2013年7月6日土曜日

7月4日、朝ミサ説教:わたしたちは神の子であると書いてある身分証明書をわたしたちから奪うことのできる者はいない

朗読個所  : 創世記22・1-19
          マタイ9・1-8

バチカン、7月4日18時12分(バチカンラジオ)

 わたしたちはイエスのおかげで神の子らなのです。そしてこの身分証明書を誰も奪うことはできないのです。パパは今朝の聖マルタの家の小聖堂で祝われたミサの説教でこう語った。

 フランシスコと共に、インド出身の、ランチの大司教であるテレスフォレ・プラシドゥス・トッポ枢機卿が共同司式に上がった。

 ローマ司教の説教の中心は、中風で体のこわばった人の癒しに関する福音であった。イエスは「元気を出しなさい、息子さん、あなたの罪はゆるされています」と彼に言う。「おそらく、この人は少し『当惑した』感覚に見舞われたでしょう。なぜなら身体的に癒されることを望んでいたからです」とパパは確言した。「その後で、仲間内でイエスを、『神のみが罪を赦せるのに』と冒涜のかどで告発していた律法学者たちの批判を前に、イエスはまた体にも癒しをもたらします」。「実際、癒しや教え、偽善に対するきつい言葉といったものは、しるしに過ぎませんでした。イエスが行っていたこと、つまり罪のゆるしプラスアルファのしるしだったのです」と教皇は説明した。イエスにおいて世は神と和解されますが、これこそが「最も深みのある奇跡なのです」。

 「この和解とは、世の再創造なのです。これこそがイエスのもっとも深みのある使命なのです。わたしたち罪びとすべてのあがない。そしてイエスがこれを行うのは、言葉によってでもなく、行為によってでもなく、道を歩きながらでもありません。違います!自分の肉体をもって行うのです!まさに彼が、神が、わたしたちのうちの一人となり、内側からわたしたちを、わたしたち罪びとを癒すのです」。

 イエスは、自らの肩に「あらゆる罪を」背負い、自らが「罪(訳者注:神に疎まれ死へと続くもの)」となることでわたしたちを解放する。「そしてこれは、新しい創造のわざなのです」とパパは言った。「イエスは栄光から降りてきて、低くなり、死まで下げられ、十字架の死までいやしめられ、しかも『父よ!なぜわたしを見棄てられたのですか!』と叫びまでもするへりくだりを果たしました。これこそがイエスの栄光であり、これこそが新しい救いなのです」。

 「これは一番偉大な奇跡です。そしてこれをもってイエスは何をするのでしょう?わたしたちを息子ら、娘らにします。息子たちの持つ自由をもって。イエスがしてくれたこのことによって、わたしたちは『父よ』と言うことができるのです。そうでなければ、わたしたちは決して『父よ!』とこのように言うことはできなかったでしょう。そして『父よ』と、実によく、実に美しい態度で、自由をもって言うのです!これがイエスの偉大な奇跡です。わたしたちを、罪の奴隷であるわたしたちを、全員自由にし、まさにわたしたちの存在の淵においてわたしたちを癒したのです。このことを考えること、息子であることはそれほどまでに素敵なことであること、息子と言うのは自分の家にいてイエスがその家の扉を開けてくれたのですが、息子たちのこの自由はそれほどまでに素敵なことであると考えるのは、わたしたちに益となります。わたしたちは今、自分の家にいるのです!」。

 パパは結んで言った。「今なら、イエスが『元気を出しなさい、息子さん、あなたの罪はゆるされた』と述べる時のことが分ります」。

 「それがわたしたちの勇気の根源なのです。わたしは自由だ、わたしは息子だ、ということが。父はわたしを愛しておられ、わたしは父を愛している! 主にこのご自身のわざをよく理解できる恵みを求めましょう。このイエスにおいて神がなさるこのこと、わたしたちに和解と力強く、息子らの自由をもってこの和解の言葉を前に運んでいく恵みの言葉を託しながら、神がキリストにおいて世をご自分と和解させられたことをよく理解できるように。わたしたちはイエス・キリストにおいて救われているのです!そして誰もこの身分証明書をわたしたちから奪うことはできないのです。自分のことを『神の息子』と呼ぶのです!なんと素敵な身分証明書でしょう!市民権です。自由なのです!あれかし(アーメン)」。

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