。死にかけている兄弟を道端に見ます。おそらく「可哀想に」とは思うでしょう。そして自分の歩みを続けます。わたしたちの務めではない、と。そしてこう考えることで安心し、すっきりした気持ちになります。
 安定した生活の文化は、わたしたちの事ばかり考えるようにと導き、他者の叫びに無感覚にします。わたしたちがシャボンの泡の中で生きるようにします。シャボンの泡はきれいですが、中身がありません。それは取るに足りないこと、その場しのぎのことの幻想です。その幻想は他者に対する無関心、さらに、無関心のグローバリゼーションへと導くのです。このグローバル化世界において、わたしたちは無関心のグローバル化に陥ってしまったのです。わたしたちは他者の苦しみに慣れてしまい、わたしたちに属することとして捉えず、関心もなく、わたしたちの問題としないのです!

 マンツォーニの無名のモデルに戻ります。無関心がグローバル化することは、わたしたち全員を「無名のもの」にします。責任はあるのに名も顔もない、そのようにするのです。

 「アダム、どこにいるのか?」、「あなたの兄弟はどこにいるのか?」。これは人類の歴史の初めに神がする二つの問いかけです。そしてわたしたちの時代のあらゆる人々にも、わたしたちにも向けられています。

 けれどわたしは三つ目の問いかけを自分たちにしてみたいと思います。「この出来事のために、このような出来事はいろいろありますが、それらのために、わたしたちのうちの誰が涙を流したでしょうか?」と。この兄弟姉妹のために誰が涙を流したでしょうか?舟にいたこの人々のために誰が涙を流したでしょうか?子どもたちを抱きかかえていた若いお母さんたちのために誰が涙を流したでしょうか?自分の家族の生活維持を考えて何か出来ないかと探していたこの男性たちのために誰が涙を流したでしょうか?

 わたしたちは泣く体験、『誰かと共に』という体験を忘れた社会です。無関心がグローバリ化したことは、わたしたちから涙する能力を奪ってしまいました!

 福音で、叫びを聞きました。嘆きを聞きました。大いなる嘆きです。「ラケルは子どもたちのことで泣き、……子どもたちがもういないから」(マタイ2章18節)。ヘロデは死の種を蒔き、自分の生活の安定、自分のシャボンの泡を守ろうとしました。そしてこれは繰り返されているのです。……わたしたちの心にも残っているヘロデのような部分を主が消し去ってくださるように願い求めましょう。こうした世の中やわたしたち、またこのような悲劇の道を開く社会・経済的な決断をする無名の人々のうちにある無関心や残酷さについて涙を流す恵みを主に願いましょう。誰が涙を流したでしょうか?誰が泣いたでしょうか?誰が今の世界で涙を流したでしょうか?

 主よ、この典礼は、償いの典礼です。この典礼で、多くの兄弟姉妹に対する無関心に対するゆるしを願います。父よ、のんびりと構えてしまった人、心に麻酔をし て完成の麻痺へと導く自分の安定した生活に閉じこもってしまった人のためにゆるしを願います。世界レベルの決断でこうした悲劇へと導く状況を作り出した 人々のためにゆるしを願います。主よ、おゆるし下さい。

 主よ、今日も、「アダム、どこにいるのか」、「あなたの兄弟の血はどこにあるのか?」という問いをわたしたちが聞くことができますように。


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