2013年7月31日水曜日

7月28日、飛行機の中で:とても素晴らしい旅行でした。霊的にとても益になりました。


 ローマへの帰りの飛行機の中で、教父は報道陣と会話をし、その特徴的で落ち着いたシンプルさと深みを持って、様々なテーマについて答えた。「とても素晴らしい旅行でした。霊的にとても益になりました!」 ブラジルでのワールドユースデーの青年たちと共に体験された緊張度の高い経験によるその大きな目に見えるほどの喜びを示しながら、またセキュリティの程度に触れながら、その人々の近くにいることへの切望を繰り返した。

 「この数日、リオ・デ・ジャネイロ全体で、一つも犯罪がありませんでした。そしてそれはすべて自発的にそうなりました。セキュリティの程度を低くしてもらって、装甲車もなく、人々と共にいて、抱きしめ、挨拶する機会をいただきました。これはある国民を信頼するという名のセキュリティです。実際、いつだって狂った人がいる危険性はあります。えぇ、そうです。何かする気の狂った人が。けれど主もいるんですよ。ね?たとえ司教を人々からシールドを立ててスペースを作ることも気違いじみたことならば、わたしはこちらの(シールドのない)気違いじみたことの方が好きです」。

 パパ・フランシスコは企画者たちと、この第28回ワールドユースデーで体験されたことを語るのに捧げた価値ある貢献のために情報メディアで働いている人々に感謝した。「ブラジル国民の優しさと苦しみ」が、この旅行で特別に衝撃を与えた側面であると述べた。そこでは多くの家族の痛みと極度の貧困との接触をしたヴァルジーニャのファベーラへのその感動的な訪問についても触れた。

 「やさしさ。ブラジル国民の心はとても大きいです。実際、ほんとうに親切な人たちです。祭りを愛する民です。苦しみの中でさえ彼らはいつもあらゆることのなかに良いものを探す方法を見出します。そしてそれはとても益になるのです。楽しい国民で、たくさん苦しみを経てきた国民です」。

 コパカバーナでの閉会ミサやこのワールドユースデーやアパレシーダ聖地訪問の縦糸となった祈りの時間への178カ国からの300万人以上の参列にも素直に驚いていた。『アパレシーダは、わたしにとって、宗教的に強い経験です」と、ブラジル人にとって実に愛されており、ベルゴリオの頃のパパにも、ラテン・アメリカの教会にとっても、2007年5月のラテンアメリカ司教協議会の第五回総会の拠点となったということもあり、この場所のことを思い起こしながら確言した。

 報道陣との対話の中で、パパ・フランシスコによって語られたとても大切なテーマの中で、二人の教皇、ヨハネ23世とヨハネ・パウロ二世の今後の列聖式についても語られた。その列聖式ミサの中で聖人として宣言されるわけだが、その日程については、ローマに来て参列したいと望んでいる信者が一人でも多く到着できるために、まだ調べている。

 聖マルタの家で質素に生きるという選択について、こう答えた。

 「わたしには小さいグループとだけで生活することはできません。わたしには人々が、人々に出会うことが、人々と語り合うことが必要なのです。…一人ひとり、主が求める生き方で生きなければなりません。しかしながら、厳格さは、一般的な厳格さは、教会の奉仕のために働いているわたしたち全員に必要なことだと私は思います。
 

 その後で、いつもの皮肉とシンプルさをもって、パパは緊張を緩めて、ブラジルへのその旅行に個人的に持っていった黒いカバンの大「神秘」について語った。

 「原子爆弾の起爆ボタンがあったわけではありませんよ!あれを持っていったのは、いつもしていたからです。では、中に何があったのかですか?まぁ、ひげそりのセットと、教会の祈りの本、予定帳、読書のための一冊の本ですね。わたしは聖テレジアの信心が強いので、彼女についての本を持ってきたのです。わたしは旅行のたびにいつもカバンを持ち歩いていたのですよ。普通のことですよ。そしてわたしたちは普通でなければなりません」。

 IORの改革についてといったような、よりデリケートなテーマについても話しながら、機関がどうなるか、援助の銀行あるいは基金なのか、知らないと答えた。しかし「透明性と正直さ」はいつでも組織にアイデアを与える判断基準でなければならない。IORの問題は、「どのように改革するのか。どのように癒しを必要としている人を癒し、癒すために何が必要なのか」。最近刑務所に送られて終った大司教によってなされたスキャンダルへの悲しみを表現した。「ローマの評議会には聖なる人たちもいるのですが、それほどまで聖なる人ではない人もいて、こうした人たちがもっと騒ぎ立てるのです。皆さんがよく知っているように、育ちゆく森よりも、倒れる木の方が大きい音を立てるものです」。

 堕胎や同性愛結婚といった倫理的問題に関して、パパはそれはリオで語らなければならない問題ではなかった、なぜなら教会の姿勢はとてもはっきりしているから、と言った。リッカ卿に関しては、推定されるバチカンでのロビー・ゲイに関しての問いに応えて次のように言った。


 「まぁ、ロビー・ゲイについてたくさん書かれています。まだ「この人こそゲイだ」という身分証明書をわたしにくれた人にはまだあっていません。そういう人がいるとは言われています。もしゲイの人に会うならば、その人がゲイの人であるということ、ロビー・ゲイであるということで見分けられなければならないと思います。なぜならすべてのロビーのひとはよくないですから。それは悪いことなのです。もしある人が同性愛者で、主を探し求め、よい志を持っているなら、誰が裁くことができるでしょう?わたしはそれには値しません」。


 離婚し、再婚した人の聖体拝領の問題について、それも10月8日の顧問会でも語られる「複雑な」問題であると説明した。そしてクアラチーノ枢機卿が、婚姻の半分は成熟度の欠如という理由で無効になりうると考えていたことを思い出した。

 教会における女性の役割について尋ねた記者に応えて、「教会でいまだに女性についての深い神学が行われていない」ので、教会において「女性の役割とカリスマをこれからはっきりさせていかなければならない」と思うと述べた。

 その後、教会のムーブメントについて話し、「ムーブメントは必要です。聖霊の恵みなのです」と言った。当方の霊性に関しては、「わたしたちはこれを必要としています。その東の爽やかな風、その東からの光を」。バチカンにおけるベネディクト十六世の存在について答えてこう言った。

 「それはちょうど家におじいちゃん、けれど知恵に満ちたおじいちゃんにいてもらっている感じです。家庭でおじいちゃんが尊敬され、愛され、耳を傾けられている、そのような感じです。彼は非常に慎重な人で、干渉はしません。何度もわたしは彼に言いました。『でも、教皇さま、受けてください、自分のしたいことをしてください、わたしたちと来てください…』彼は聖ミカエルの像の除幕式と祝福のために来てくれました。わたしにとって、家におじいちゃんにいてもらっている感じ、自分のお父さんにいてもらっている感じです。もし困ったことや、よくわからないことがあると、わたしに何ができるかを行ってもらうために、電話で尋ねることができる、という感じです。そしてヴァティリークスの大きな問題について話しに行った時、シンプルに《奉仕です》とおっしゃいました」。
(CdM – RV)

2013年7月30日火曜日

7月28日、閉会ミサの最後、お告げの祈り:マリアは受胎告知のすぐ後、留まらずに親戚の手伝いに出かけて行った。

Palabras del Papa Francisco rezo del Ángelus JMJ Río 2013
Palabras del Papa Francisco rezo del Ángelus JMJ Río 2013
2013年7月28日、リオ・デ・ジャネイロ

愛する兄弟姉妹の皆さん、

 この今回のワールドユースデーの間に受けた恵みの一つ一つに感謝してたたえる歌を神に捧げたエウカリスティアの祭儀を終えるにあたって、もう一度オラニ・テンペスタ枢機卿とわたしに言葉を向けてくださったリルコ枢機卿に感謝をしたいと思います。
 また、愛する青年の皆さん、皆さんにも感謝します。ここ数日の間にわたしに示してくれた喜びのすべてに。皆さん一人ひとりをわたしの心に収めて行きます。今、わたしたちの眼差しは天の母、おとめマリアに向かいます。この数日、イエスは皆さんに何度もしつこく弟子になり、宣教師になるようにと繰り返してきました。皆さんを一人ひとりの名前で呼ぶよき牧者の声をみなさんは聞きました。そして皆さんを呼ぶ声が何であるかを認識しました(ヨハネ10章4節参照)。皆さんの心の中で響いたこの声の中で、神の愛の温もりを感じたのではないですか?教会の中で、一緒に、キリストに従う美しさを感じ取ったのではないですか?福音がさらにもっと満たされた生き方の望みへの答えであることをよりよく理解したのではないですか?(ヨハネ10章10節参照)。

 無原罪のマリアさまは天で、自分の子供たちを見守る良い母のようにわたしたちのためにとりなしています。マリアさまがわたしたちにその生き方をもって、弟子であり宣教師であるとはどういうことなのかを教えてくださいますように。お告げの祈りを唱えるたびに、わたしたちは人類の歴史を決定的に変えたイベントを思い出します。天使ガブリエルがマリアにイエス、救い主の母になることを告げた時、彼女は、まだその呼びかけの意味をすべて理解したわけではなかったその時に、神に信頼し、答えました。
 「ここに、主のはしためがいます。わたしの中で、あなたの言葉通りのことが行われますように」(ルカ1章38節)。けれど、そのすぐ後にしたことは何でしょうか?受肉したみ言葉の母となる恵みを受けた後、その賜物と一緒にじっと留まるのではなく、歩きだしました。家を出て、すぐさま、その親戚エリザベトの手伝いに出かけて行きました(ルカ1章38-39節)。胎内にイエスを抱えながら、愛の、愛徳の、具体的な奉仕の行為を実践しました。そしてこの目に見える行為を、迅速に熱心に行いました。

 愛する友の皆さん、これがわたしたちにとっての模範です。神の側から一番尊い賜物を受けた女性が、その最初の応答の目に見える行為として、道に出て行き、奉仕し、イエスを運びました。おとめマリアに願いましょう。わたしたちも自分の家族や同僚、友達、すべての人にキリストの喜びを運ぶことができるように支えてください、と。キリストに対して寛大であることを決して恐れないでください。苦労のし甲斐があります!

 出て行きなさい。勇気と寛大さをもっていきなさい。すべての男女が主に出会えるようになるために。
 愛する青年の皆さん、次のワールドユースデーの待合わせがあります。2016年、クラクフ、ポーランドです。マリアの母としての取り次ぎによって、信仰とキリストの愛の歓喜に満ちた祝いのこの新しいステップにわたしたちを導く歩みのために聖霊の光を求めましょう。
 では、一緒に祈りましょう。  神のみ使いのお告げを受けて・・・(お告げの祈り)

2013年7月29日月曜日

7月28日、ボランティアたちへのことば


(RV).- Antes de retornar a Roma el Papa quiso reunirse con los miles de jóvenes que en estos días ofrecieron lo mejor de sí como voluntarios de la JMJ, manifestándoles sincero agradecimiento por su dedicación y empeño, que sin duda ha contribuido al rotundo éxito de esta “semana de los jóvenes” del mundo en Río. “Cada uno de ustedes, a su manera, les dijo, ha sido un medio que ha facilitado a miles jóvenes tener ‘preparado el camino’ para encontrar a Jesús. Y éste es el servicio más bonito que podemos realizar como discípulos misioneros: Preparar el camino para que todos puedan conocer, encontrar y amar al Señor. A ustedes, que en este período han respondido con tanta diligencia y solicitud a la llamada para ser voluntarios de la Jornada Mundial de la Juventud, les quisiera decir: Sean siempre generosos con Dios y con los otros. No se pierde nada, y en cambio, es grande la riqueza de vida que se recibe" (RC-RV)



パパの演説

愛する青年の皆さん、


 こんにちは。

 わたしには、何万もの青年巡礼者たちに寄り添い、手伝い、奉仕してきた皆さんのはたらきとささげに、一人ひとりに個人的に愛を込めて感謝をせずにはローマへは帰れないと思いました。このワールドユースデーの中で行われたもっとも小さい行為ですら、信仰の忘れ難い経験となりました。皆さん一人ひとりの笑顔をもって、その親切をもって、その奉仕への心構えをもって、皆さんは「受けるよりも与える方が幸いである」(使徒言行録20章35節)ということを示しました。

 この数日の皆さんがしてくれた奉仕をみて、洗礼者ヨハネの使命を思い出しました。洗礼者ヨハネはイエスへの道を準備しました。皆さん一人ひとりは、それぞれの仕方で、何千もの青年たちがイエスと出会うために「準備された道」を通っていくのをたやすくするメディアとなりました。そしてこれこそが弟子であり宣教師である者として実現しうる最もよい奉仕なのです。誰もが主を知り、出会い、愛することができるように道を準備することです。皆さんに、この時期にその勤勉さと心遣いをもってワールドユースデーのボランティアとなるための呼びかけに応えた皆さんに言いたいことがあります。神と他の人々に対していつも寛大でいなさい。何も失うことはありません。むしろ、皆さんに与えられるいのちの富は大きいのです。

 神さまは決定的な選択のために呼びかけます。一人ひとりのために一つのプロジェクトがあります。それを見出し、自分の召し出しに応えることは、幸福な自己実現への道を歩むことです。神さまはわたしたちを聖性に招いています。自分らしい生き方を送ることですが、一人一人に一つの道があるのです。ある人たちは婚姻の秘跡を通して一つの家族を作りながら犠牲をささげて行くようにと呼ばれています。(大喝采)。ここに、最近は婚姻は「時代遅れ」だという人はいますか?(「いいえ!」)。その場限りのものの文化、相対性の文化では、多くの人がそのときを「楽しむ」ことが重要だと告げ知らせています。全人生のために献身すること、決定的な選択をすること、「いつまでも」には苦労の意味がない、と。なぜなら明日のことは分らないからだ、と。わたしはむしろ、皆さんにそういう考えの間で革命家となりなさいと望みます。そんな流れには逆らっていきなさい。(大喝采)。そうです。このことにおいて、皆さんにこうしたその場限りのものの文化に反抗して下さいと頼みます。そうした文化は、深い所では、皆さんは責任をもって生きることができない、みなさんにはほんとうの意味で愛する能力がない、と考えているのです。わたしは皆さんを信じています、青年たちよ、そして皆さんのためにとりなします。大胆に「流れに逆らって行き」なさい。大胆に幸福になりなさい。

 主はある人たちを司祭になるように呼んでいます(喝采)。よき牧者の心ですべての人々を愛するために、主にすべてを捧げるようにと呼んでいます。他の人たちには、修道生活において他者に仕えるようにと呼んでいます。(喝采)。ある人は、観想修道院において、世界の全のために祈りに自らをささげながら。ある人は、使徒職の様々なセクションで、すべての人のために自らを削りながら、特にもっとも欠乏にある人々のために。わたしはあの9月21日、まだわたしが17歳だった時のことを決して忘れません。ゆるしの秘跡を受けるためにサン・ホセ・デ・フローレスの教会に入った後で、生まれて初めて神さまがわたしを呼んでいると感じたのです。神が求めることを恐れてはなりません!神に「はい」と答えるのは、苦労のし甲斐があるのです。主のうちに、喜びがあるのです!

 愛する青年の皆さん、おそらく自分の人生で何をしたらいいかまだはっきりしていない人もいるでしょう。若いサムエルは自分の中で神のしつこい呼びかけの声を聞いていましたが何のことか分りませんでした。何と言ったらいいかも知りませんでした。けれど祭司エリの助けで、ついにあの声に答えました。「お話し下さい、主よ。わたしはあなたに耳を傾けています」(Iサムエル3章1―10節参照)。このサムエルのように、主にあなたたちも尋ねなさい。「わたしが何をするようにとあなたは望んでおられますか?」「わたしの進むべき道は何ですか?」 と。

 愛する友の皆さん、改めて、ここ数日皆さんがして下さったことに感謝します。ここで体験したことを忘れないでください。いつもわたしの祈りを当てにして下さい。そしてわたしは、皆さんの祈りを当てにできると確信しています。

7月28日(日)、WYD閉会ミサ説教:「行きなさい」「恐れずに」「奉仕するために」

愛する青年の皆さん、

「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。この言葉で、イエスは皆さん一人ひとりに次のような言葉を向けています。「ワールドユースデーに参加して、ほんとうによかったですね。地球の四方八方からやって来た青年たちと一緒に信仰を生きることができて。でも今、君は行かなければなりません。そしてこの体験を他の人たちに伝えなければなりません。イエスはご自分が受けた使命を果たすにあたり君が弟子となるように呼びかけています。先ほど聞いたみ言葉に照らして、主は今日、わたしたちに何を語っておられるのでしょう?三つの言葉です。行きなさい。恐れずに。奉仕するために。

1.行きなさい。この数日、ここリオで、イエスに出会う素晴らしさい、共にイエスに出会う素晴らしさをみなさんは体験することができました。信仰の喜びを感じることができました。けれどこの集いの経験は自分の生活、あるいは小教区、ムーブメント、自分の共同体の中に閉じ込めたままではいられません。 それは燃えている炎から酸素を奪うようなものです。信仰は分かち合えば分かち合うほど、すべての人がこれを知るように伝えれば伝えるほど、愛すれば愛するほど、イエスをいのちと歴史の主であると告白すればする(ローマ10章9節参照)ほど、ますます活き活きとなる炎です。でも気をつけて!イエスはこうは言いませんでした。もししたいなら、もし時間があるなら、とは言わなかったのです。そうではなくて「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言いました。信仰体験を分かち合うこと、信仰の証しをすること、福音を告げ知らせることと言うのは全教会に、そして君にも信頼している主の命令なのです。それは支配や権力の意志から生まれた命令ではなく、愛の力、わたしたちよりも来てわたしたちに、自分の内の何かではなく、自分のすべてをわたしたちに下さったこと、神の愛とあわれみをわたしたちに示しわたしたちを救うためにその命を与えたことにある力からの命令なのです。イエスはわたしたちを奴隷のようには扱わず、自由人、友、兄弟として扱いうのです。そしてわたしたちを派遣するだけではなく、わたしたちと共に行き、この愛の使命においてわたしたちの側にいつもいるのです。

 イエスはわたしたちをどこに送るのでしょう?国境はありません。境界線はないのです。わたしたちをすべての人に対して派遣するのです。福音は数人の誰かのためではなく全員のためにあるのです。 一番近くにいる人、一番受け入れてくれそうな人、歓迎してくれそうな人に見える人たちだけではありません。すべての人のためのものなのです。どのような環境にでも赴き、キリストをもたらすのを恐れてはなりません。存在の中心から外れたところ、一番遠くにいて、一番無関心に思われるような人にも、です。主はすべての人を探し求めています。その憐れみと愛の温もりをすべての人が感じてほしいと望んでいるのです。

  特別な仕方で、この「行きなさい」というキリストの命令が、あなたたち、ラテンアメリカの教会の青年たちにこだましたらいいと思います。あなたたちは司教たちによって推進されている大陸宣教への献身があるのです。ブラジルは、ラテンアメリカは、世界はキリストを必要としています。

 聖パウロはこう言っています。「もし福音を告げ知らせないなら、やる瀬ないのです(私は不幸なのです、Iコリント9章16節) 」。この大陸は福音の宣言を受け入れました。その歩みが刻まれ、多くの実りをもたらしました。今、この宣言は、新たな力をもってこだまするようにと、皆さんにも託されています。

 教会は皆さんを必要としています。皆さんの特徴である熱意、独創性、喜びを必要としています。ブラジルの大いなる使徒、福者ジョゼ・デ・アンシエタは、まだほんの19歳の時に宣教をしに出かけて行きました。皆さんは青年たちに福音を伝えるための一番よい仲介は何だか知っていますか?もう一人の青年なのです。これがみなさんが辿らなけらばならない道なのです。

2.恐れずに。こう考える人もいるでしょう。「特別な準備が全くありません。どうすれば福音をのべ伝えに行くことができるのでしょうか?」愛する友よ、君の恐れはエレミヤの恐れと大して変わりませんよ。皆さんのように青年だったエレミヤは、預言者となるために神から呼ばれた時に、そういう恐れを抱いていたのです。
 ちょっと前に、わたしたちの耳に入って来た言葉はこれです。「あぁ、主よ、我が神よ!ご覧ください。わたしは語ることを知りません。子どもに過ぎません」。神は皆さんにもエレミヤに言った言葉を向けます。「彼らを恐れてはならない。わたしがあなたを解き放つために、あなたと共にいる」(エレミヤ1章6節、8節)。彼は、わたしたちと共にいます。

 「恐れてはならない」。キリストをのべ伝えに行く時、キリストこそが先頭を切り、わたしたちを導くのです。自分の弟子たちを宣教に派遣する時、このように約束しました。「わたしは毎日あなたたちと共にいる」(マタイ28章20節)と。これはわたしたちにとっても真実です。イエスはわたしたちを一人ぼっちにしません。決して一人にしておかないのです。いつもともに歩んでくださるのです。

 しかもイエスは「(君、)行きなさい」ではなく 、「(君たち、)行きなさい」と言ったのです。わたしたちは一緒に送りだされているのです。愛する青年の皆さん、この宣教において、全教会が共に歩むことを感じ、聖人たちとの聖体的一致をも感じなさい。挑戦に共に立ち向かう時、わたしたちは強く、持っていなかったと思われた資材を見出すのです。イエスは使徒たちを、孤立して生きるようには呼びだしませんでした。彼らを、グループを作るように、一つの共同体を作るために呼んだのです。

 わたしは、このエウカリスティアでわたしと共同司式をしている愛する司祭たち、あなたたちにも言葉を向けたいと思います。皆さんは自分に託された青年たちと共に歩むためにやって来ました。そしてこの信仰の経験を分かち合うのは素敵なことです。けれどこれは歩みの途中の段階です。寛大に、喜びをもって彼らに寄り添い続けなさい。彼らが教会で活発に献身するように助けなさい。彼らが独りぼっちだと決して感じることがないように。わたしはここで、青年司牧のグループや、その実に創造的で、実に大胆な教会であるということのその経験において、青年たちと歩みを共にするムーブメントや新しい共同体に、心から感謝したいと思います。前進し続けなさい!そして恐れないで!

3.最後のことば。奉仕するために。先ほどわたしたちが宣言した詩篇の最初に、このような言葉があります。「新しい歌を主に歌え」(95篇1節)。

 新しい歌とはどのようなものなのでしょう?それは言葉でも、メロディでもありません。それはその命の歌なのです。それはわたしたちの人生のアイデンティティがイエスの人生になるようにすることなのです。それはイエスと同じ感情、その考えを抱き、イエスのように行動することなのです。そしてイエスのいのちは、他の人々のためのいのちなのです。それはひとつの奉仕の命なのです。

 聖パウロは、ついさっき聞いた朗読の中でこう言っていました。「わたしはすべての者の奴隷になりました。そうして一人でも多く得るためです」(Iコリント9章19節)。イエスを宣べ伝えるために、パウロは「すべての人々の奴隷」になったのです。

 福音化するとは、神の愛を第一人称で証しすることです。それはわたしたちの利己主義を乗り越えることです。それはイエスがしたように、わたしたちの兄弟たちの足を洗うために頭を低くして奉仕することなのです。

 「行きなさい」「恐れずに」「奉仕するために」この三つの言葉に従っていれば、皆さんは福音化する人は福音化される人であるということ、信仰の喜びを伝える人は喜びを受けるということを経験することでしょう。愛する青年の皆さん、自分の家に帰った時、キリストに寛大になること、福音の証しをすることを恐れないでください。

 第一朗読で、神が預言者エレミヤを送り出す時に、彼に「抜き取り壊すため、滅ぼし破壊するため、再建し植えるため」 (エレミヤ1章10節)の力を与えます。皆さんにとっても同様です。福音を運ぶことは、悪や暴力を抜き取り壊すための力、利己主義や不寛容、憎しみを滅ぼし破壊するための力、新しい世界を建設するための力を運ぶことなのです。イエス・キリストは皆さんを当てにしています。教会は皆さんを当てにしています。パパ(教皇)は皆さんを宛てにしています。イエスの母でありわたしたちの母であるマリアさまが、いつもそのぬくもりをもって皆さんに寄り添って歩んでくださいますように。「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。アーメン。

ラテンアメリカ司教協議会へのことば


(RV).- (Con Audio) En el marco de la JMJ el Papa Francisco quiso encontrar a los Obispos responsables del Consejo Episcopal Latinoamericano (C.E.L.A.M.), presentes en Río con ocasión de la Reunión General de Coordinación, del 29 de julio al 2 de agosto.

Discurso del Papa (Audio) RealAudioMP3

1. Introducción

Agradezco al Señor esta oportunidad de poder hablar con ustedes, hermanos Obispos, responsables del CELAM en el cuatrienio 2011-2015. Hace 57 años que el CELAM sirve a las 22 Conferencias Episcopales de América Latina y El Caribe, colaborando solidaria y subsidiariamente para promover, impulsar y dinamizar la colegialidad episcopal y la comunión entre las Iglesias de esta Región y sus Pastores.
Como Ustedes, también yo soy testigo del fuerte impulso del Espíritu en la Quinta Conferencia General del Episcopado Latinoamericano y El Caribe en Aparecida, en mayo de 2007, que sigue animando los trabajos del CELAM para la anhelada renovación de las iglesias particulares. Esta renovación, en buena parte de ellas, se encuentra ya en marcha. Quisiera centrar esta conversación en el patrimonio heredado de aquel encuentro fraterno y que todos hemos bautizado como Misión Continental.

2. Características peculiares de Aparecida

Existen cuatro características que son propias de la V Conferencia. Son como cuatro columnas del desarrollo de Aparecida y que le dan su originalidad.

1) Inicio sin documento
Medellín, Puebla y Santo Domingo comenzaron sus trabajos con un camino recorrido de preparación que culminó en una especie de Instrumentum laboris, con el cual se desarrolló la discusión, reflexión y aprobación del documento final. En cambio, Aparecida promovió la participación de las Iglesias particulares como camino de preparación que culminó en un documento de síntesis. Este documento, si bien fue referencia durante la Quinta Conferencia General, no se asumió como documento de partida. El trabajo inicial consistió en poner en común las preocupaciones de los Pastores ante el cambio de época y la necesidad de recuperar la vida discipular y misionera con la que Cristo fundó la Iglesia.

2) Ambiente de oración con el Pueblo de Dios
Es importante recordar el ambiente de oración generado por el diario compartir la Eucaristía y otros momentos litúrgicos, donde siempre fuimos acompañados por el Pueblo de Dios. Por otro lado, puesto que los trabajos tenían lugar en el subsuelo del Santuario, la “música funcional” que los acompañaba fueron los cánticos y oraciones de los fieles.

3) Documento que se prolonga en compromiso, con la Misión Continental
En este contexto de oración y vivencia de fe surgió el deseo de un nuevo Pentecostés para la Iglesia y el compromiso de la Misión Continental. Aparecida no termina con un Documento sino que se prolonga en la Misión Continental.


4) La presencia de Nuestra Señora, Madre de América
Es la primera Conferencia del Episcopado Latinoamericano y El Caribe que se realiza en un Santuario mariano.

3. Dimensiones de la Misión Continental

La Misión Continental se proyecta en dos dimensiones: programática y paradigmática. La misión programática, como su nombre lo indica, consiste en la realización de actos de índole misionera. La misión paradigmática, en cambio, implica poner en clave misionera la actividad habitual de las Iglesias particulares. Evidentemente aquí se da, como consecuencia, toda una dinámica de reforma de las estructuras eclesiales. El “cambio de estructuras” (de caducas a nuevas) no es fruto de un estudio de organización de la planta funcional eclesiástica, de lo cual resultaría una reorganización estática, sino que es consecuencia de la dinámica de la misión. Lo que hace caer las estructuras caducas, lo que lleva a cambiar los corazones de los cristianos, es precisamente la misionariedad. De aquí la importancia de la misión paradigmática.
La Misión Continental, sea programática, sea paradigmática, exige generar la conciencia de una Iglesia que se organiza para servir a todos los bautizados y hombres de buena voluntad. El discípulo de Cristo no es una persona aislada en una espiritualidad intimista, sino una persona en comunidad, para darse a los demás. Misión Continental, por tanto, implica pertenencia eclesial.
Un planteo como éste, que comienza por el discipulado misionero e implica comprender la identidad del cristiano como pertenencia eclesial, pide que nos explicitemos cuáles son los desafíos vigentes de la misionariedad discipular. Señalaré solamente dos: la renovación interna de la Iglesia y el diálogo con el mundo actual.

Renovación interna de la Iglesia

Aparecida ha propuesto como necesaria la Conversión Pastoral. Esta conversión implica creer en la Buena Nueva, creer en Jesucristo portador del Reino de Dios, en su irrupción en el mundo, en su presencia victoriosa sobre el mal; creer en la asistencia y conducción del Espíritu Santo; creer en la Iglesia, Cuerpo de Cristo y prolongadora del dinamismo de la Encarnación.
En este sentido, es necesario que, como Pastores, nos planteemos interrogantes que hacen a la marcha de las Iglesias que presidimos. Estas preguntas sirven de guía para examinar el estado de las diócesis en la asunción del espíritu de Aparecida y son preguntas que conviene nos hagamos frecuentemente como examen de conciencia.

1. ¿Procuramos que nuestro trabajo y el de nuestros Presbíteros sea más pastoral que administrativo? ¿Quién es el principal beneficiario de la labor eclesial, la Iglesia como organización o el Pueblo de Dios en su totalidad?
2. ¿Superamos la tentación de atender de manera reactiva los complejos problemas que surgen? ¿Creamos un hábito pro-activo? ¿Promovemos espacios y ocasiones para manifestar la misericordia de Dios? ¿Somos conscientes de la responsabilidad de replantear las actitudes pastorales y el funcionamiento de las estructuras eclesiales, buscando el bien de los fieles y de la sociedad?
3. En la práctica, ¿hacemos partícipes de la Misión a los fieles laicos? ¿Ofrecemos la Palabra de Dios y los Sacramentos con la clara conciencia y convicción de que el Espíritu se manifiesta en ellos?
4. ¿Es un criterio habitual el discernimiento pastoral, sirviéndonos de los Consejos Diocesanos? Estos Consejos y los Parroquiales de Pastoral y de Asuntos Económicos ¿son espacios reales para la participación laical en la consulta, organización y planificación pastoral? El buen funcionamiento de los Consejos es determinante. Creo que estamos muy atrasados en esto.
5. Los Pastores, Obispos y Presbíteros, ¿tenemos conciencia y convicción de la misión de los fieles y les damos la libertad para que vayan discerniendo, conforme a su proceso de discípulos, la misión que el Señor les confía? ¿Los apoyamos y acompañamos, superando cualquier tentación de manipulación o sometimiento indebido? ¿Estamos siempre abiertos para dejarnos interpelar en la búsqueda del bien de la Iglesia y su Misión en el mundo?
6. Los agentes de pastoral y los fieles en general ¿se sienten parte de la Iglesia, se identifican con ella y la acercan a los bautizados distantes y alejados?

Como se puede apreciar aquí están en juego actitudes. La Conversión Pastoral atañe principalmente a las actitudes y a una reforma de vida. Un cambio de actitudes necesariamente es dinámico: “entra en proceso” y sólo se lo puede contener acompañándolo y discerniendo. Es importante tener siempre presente que la brújula, para no perderse en este camino, es la de la identidad católica concebida como pertenencia eclesial.

Diálogo con el mundo actual

Hace bien recordar las palabras del Concilio Vaticano II: Los gozos y las esperanzas, las tristezas y las angustias de los hombres de nuestro tiempo, sobre todo de los pobres y de cuantos sufren, son a la vez gozos y esperanzas, tristezas y angustias de los discípulos de Cristo (cf. GS, 1). Aquí reside el fundamento del diálogo con el mundo actual.
La respuesta a las preguntas existenciales del hombre de hoy, especialmente de las nuevas generaciones, atendiendo a su lenguaje, entraña un cambio fecundo que hay que recorrer con la ayuda del Evangelio, del Magisterio, y de la Doctrina Social de la Iglesia. Los escenarios y areópagos son de lo más variado. Por ejemplo, en una misma ciudad, existen varios imaginarios colectivos que conforman “diversas ciudades”. Si nos mantenemos solamente en los parámetros de “la cultura de siempre”, en el fondo una cultura de base rural, el resultado terminará anulando la fuerza del Espíritu Santo. Dios está en todas partes: hay que saber descubrirlo para poder anunciarlo en el idioma de esa cultura; y cada realidad, cada idioma, tiene un ritmo diverso.

4. Algunas tentaciones contra el discipulado misionero

La opción por la misionariedad del discípulo será tentada. Es importante saber por dónde va el mal espíritu para ayudarnos en el discernimiento. No se trata de salir a cazar demonios, sino simplemente de lucidez y astucia evangélica. Menciono sólo algunas actitudes que configuran una Iglesia “tentada”. Se trata de conocer ciertas propuestas actuales que pueden mimetizarse en la dinámica del discipulado misionero y detener, hasta hacer fracasar, el proceso de Conversión Pastoral.

1. La ideologización del mensaje evangélico. Es una tentación que se dio en la Iglesia desde el principio: buscar una hermenéutica de interpretación evangélica fuera del mismo mensaje del Evangelio y fuera de la Iglesia. Un ejemplo: Aparecida, en un momento, sufrió esta tentación bajo la forma de asepsia. Se utilizó, y está bien, el método de “ver, juzgar, actuar” (cf. n. 19). La tentación estaría en optar por un “ver” totalmente aséptico, un “ver” neutro, lo cual es inviable. Siempre el ver está afectado por la mirada. No existe una hermenéutica aséptica. La pregunta era, entonces: ¿con qué mirada vamos a ver la realidad? Aparecida respondió: Con mirada de discípulo. Así se entienden los números 20 al 32. Hay otras maneras de ideologización del mensaje y, actualmente, aparecen en Latinoamérica y El Caribe propuestas de esta índole. Menciono sólo algunas:
a) El reduccionismo socializante. Es la ideologización más fácil de descubrir. En algunos momentos fue muy fuerte. Se trata de una pretensión interpretativa en base a una hermenéutica según las ciencias sociales. Abarca los campos más variados, desde el liberalismo de mercado hasta la categorización marxista.
b) La ideologización psicológica. Se trata de una hermenéutica elitista que, en definitiva, reduce el ”encuentro con Jesucristo” y su ulterior desarrollo a una dinámica de autoconocimiento. Suele darse principalmente en cursos de espiritualidad, retiros espirituales, etc. Termina por resultar una postura inmanente autorreferencial. No sabe de trascendencia y, por tanto, de misionariedad.
c) La propuesta gnóstica. Bastante ligada a la tentación anterior. Suele darse en grupos de élites con una propuesta de espiritualidad superior, bastante desencarnada, que termina por desembarcar en posturas pastorales de “quaestiones disputatae”. Fue la primera desviación de la comunidad primitiva y reaparece, a lo largo de la historia de la Iglesia, en ediciones corregidas y renovadas. Vulgarmente se los denomina “católicos ilustrados” (por ser actualmente herederos de la Ilustración).
d) La propuesta pelagiana. Aparece fundamentalmente bajo la forma de restauracionismo. Ante los males de la Iglesia se busca una solución sólo en la disciplina, en la restauración de conductas y formas superadas que, incluso culturalmente, no tienen capacidad significativa. En América Latina suele darse en pequeños grupos, en algunas nuevas Congregaciones Religiosas, en tendencias a la “seguridad” doctrinal o disciplinaria. Fundamentalmente es estática, si bien puede prometerse una dinámica hacia adentro: involuciona. Busca “recuperar” el pasado perdido.

2. El funcionalismo. Su acción en la Iglesia es paralizante. Más que con la ruta se entusiasma con la “hoja de ruta”. La concepción funcionalista no tolera el misterio, va a la eficacia. Reduce la realidad de la Iglesia a la estructura de una ONG. Lo que vale es el resultado constatable y las estadísticas. De aquí se va a todas las modalidades empresariales de Iglesia. Constituye una suerte de “teología de la prosperidad” en lo organizativo de la pastoral.

3. El clericalismo es también una tentación muy actual en Latinoamérica. Curiosamente, en la mayoría de los casos, se trata de una complicidad pecadora: el cura clericaliza y el laico le pide por favor que lo clericalice, porque en el fondo le resulta más cómodo. El fenómeno del clericalismo explica, en gran parte, la falta de adultez y de cristiana libertad en buena parte del laicado latinoamericano. O no crece (la mayoría), o se acurruca en cobertizos de ideologizaciones como las ya vistas, o en pertenencias parciales y limitadas. Existe en nuestras tierras una forma de libertad laical a través de experiencias de pueblo: el católico como pueblo. Aquí se ve una mayor autonomía, sana en general, y que se expresa fundamentalmente en la piedad popular. El capítulo de Aparecida sobre piedad popular describe con profundidad esta dimensión. La propuesta de los grupos bíblicos, de las comunidades eclesiales de base y de los Consejos pastorales va en la línea de superación del clericalismo y de un crecimiento de la responsabilidad laical.
Podríamos seguir describiendo algunas otras tentaciones contra el discipulado misionero, pero creo que éstas son las más importantes y de más fuerza en este momento de América Latina y El Caribe.

5. Algunas pautas eclesiológicas

1. El discipulado-misionero que Aparecida propuso a las Iglesias de América Latina y El Caribe es el camino que Dios quiere para este “hoy”. Toda proyección utópica (hacia el futuro) o restauracionista (hacia el pasado) no es del buen espíritu. Dios es real y se manifiesta en el ”hoy”. Hacia el pasado su presencia se nos da como “memoria” de la gesta de salvación sea en su pueblo sea en cada uno de nosotros; hacia el futuro se nos da como “promesa” y esperanza. En el pasado Dios estuvo y dejó su huella: la memoria nos ayuda a encontrarlo; en el futuro sólo es promesa… y no está en los mil y un “futuribles”. El “hoy” es lo más parecido a la eternidad; más aún: el ”hoy” es chispa de eternidad. En el “hoy” se juega la vida eterna.
El discipulado misionero es vocación: llamado e invitación. Se da en un “hoy” pero “en tensión”. No existe el discipulado misionero estático. El discípulo misionero no puede poseerse a sí mismo, su inmanencia está en tensión hacia la trascendencia del discipulado y hacia la trascendencia de la misión. No admite la autorreferencialidad: o se refiere a Jesucristo o se refiere al pueblo a quien se debe anunciar. Sujeto que se trasciende. Sujeto proyectado hacia el encuentro: el encuentro con el Maestro (que nos unge discípulos) y el encuentro con los hombres que esperan el anuncio.
Por eso, me gusta decir que la posición del discípulo misionero no es una posición de centro sino de periferias: vive tensionado hacia las periferias… incluso las de la eternidad en el encuentro con Jesucristo. En el anuncio evangélico, hablar de “periferias existenciales” des-centra, y habitualmente tenemos miedo a salir del centro. El discípulo-misionero es un des-centrado: el centro es Jesucristo, que convoca y envía. El discípulo es enviado a las periferias existenciales.

2. La Iglesia es institución pero cuando se erige en “centro” se funcionaliza y poco a poco se transforma en una ONG. Entonces, la Iglesia pretende tener luz propia y deja de ser ese “misterium lunae” del que nos hablaban los Santos Padres. Se vuelve cada vez más autorreferencial y se debilita su necesidad de ser misionera. De “Institución” se transforma en “Obra”. Deja de ser Esposa para terminar siendo Administradora; de Servidora se transforma en “Controladora”. Aparecida quiere una Iglesia Esposa, Madre, Servidora, facilitadora de la fe y no controladora de la fe.

3. En Aparecida se dan de manera relevante dos categorías pastorales que surgen de la misma originalidad del Evangelio y también pueden servirnos de pauta para evaluar el modo como vivimos eclesialmente el discipulado misionero: la cercanía y el encuentro. Ninguna de las dos es nueva, sino que conforman la manera cómo se reveló Dios en la historia. Es el “Dios cercano” a su pueblo, cercanía que llega al máximo al encarnarse. Es el Dios que sale al encuentro de su pueblo. Existen en América Latina y El Caribe pastorales “lejanas”, pastorales disciplinarias que privilegian los principios, las conductas, los procedimientos organizativos… por supuesto sin cercanía, sin ternura, sin caricia. Se ignora la “revolución de la ternura” que provocó la encarnación del Verbo. Hay pastorales planteadas con tal dosis de distancia que son incapaces de lograr el encuentro: encuentro con Jesucristo, encuentro con los hermanos. Este tipo de pastorales a lo más pueden prometer una dimensión de proselitismo pero nunca llegan a lograr ni inserción eclesial ni pertenencia eclesial. La cercanía crea comunión y pertenencia, da lugar al encuentro. La cercanía toma forma de diálogo y crea una cultura del encuentro. Una piedra de toque para calibrar la cercanía y la capacidad de encuentro de una pastoral es la homilía. ¿Qué tal son nuestras homilías? ¿Nos acercan al ejemplo de nuestro Señor, que “hablaba como quien tiene autoridad” o son meramente preceptivas, lejanas, abstractas?

4. Quien conduce la pastoral, la Misión Continental (sea programática como paradigmática), es el Obispo. El Obispo debe conducir, que no es lo mismo que mandonear. Además de señalar las grandes figuras del episcopado latinoamericano que todos conocemos quisiera añadir aquí algunas líneas sobre el perfil del Obispo que ya dije a los Nuncios en la reunión que tuvimos en Roma. Los Obispos han de ser Pastores, cercanos a la gente, padres y hermanos, con mucha mansedumbre; pacientes y misericordiosos. Hombres que amen la pobreza, sea la pobreza interior como libertad ante el Señor, sea la pobreza exterior como simplicidad y austeridad de vida. Hombres que no tengan “psicología de príncipes”. Hombres que no sean ambiciosos y que sean esposos de una Iglesia sin estar a la expectativa de otra. Hombres capaces de estar velando sobre el rebaño que les ha sido confiado y cuidando todo aquello que lo mantiene unido: vigilar sobre su pueblo con atención sobre los eventuales peligros que lo amenacen, pero sobre todo para cuidar la esperanza: que haya sol y luz en los corazones. Hombres capaces de sostener con amor y paciencia los pasos de Dios en su pueblo. Y el sitio del Obispo para estar con su pueblo es triple: o delante para indicar el camino, o en medio para mantenerlo unido y neutralizar los desbandes, o detrás para evitar que alguno se quede rezagado, pero también, y fundamentalmente, porque el rebaño mismo también tiene su olfato para encontrar nuevos caminos.
No quisiera abundar en más detalles sobre la persona del Obispo, sino simplemente añadir, incluyéndome en esta afirmación, que estamos un poquito retrasados en lo que a Conversión Pastoral se refiere. Conviene que nos ayudemos un poco más a dar los pasos que el Señor quiere para nosotros en este “hoy” de América Latina y El Caribe. Y sería bueno comenzar por aquí.

Les agradezco la paciencia de escucharme. Perdonen el desorden de la charla y, por favor, les pido que tomemos en serio nuestra vocación de servidores del santo pueblo fiel de Dios, porque en esto se ejercita y se muestra la autoridad: en la capacidad de servicio. Muchas gracias (RC-RV)

7月27日(土)、徹夜祭での演説:あなたたちはより美しい教会とより良い世界の建設者なのです。


 パパとの2013年ワールドユースデーの祈りの徹夜祭はコパカバーナの岸辺で27日土曜日の夜に始まった。悪天候のためにグアラチバの「カンプス・フィデイ」は使えず、カリオカ三角州の、同様に世界じゅうからの何十万人の青年たちを、この青年の集い特有のカラフルな雰囲気の中で迎えた。祭りとまくし立てるような声、けれど同時に黙想と教皇を待つ集中に満ちていた。そして教皇の言葉はまさにわたしたちはいったい誰なのか、何へと呼ばれているのかをわたしたちに思い出させることになった。

 この夜、み言葉の祭儀には二つの時があって発展した。パパと青年たちとの対話と聖体行列、そして聖体礼拝である。最初の部分は教会を「建設する」ことに努めている何十人もの青年たちの参加による示唆的な劇に伴われて行われた。『あなたたちは信仰の耕地です。皆さんはキリストのアスリートです。皆さんはより美しい教会とより良い世界の建設者なのです」とフランシスコはリオに集まった青年たちに、そして彼らを通して、すべての青年に向かって語った。

青年たちとの徹夜祭中のパパの演説

愛する青年の皆さん、

 ほんの少し前にアシジの聖フランシスコの物語を思い起こしました。十字架の前でイエスの声を聞きます。「行きなさい、フランシスコ、そしてわたしの家を修復しなさい」。そして若いフランシスコは早速、寛大にこの主の呼びかけ、主の家を修復するということに応えます。少しずつ、それは大工になって石で作られた建物を修復するのではなく、教会のいのちに貢献することであると気づいてきます。教会を愛しつつ、その中でますますキリストの顔が反映されるために働きながら、教会の奉仕に自らを据えることが扱われています。今日も主はその教会に青年たちを必要としています。愛する青年の皆さん、主は皆さんを必要としています。今日もあなたたち一人ひとりを、その教会で主に従い、宣教者となるようにと呼んでいます。愛する青年の皆さん、主は今日みなさんを愛しています。大勢をいっぺんに愛しているのではなく、あなたを、あなたを、あなたを、一人ひとりを愛しています。心の中で何を彼が皆さんに語るかに耳を傾けなさい。この数日起こったことから何かを学ぶことができるでしょう。悪天候のために今夜の徹夜祭をグアラチーバの「カンプス・フィデイ(信仰耕地)」で行う予定だったのをキャンセルしなければならなかったように。「主がわたしたちに言おうとしているのは、ほんとうの信仰の農耕地、本物の「カンプス・フィデイ」は地理的な場所にあるのではなく、わたしたち自身だ、ということなのではないでしょうか?そうです、本当に、わたしたち一人ひとり、皆さん一人ひとり、わたし、全員です。そして弟子であり宣教者であるということは、わたしたちが神の信仰のキャンプ場であるということを知ることにあります。ですから、だからこそ、信仰の農耕地のイメージから、わたしは三つのイメージについて考えました。弟子であり宣教師である人であるとは何なのかをより分かりやすくするのを助けることのできる、三つです。最初のイメージは、種をまく土地、二つ目は、訓練の場としてのグランド、三つ目は、建設工事の場としての土地です。

1.最初に、種をまく場所としての耕地です。 誰もが種をまくために農地に出ていった種まきについて語るイエスの譬え話を知っています。ある種は道端に落ちたり、石の間に落ちたり、茨の真っただ中に落ちたりして、育つに至りませんでした。けれど他の種はよい土地に落ち、多くの実りをもたらしました(マタイ13章1―9節)。イエス自身が譬え話の意味を説明しました。種はわたしたちの心の中にまかれた神の言葉です(マタイ13章18―23節)。愛する青年の皆さん、それはほんとうのカンプス・フィデイは心であることを意味しています。神の言葉をわたしたちが受け入れる時、わたしたちが信仰の農地になっているのです。お願いですから、キリストその言葉が皆さんの人生の中に入るようにしなさい。神の言葉の種が入るようにしなさい。芽を出させなさい。育つようにしなさい。神がすべてをなさるのですが、皆さんはそれを神にさせなさい。彼がその成長において働くように。

 イエスは道端や石の間や茨の間に落ちた種は実りをもたらさなかったとわたしたちに言っています。わたしは、正直に言って、次のような問いかけをすることができると思います。「わたしたちはどのようなタイプの農地なのだろう?」、「わたしたちはどのような農地になりたいと望んでいるのだろう?」おそらく、しばしばわたしたちは道の様かもしれません。主に耳を傾けるけれど、人生において何も変わらない、なぜなら耳に入ってくる表面的な実に多くの主張でとろっぽくなるに任せてしまうからです。わたしたちは皆さんに尋ねますが、今は答えないでください。一人ひとり自分の心の中で答えなさい。「わたしはとろっぽい青年男子、青年女子でしょうか?」「それとも石だらけの土地でしょうか?」。熱心にイエスを迎え入れるけれど、継続的ではなく、困難を前に、流れに逆らっていく勇気がないような。一人ひとり自分の心で答えましょう。「わたしには勇気があるのだろうか?それとも臆病なのだろうか?」「あるいは茨だらけの土地だろうか?物事や否定的な情がわたしたちの中で主の言葉を息苦しくしているような(マタイ13章18―22節参照)。「わたしの心には二つの極端で自分を演じて神とも悪魔ともうまくやっていけるようにする習慣がないだろうか?」それぞれ沈黙のうちに答えましょう。今日、しかしながらわたしは種はよい土地に落ちたと確信しています。わたしたちはこうした証言をよい土地に落ちた種として聞きました。「いいえ、神父さん、わたしはいい土地なんかではありません。わたしは厄介者です。わたしには石も茨もたくさん、色んなものでいっぱいです。そうです、わたしはそれが上で言われたようなものもないわけではないのですが、ほんのかけらがあるだけ、ほんのちょっとだけ良い土地があるだけです。だったらそこに種が落ちるようにしなさい。そうすればどう芽生えるかを見ることになるでしょう。わたしは皆さんが良い土地になりたい、パートタイムのキリスト者ではなく、取り澄ました、キリスト者のように見えるけれど深い所では何もしていない、鼻のそうなったようなキリスト者でもなく、本気のキリスト者になりたいと望んでいることを知っています。顔だけのキリスト者ではない。そうしたキリスト者はただの見せかけだけです。そうではなく、ほんもののキリスト者になりたい、と。わたしは、皆さんが流行や一時の都合で引きずられるような味のない自由を生きたいとは望んでいないことを知っています。わたしは、皆さんが高いものを目指し、満ち満ちた意義を与えるような決定的な決断を目指していることを知っています。それとも、わたしは勘違いしていますか?もしわたしの思っている通りなら、ちょっと全員沈黙をしてみましょう。自分の心を見ましょう。そして一人ひとり、イエスに自分はその種をほしいと言いましょう。イエスにこう言いなさい、「イエスさま、こんなにも石があります、見てください。見てください、茨だらけです。雑草を見てください。でもあなたに差し出すこのほんの少しの土地を見てください。そこに種が落ちるように」。沈黙のうちにイエスの種が入るようにしましょう。(沈黙)。この時のことを覚えていなさい。一人ひとり入ってきた種に名前があり、その名前は何かを知っています。これが育つようにしなさい。神さまは皆さんを手塩にかけてくれます。

2.訓練の場としてのグランド。イエスはわたしたちが全生活をかけて自分に従うようにと求めています。わたしたちがその弟子となるように、「彼のチームでプレイをするように」求めています。ここにいる皆さんのほとんどはスポーツが好きなのではないかと思います。そして、ここブラジルでは、他の国々のように、サッカーは国民的な情熱のもとです。ところで、チームを組むために呼ばれた時、選手は一体何をするでしょうか?訓練をしなければなりません。たくさん特訓をするのです。そのように、わたしたちの主の弟子としての生活も同じです。聖パウロはわたしたちにこう言います。「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです」(Iコリ9章25節)。イエスはワールドカップよりももっと偉大な何かをわたしたちに差し出すのです!わたしたちに実りある幸せな人生の可能性を差し出し、また主との終わりのない未来、つまり永遠の命をも差し出します。けれど、「フォーメーションを組む」ために、恐れることなく人生のあらゆる状況に、自分の信仰の証しをしながら立ち向かうために、わたしたちが訓練をするようにと願っているのです。どのように?主との対話を通して。つまり祈りです。祈りは、いつもわたしたちに耳を傾けてくださる神さまとの日々のおしゃべりです。わたしたちの中でその現存を育て、わたしたちをキリストの姿にコンフィグレーションしていく秘跡を通して。耳を傾け、理解し、ゆるし、受け入れ、他者を助け、誰も疎外せず、除外せずすべての人を助けることを知っている兄弟愛を通して。愛する青年の皆さん、ほんものの「キリストのアスリート」になりなさい!

3.建設工事の場としての土地。わたしたちの心が、キリスト者として生きようとして、神の言葉を受け入れる良い土地である時、(しっかり訓練することで)「シャツが汗でびっしょりになる」とき、何か大きなことを経験します。わたしたちは決して一人ぼっちにはなりません。同じ道をめぐりゆく兄弟たちからなる一つの家族の一部を成すのです。わたしたちは教会の一部です。さらに、わたしたちは教会の建設者になります。歴史の主役になるのです。聖ペトロは、わたしたちは霊的な家を形作る生きた石であると言っています(Iペトロ2章5節)。そしてこのボックス席に目を向けると、石と煉瓦でできた教会の形をしているのが見受けられます。イエスの教会には、生きた石があります。わたしたちです。そしてイエスはわたしたちにご自分の教会を建てるようにと願います。そしてほんの小さなグループの人たちがはいれるような小聖堂のようにではありません。その教会は全人類が入ることができるほどにしっかり大きくあるようにと求めます。全員の家となるようにです。イエスはわたしに、あなたに、一人ひとりに言います。「行きなさい、すべての民を弟子にしなさい」。この夕刻、彼にこう答えましょう。「はい、わたしも生きた石でありたいです。わたしたちは一緒にイエスの教会を建設したいのです。一緒に言いましょう。「わたしは行って、キリストの教会の建設者になりたい」

 皆さんの若い心はより良い世界建設の望みを宿しています。わたしは、世界の様々な場所で(ここ、ブラジルにおいても)、実に多くの青年がより公正で兄弟愛に満ちた市民化の望みを表現するために道に出て行ったということに関するニュースを注意深く追ってきました。彼らは変化の主役になりたい青年たちです。わたしは、まとまった、平和裏な、責任のある、福音の価値によって動かされた形で、みなさんが無感覚を乗り越え、それぞれの国に現存する社会・政治的な不安にキリスト教的答えを差し出し続けていくようにと促します。しかしながら、問いが残ります。「どこから始めればいいのか?」マザー・テレサに教会で何が変わらなければならないかを尋ねた時、彼女は「あなたとわたしです」と答えました。

 愛する友の皆さん、忘れないでください。みなさんが信仰の土地であるということを。 皆さんはキリストのアスリートなのです。皆さんはより美しい教会とより良い世界の建設者なのです。わたしたちの眼差しをおとめマリアに向けましょう。マリアはわたしたちがイエスに従うのを助けてくれます。わたしたちに神への「はい」と言う返事をもった模範を示してくれます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりにこの身になりますように」(ルカ1章38節)。これをわたしたちも、マリアと共に神に言いましょう。「お言葉どおり我になれかし」、と。なれかし(アーメン)。

2013年7月27日土曜日

7月26日(金)、WYD中の十字架の道行、招きのことば:わたしたちの人生の中で、その大小を問わず、主がわたしたちと分かち合わない十字架はない


 十字架の道行は、エルサレムにおけるイエスが歩いた苦しみの道であるが、金曜日に、パパの面前で、コパカバーナで行われた十字架の道行は青年たちによって再解釈されて作られたものである。この夜、それぞれの留では今の青年たちに直接関連するようなテーマのいくつかが繰り広げられた。宣教、回心、共同体、未成年でお母さんになる女の子、神学生、いのちの保護における宗教、夫婦や恋人、苦しむ女性、学生、ネットワーク、留置所の青年たち、刑務所司牧、不治の病、早死に、全世界の青年層・・・。黙想のテキストは、ブラジルで青年への献身でよく知られたデオニア修道会のゼジーニョ神父とジョアンジーニョ神父の手で整えられた。ワールドユースデーに来た何十万人の信徒や巡礼者たちに向けて、パパは、自分の側にアルゼンチンのダンボール拾いの野宿労働者グループを呼びたいと望みつつ、「イエスはその十字架を担いでわたしたちの使っている通りを、わたしたちの怖れや問題、苦しみを、それこそ最も深い苦しみまでをも担ぐために歩きまわります」と語った。

十字架の道行の時の教父の演説
愛する青年の皆さん、


 わたしたちは今日ここに来て、イエスの痛みと歩みの道、十字架の道行きの道のりをイエスと共にします。それはワールドユースデーの中でもとてもインパクトの強い瞬間のひとつです。あがないの聖年を結ぶにあたって、福者ヨハネ・パウロ二世は皆さん、青年たちに十字架を委ねようと望みました。そしてこう言いました。「イエスの人類への愛のしるしとして世界じゅうにこれを運んでください、そしてすべての人にただ十字架につけられて死に復活したキリストにおいてのみ救いとあがないがあるのだということを伝えてください」(1984年4月22日、聖年の十字架を青年たちに渡すにあたってのことば。Insegnamenti VII,1 (1984), 1105)。その時から、この十字架は全大陸をめぐり、人間の存在の様々な世界を通って来ました。ほんとうに多くの青年たちが見、抱えている生の状況が刻まれていると言えるでしょう。自分自身の何かを残さずに、また自分自身の人生にイエスの十字架から何かをもっていかずには、だれもイエスの十字架に触れることはできません。この夜、主に従いながら、皆さんの心に三つの問いかけをしてほしいと思います。「ブラジルの青年の皆さん、この壮大な国をめぐった二年間、みなさんは十字架の中に何を置いてきましたか?」「十字架は皆さん一人ひとりの中に何を残しましたか?」そして最後に、「この十字架はわたしたちの人生に対して何を教えていますか?」

1.古いローマの教会の伝統でこのような話があります。使徒ペトロが、皇帝ネロの迫害から逃れようとして町から出て言っていたときに、自分の逃げている方向と反対側に向かってイエスが歩いているのを見たので、すぐに尋ねました。「主よ、どこに行かれるのですか?(クォ・ヴァディス・ドミネ?」。イエスの答えは「わたしはもう一度十字架にかかるためにローマにいくのだよ」。その時、ペトロは勇気をもって最後まで主に従わなければならなかったことを理解しました。けれど、何よりも理解したことは、自分がその歩みにおいて一度も一人きりになったことはなかったということでした。自分と一緒にいつもあのイエスが、十字架で死ぬほどまでに自分を愛して下さったあのイエスがいたことを悟ったのです。見なさい。十字架を担いだイエスがその十字架を担いでわたしたちの使っている通りを、わたしたちの怖れや問題、苦しみを、それこそ最も深い苦しみまでをも担ぐために歩きまわります。十字架を担いで、イエスはもはや叫ぶことすらできなくなった暴力の犠牲者の沈黙に自分を重ね合わせます。特に無垢な人々や自分を守ることのできない人たちにです。十字架を担いで、イエスは子どもと死に別れて泣いていたり、麻薬のような人工的な天国の犠牲者となっているのを見て苦しんでいたりする、困難にある家族と一つになります。十字架を担いで、イエスは毎日何トンもの食料を捨てている世界の中で、飢餓に苦しんでいる人々と一つになります。十字架を担いで、イエスは自分の持っている宗教や考えのため、あるいはただ皮膚の色が違うというだけで追われている人々と一つになります。十字架のうちに、イエスは利己主義や汚職を見て、政治機関への信頼を失った多くの青年たち、あるいはキリスト者や福音の奉仕者の言行不一致のために教会への信頼、更には神への信仰を失ってしまった青年たちと一つになります。キリストの十字架の中に、人間の苦しみや罪があります。それはわたしたちの苦しみや罪でもあります。そしてイエスはすべてを、両腕をいっぱいに広げて迎え、自分の背中にわたしたちの様々な十字架を背負い、こう言います。「盛り上がっていこう(がんばれ)!君は独りでこれを運んでいるわけじゃないんだ。君と一緒にわたしがそれを担いでいるんだ。そしてわたしは死に打ち勝った。わたしは君に希望を与え、いのちを与えるために来たんだ(ヨハネ3章16節参照)」と。

2.そうして二つ目の問いに応えることができます。十字架はこれを見た人々に、これに触った人々に何を残したのでしょうか?わたしたち一人ひとりに何を残すのでしょうか?他の誰もわたしたちにもたらすことのできないよいものを残します。神の尽きることのない愛の確信です。わたしたちの罪の中にまで入り込み、それを赦し、わたしたちの苦しみの中に入り込んでわたしたちにこれを乗り越える力を与え、わたしたちの死にも入り込んでこれに打ち勝ちわたしたちを救うほどの、ともかく大いなる愛です。キリストの十字架の中に、神の愛すべてが、その超大なあわれみがあります。そしてそれは信頼に値する愛、信じることのできる愛なのです。愛する青年の皆さん、イエスに信頼しましょう。彼にまったき信頼を置きましょう(回勅『ルーメン・フィデイ』16参照)。死んで復活したキリストにおいてのみ、救いとあがないを見出すことができます。キリスト共にいるならば、悪や苦しみ、死にはとどめの言葉はありません。なぜならキリストがわたしたちに希望といのちを下さるからです。憎しみと破壊、死の道具であった十字架は愛と勝利、いのちのしるしに変化したのです。

 ブラジルは最初、まさに「聖なる十字架の地」という名で呼ばれていました。キリストの十字架は500年以上前に波打ち際に打ち立てられただけではなく、歴史の中に、心の中に、ブラジルの民の生活の中に、そして他の多くの人々の中に打ち立てられたのです。苦しむキリストに、わたしたちは近さを感じます。最後までわたしたちの歩みを分かち合ってくれる人、わたしたちのうちの一人であると感じます。わたしたちの人生の中で、その大小を問わず、主がわたしたちと分かち合わない十字架はありません。

3.けれど十字架は、この愛によって感染されるようにともわたしたちを招きます。わたしたちにそうやって他の人、特に苦しむ人、助けを必要としている人、ほんの一言、一つの仕草を待っている人、わたしたちが自分の殻を出て出会いに行って手を伸ばすのを待っている人を、いつも憐れみと愛をもって見つめるようにと教えます。カルワリオへのその歩みにおいてイエスについてきた顔ぶれはたくさんです。ピラト、キレネ人、マリア、婦人たち・・・。わたしたちも他の人を前にして、イエスのいのちを救うために流れに逆らっていく勇気がなくて手を洗うピラトのようになることもありえます。愛する友の皆さん、キリストの十字架はあの重い木を運んでイエスを助けるキレネ人、愛と温もりをもって最後までイエスについていくのに恐れをなさないマリアや婦人たちのようになるようにと、わたしたちに教えています。そして、君は、誰ですか?ピラトのようですか?キレネ人に似ていますか?マリアのようですか?

 愛する青年の皆さん、キリストの十字架のところにわたしたちの喜び、わたしたちの苦しみ、わたしたちの失敗を持っていきましょう。わたしたちを理解し、わたしたちを赦し、わたしたちを愛し、わたしたちの人生にこの同じ愛を持っていき、わたしたちの一人ひとりの兄弟姉妹をその同じ愛を持って愛するようにと求める開かれた心を見出すでしょう。なれかし(アーメン)

7月26日、お告げの祈り:母に向かう大きな一つの家族

「お告げの祈り」の前のパパのことば
 

愛する兄弟であり友人である皆さん、おはよう!

 わたしの歩みをここ、リオ・デ・ジャネイロの聖セバスチャンまで導いてくれた神の摂理に感謝します。まっすぐな心でオラニ枢機卿とまた皆さんに、ペトロの後継者に情愛を示して下さっているその温かい歓迎に感謝します。このリオの街を回るわたしの歩みが、皆さんの中でキリストと教会への愛、キリストと一つである喜びと教会に所属する喜び、生きる約束と信仰の証しをする約束を刷新できたらいいと思っています。

  アンジェルスの祈りは信仰のとても美しい大衆的表現です。ブラジルでは、マリアの時間と呼ばれています。これはシンプルな祈りで、一日のうち三回唱える時間があり、わたしたちの日々の活動にリズムを刻みます。朝、正午、そして夕方です。けれどこれは重要な祈りなのです。皆さんを招いてアヴェ・マリアの祈りを唱えます。歴史を変えた輝かしい出来事が思い返されます。受肉です。神の子がナザレのイエスのうちに人となったのです。

 今日、教会はおとめマリアの両親、イエスのおじいちゃんとおばあちゃんを祝っています。聖ヨアキムとアンナです。彼らの家でマリアがこの世にやって来ました、無原罪の宿りという常軌を逸した神秘をその身に帯びて。その家で二人の愛と信仰に寄り添われてマリアは育ちました。その家で主に耳を傾けそのみ旨に従うことをマリアは学びました。聖ヨアキムとアンナは神の愛、家庭の温もりを伝えるその長い連鎖の一部となり、こうしてマリアまで至りました。マリアはその胎内に神の子を宿し、この世に送り、わたしたちに与えてくれました。ここに家庭の貴い価値を見ることができます。家庭は信仰を伝えるための特別な場なのです!家庭環境について触れながら、わたしは一つ強調したいことがあります。今日、この聖ヨアキムとアンナの祝日に、ブラジルにおいても他の国々においても、高齢者の日が祝われています。人類のその遺産と全社会にとって本質的である信仰を伝えるための家族の生命において彼らはどれほど重要なことでしょう!そして特に家庭において、世代間の出会いと対話がどれほど重要なことでしょう!アパレシーダの決議文書はわたしたちにこう記憶させています。「子どもたちと高齢者は民の未来をなします。子どもたちは、歴史を前進させるからで、高齢者はそのいのちの経験と知恵を伝えるからです」(447番)。この関係、この世代間の対話は、保ち培うべき宝です。このワールドユースデーにおいて、青年たちはおじいちゃんおばあちゃんに挨拶をしたいと望んでいます。そして愛情いっぱいにお年寄りに挨拶をします。愛情いっぱいにお年寄りに挨拶をしましょう。そして青年である彼らは愛情たっぷりでお年寄りに挨拶し、たゆまなくわたしたちに提供する知恵の証しに感謝しています。

 今、この広場で、その前に横たわっている道という道で、わたしたちと共にこの祈りの時を体験している家々で、大きな家族として自分たちのことを感じ、マリアに心を向けて、わたしたちの家族をマリアが守り、これを信仰と愛の巣とし、そこで御子イエスの現存を感じられるようにしてくれるようにと祈りましょう。

(RC-RV)

2013年7月26日金曜日

7月25日木曜日、WYDにて(その2、説教):信頼を置きなさい。、そうすればあなたの人生に新しい味わいが加わるでしょう

青年たちによる歓迎の式典でのパパのことば

聖書朗読:ルカ9章28節b―36節:「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです!」



 イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロは、自分でも何を言っているのか、分らなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れ て彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえ た。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。


愛する青年の皆さん、

 「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」。ペトロは、栄光を身に帯びて変容した主イエスを見た後、こう叫びました。わたしたちもこの言葉を繰り返すことができるでしょうか?わたしはできる、と思います。なぜならわたしたち全員にとって、今日、ここにいてイエスの周りに集まっていることはすばらしいことだからです。イエスこそがわたしたちを迎え入れ、わたしたちの真っただ中で、このリオで、いてくださる方なのです。けれどわたしたちが今聞いた福音では父の言葉も聞こえます。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9章35節)。ですから、もし一方でイエスがわたしたちを迎えるなら、もう一方で、わたしたちも彼を迎え入れなければならないのです。その言葉を聞く姿勢を示すべきなのです。なぜならそれこそがイエス・キリスト、肉体をとったみ言葉を迎え入れることだからです。それは聖霊のようにわたしたちを変え、未来の道を照らし、わたしたちのうちに希望の翼を育て、喜びをもって歩むことができるようにしてくれるのです(回勅『ルーメン・フィデイ』7)。

 けれど何をしなければならないのでしょうか?「ボタ・フェ=信頼を置くこと」です。ワールドユースデーの十字架はブラジル中を巡礼した道すがらこの言葉を叫んでいました。「信頼を置く」とは、どういうことでしょう?おいしい料理を準備する時、塩が足りないのに気付いたら塩を「入れ(置き)」ます。油が足りないなら、油を「入れ(置き)」ますね。「置く」というのはつまり、加える、入れる、という意味です。愛する青年の皆さん、わたしたちの人生でも同じことが起こります。もし皆さんが望みそれにふさわしい通りに、人生に本当に意味があるように、満たされたものであるようにと望むなら、男の子にも、女の子にも一人ひとりにわたしは言います。「信頼を置きなさい」そうすればあなたの人生に新しい味わいが加わるでしょう。皆さんに方向性を示す羅針盤が与えられるでしょう。「希望を置き(持ち)なさい」そうすればあなたの日々の生活は照らされ、あなたの見る地平はもはや暗くはなく、輝かしいものとなるでしょう。「愛を置き(抱き)なさい」そうすればあなたの存在は岩の上に立てられた家のようになり、あなたの道は喜びに満ちたものになるでしょう。なぜならあなたと共に歩む多くの友人に出会うからです。信仰、希望、愛を置き(持ち)なさい!

訳者注:「poner(西)/pôr(葡)=置く」という単語での言葉遊びだが、
日本語では対照によって据える、入れる、加える、と別の動詞が使われるため
訳出が困難ですみません。「据える」というのがいちばんしっくりくるかと・・・。

 けれど、誰がわたしたちにこれを下さるのでしょうか?わたしたちが先ほど聞いた福音に答えがあります。キリストです。「これはわたしの愛する子、選ばれし者。これに聞け」。イエスこそがわたしたちに神をもたらし、わたしたちを神のもとに連れていく方です。イエスと共にいるとわたしたちの全生活が変えられ、新たにされ、わたしたちは新しい目で、イエスの視点から、同じイエスの眼差しで現実を見ることができるようになるのです(回勅『ルーメン・フィデイ』18)。だから、力を込めて今日みなさんにわたしは言います。「キリストを据えなさい」、あなたの生活に。そうすればあなたはいつもあなたを信頼してくれる友人に出会えるでしょう。「キリストを据えなさい」、そうすれば未来の道を喜びをもって駆け巡るための希望の翼が育っていくのをあなたは見ることになります。「キリストを据えなさい」そうすればあなたの人生はその愛に満たされ、実りをもたらす人生となるでしょう。

 今日、わたしは、わたしたち全員が素直に自問したらいいと思っていることがあります。「わたしたちは誰に信頼を置いているのでしょうか?、わたしたち自身でしょうか?何かの物質でしょうか?それともイエスにでしょうか?」と。わたしたちには、自分を自分の中心に置き、自分で自分の人生を一人で作り上げてきたと信じる誘惑があります。あるいは物を持つこと、金銭、権力といったもので幸せになろうとする誘惑があります。けれど、それでは幸せにはなりません。持つこと、金銭、権力というのは束の間の酔いしれた感覚、幸せなような幻想は提供しますが、最終的には、わたしたちを支配し、わたしたちがますます多くのものを持ちたいと望むようにし、決して満足できないようにするのです。あなたの人生に「キリストを据えなさい」!イエスに信頼を置きなさい。そうすれば裏切られることはありません!ごらんなさい、愛する友の皆さん、信仰はわたしたちの人生をコペルニクス的とも言いうる改革へと導くことになります。なぜならわたしたちを中心からどかし、そこに神を据えるからです。信仰はわたしたちを、安全と力と希望をわたしたちにもたらすその愛であふれ返らせるのです。一見何も変わっていないかのように見えるけれど、わたしたち自身の最も深い所で、すべてが変わるのです。わたしたちの心の中に平和と甘みのある優しさ、温もり、熱意、落ち着き、喜びといった聖霊の実(ガラテヤ5章22節参照)が宿り、わたしたちの存在は変えられ、考え方や働き方は新たにされ、イエスの、つまり神の考え方や働き方に姿を変えるのです。信仰年において、このワールドユースデーは、まさにさらにもっと主に近づき、主の弟子、主の宣教者となり、わたしたちの人生を彼が刷新するようにと任せるためにわたしたちに与えられる一つのプレゼントです。

 愛する青年男子の君、愛する青年女子のあなた、自分の人生に「キリストを据えなさい」。ここ数日のうちに、彼はあなたをそのみ言葉の中で待っています。注意して聞きなさい。そうすればあなたの心はその現存で燃え上がるでしょう。「キリストを据えなさい」。キリストはあなたをゆるしの秘跡の中で迎え入れ、その憐れみをもって、罪の傷口を癒して下さいます。ゆるしを求めることを恐れてはなりません。わたしたちを愛する父親として、彼は決してわたしたちを赦すのに疲れを覚えません。神はまったくもってあわれみそのものなのです!『キリストを据えなさい』。キリストは聖体祭儀、その現存の秘跡、愛の犠牲の中でその肉体を伴う出会いのうちに、またその友情をもってあなたを豊かにし、その信仰の証しをもってあなたを愛し、愛徳と善意と奉仕の言葉づかいをもってあなたに教える多くの青年たちの人間性の中であなたを待っています。あなたも、愛する青年の君、愛する青年のあなたも、その愛の喜びに満ちた証し人、わたしたちのこの世界に光を少し運ぶためにその福音の熱心な証し人となることができるのです。

 キリストを据え、キリストがわたしたちの人生の中でわたしたちに下さる信頼を抱き、希望を持ち、愛を据えながら「わたしたちがここにいるのは、なんとすばらしいことでしょう」 。愛する友の皆さん、この祭典の中で、わたしたちはアパレシーダのマリア像を迎え入れました。わたしたちはマリアと共に、弟子たち、宣教者たちになりたいと思っています。マリアのように、神に『はい』という答えをしたいと思います。そのマリアの心の中で、わたしたちのために取り次いで下さるようにと願いましょう。そうしてわたしたちの心が、イエスを愛し、イエスに愛される心構えをすることができますように。イエスはわたしたちを待っており、わたしたちを頼みにしているのです!アーメン。

7月25日木曜日、WYDにて(その1、最初の挨拶):愛を込めて、ここにいる、五大陸からやって来た皆さんに挨拶します。そして、皆さんを通して、世界じゅうの青年たちすべてに挨拶します。


 コパカバーナの岸辺はものすごい祭りの雰囲気に包まれていた。教皇と世界じゅうの青年たちとの盛大な出会いの時である。フランシスコが呼んだように、「青年の週」の木曜日の午後は、リオとある意味では全ブラジルのアイデンティティとも言いうる浜辺での、パワフルな時間のひとつとなった。歌や祈りの時間、内省や回想の時間の合間に、「信仰のリオ」と呼ばれる劇があり、150人の青年男女が、「素晴らしい街」の日々の生活を舞台化した。

 五大陸からの五人の青年たちは代表者として、ワールドユースデーに参加するために来た教皇に挨拶をした。イベントはみ言葉の祭儀の形で進められた。「キリストを自分の生活の中に据えなさい」というのは青年たちへの教父の勧告であった。「ここ数日、イエスはそのみ言葉の中であなたを待っています。よく聞きなさい。その現存があなたの心を燃え立たせるでしょう。『キリストを据えなさい』。キリストはあなたをゆるしの秘跡の中で迎え入れ、その憐れみをもって、罪の傷口を癒して下さいます。ゆるしを求めることを恐れてはなりません。わたしたちを愛する父親として、彼は決してわたしたちを赦すのに疲れを覚えません。神はまったくもってあわれみそのものなのです!『キリストを据えなさい』。キリストは聖体祭儀、その現存の秘跡、愛の犠牲の中でその肉体を伴う出会いのうちに、またその友情をもってあなたを豊かにし、その信仰の証しをもってあなたを愛し、愛徳と善意と奉仕の言葉づかいをもってあなたに教える多くの青年たちの人間性の中であなたを待っています。あなたも、愛する青年の君、愛する青年のあなたも、その愛の喜びに満ちた証し人、わたしたちのこの世界に光を少し運ぶためにその福音の熱心な証し人となることができます」。

歓迎のフェスタにおける世界じゅうの青年たちへのパパのあいさつ

愛する青年の皆さん、


 こんばんわ。

 皆さんの間にキリストの若い顔の美しさを見ています。そしてわたしの心は喜びで満たされています。わたしは国際レベルでの初のワールドユースデーのことを思い出しています。1987年にアルゼンチンで、わたしの町、ブエノスアイレスで行われました。青年たちへのヨハネ・パウロ二世の次の言葉をはっきりと記憶しています。「あなたたちにたくさんの希望をもっています!なによりも皆さんがイエス・キリストとその贖いの十字架への忠誠を新たにするようにとわたしは望んでいます」(1987年4月11日、青年たちへの演説: Insegnamenti, X/1 [1987], p. 1261)。

 続ける前に、フランスのグヤナでの悲劇的な事故のことを思い起こしたいと思います。この集いに来ようとしていた青年たちが被った事故です。そこで、青年のソフィー・モリニエールさんが命を落とし、他の青年たちは傷を負いました。一緒に少し沈黙して、ソフィーのため、負傷者のため、その家族のためにわたしたちの父である神に祈りましょう。

 (沈黙)

 今年、ワールドユースデーが二度目に、ラテン・アメリカに帰って来ました。そしてみなさん、青年の皆さんはベネディクト十六世がこの祝いのために呼びかけたこの招きにこんなに多く答えました。ベネディクト教皇に心から感謝します。わたしたちをここに呼んでくださったのは彼です。そして彼に挨拶と盛大な拍手を送りましょう。皆さん知っていますよね、わたしがブラジルに来る前に、ベネディクト教皇と話をしていました。そしてこの旅行に祈りをもって伴ってくださいとお願いしたところ、祈りをもって伴いますよ、そしてテレビの前にいますよ、とおっしゃいました。そういうわけで、今わたしたちを見ていらっしゃるんです。

 わたしのまなざしはこの大群衆に向かいます。みなさんは、なんと大勢でしょう!全大陸からやって来たんですね。遠くから、しばしば地理的にだけではなく、存在の視点から見ても、文化や社会、人間的な意味でも遠くから来ましたね。けれど今日、みなさんはここにいます。というより、わたしたちは、一緒にここにいます。信仰を分かち合うため、キリストとの出会いの喜び、キリストの弟子である喜びを分かち合うために。

 今朝、リオは教会の中心となっています。その教会の生きた若い心臓部で。なぜなら皆さんは寛大に熱意をもってイエスが皆さんにした、彼と共にいて、彼の友達であるようにとの招きに答えたからです。

 このワールドユースデーという列車は、遠くからやってきて、ブラジルという国の中を通り、「ボタ・フェ=信頼しなさい」というプロジェクトの段階を経てやってきました。今日、リオ・デ・ジャネイロに到達しました。コルコバードの丘から、あがない主キリストがわたしたちを抱きしめ、わたしたちを祝福します。この海、浜辺、そして皆さん全員を見ながら、わたしの脳裏にはイエスが最初の弟子たちをティベリア湖畔で呼ばれた時のことが思い返されます。今日、イエスはわたしたちに問いかけ続けています。「わたしの弟子になりたいかい?わたしの友達になりたいかい?福音の証し人になりたいかい?」と。信仰年の心臓部にあたり、この問いかけはわたしたちのキリスト者としての献身を刷新するようにと招いています。みなさんの家族と現地共同体はみなさんに信仰の大いなる恵みを伝えてきました。キリストは皆さんの中で成長してきたのです。今日、イエスはここに来て、この信仰、皆さんの間に住んでいる生きたキリストへの信仰においてみなさんを確かなものとしたいと望んでいます。けれどわたしも、皆さんの信仰の熱心によって確かなものとされるために来たのです。皆さんは一人の司教の人生に、解決を求める多くの問題があり、こうした問題や困難によって司教の信仰が悲しいものになりえるということを知っているでしょう。悲しい司教というのは、いやなものです。なんといやなものでしょう!わたしの信仰が悲しいものとならないように、みなさんの熱心に伝染されようと思ってわたしはここに来たんです。

 愛を込めて、ここにいる、五大陸からやって来た皆さんに挨拶します。そして、皆さんを通して、世界じゅうの青年たちすべてに挨拶します。特に、リオ・デ・ジャネイロに来たかったけれどかなわなかった青年たちに挨拶します。ラジオやテレビ、インターネットでこの放送を見ている皆さんに言います。「この信仰の祭典に、ようこそ!」世界の様々なところで、多くの青年たちが今、この今という時にいるわたしたちと共に生きようと集まっています。互いに喜びのうちに、友情のうちに、信仰のうちに一つであると感じ合いましょう。そしてわたしの牧者としての心は普遍的な情愛をもって皆さん全員を抱きしめていると確信して下さい。なぜなら今日一番大切なのは、皆さんのこの集い、メディアを通してわたしたちにフォローしている全青年たちとの全員での集いなのですから。あがない主キリストは、コルコバードの丘のてっぺんから、皆さんを迎え、リオのこの最高に美しい街で皆さんを抱きしめていますよ!

 特別な挨拶を、信徒評議会の議長、愛すべき疲れを知らぬスタニスラフ・リルコ枢機卿と、彼と協力している人たちに向けたいと思います。リオ・デ・ジャネイロの聖セバスチャン大司教区のオラニ・ジョアオン・テンペスタ枢機卿に、わたしに向けられた心のこもった歓迎に感謝します。さらにここで、カリオカ(リオ州出身者)は歓迎に長けていますね、と言いたい。盛大な歓迎の仕方を知っており、この壮大なブラジルの様々な教区と共にその補佐司教たちと共に、このワールドユースデーを準備するために実現してきた大仕事に感謝します。また、わたしの感謝の気持ちは国や州、現地の権威あるすべての人々、そして一致と信仰と兄弟愛のこの祭典のまたとない時を可能にするために貢献してくれたすべての人々に向かいます。兄弟である司教たち、司祭たち、神学生たち、聖職者たち、青年たちに寄り添う忠実な信徒の皆さん、この惑星の様々なところからイエスへの巡礼を続けておられる皆さん、ありがとう。皆さんを、そして一人ひとりを、イエスにおいて、イエスと共に抱きしめます。

 兄弟であり友である皆さん、このリオ・デ・ジャネイロの素晴らしい街での第28回ワールドユースデーに、ようこそ!

7月25日、アルゼンチンの青年たちと共に


 数多くの活動のただ中で、アルゼンチン人教皇は、リオ・デ・ジャネイロのカテドラルに集まった同郷の青年たちに挨拶をした。ブラジルのメトロポリスにいた彼らに、自国に留まった人々にも、感動的な言葉を向けた。

 パパ・フランシスコのアルゼンチン青年へのことば
 ありがとう。ここにいてくれて、来てくれて、ありがとう。中にいる人たち、ありがとう。外にいる大勢の皆さんに、ありがとう。外に3万人もいると聞きました。ここから挨拶します。みんな雨に降られているんですね。(沈黙)。近づいてくれるその行為に、ありがとう。ワールドユースデーに来てくれて、ありがとう。


 わたしはこれを取り扱っている、旅行を企画しているガスバッリ博士に、みなさんと会うスペースが少しでいいからないかと尋ねました。それで正午ごろから全部調整してくれました。ですので、公にガスバッリ博士にも、このことが今日実現できたことで感謝します。

 一つ言いたいことがあります。ワールドユースデーの結果としてわたしが何を期待しているか、です。わたしは厄介事(Lから始まるリオ)を期待しているんです!この中に厄介事があるのでしょうか?あります!リオ(デ・ジャネイロ)に厄介事(Lから始まるリオ)があるのでしょうか?あります!けれど各教区に厄介事を求めています。外に出ていってほしいのです!教会が道端に出ていくようにと望んでいるのです!世俗的であるようなことから、慣れ親しんだことから、楽な状態から、聖職権主義から、わたしたち自身に閉じこもるようなことすべてからわたしたちが守られるようにと望んでいるのです!小教区や学校、組織というのは、出ていくためにあるのです!もし出ていかないなら、NGOになります。そして教会はNGOであるべきではないのです。

 司教たちや神父たちにはごめんなさい。この後で皆さんに厄介なこととなるようでしたら。でもこれは助言です。みなさんがなしうることに、感謝します。ごらんなさい。わたしはこの今の瞬間に、この世界の市民化は行きすぎました。行きすぎたのです。なぜなら金銭の神への礼拝がささげられているからです。わたしたちは民の約束であるいのちの2極の疎外の哲学と実践のただ中にいるのです。もちろん、誰でも考えられることですが、見えない安楽死のようなものがありうるのです。つまり、高齢者の面倒を見ないのです。けれど、この手の文化的安楽死もあるのです。彼らに話させない、彼らに活動させない、という文化的安楽死!そして青年たちの除外です。仕事のない、雇用のない青年たちの割合を知っていますか?とても高いのですよ!そしてそれは仕事によって得られる尊厳の経験を持たない世代になるのです。つまり、この市民化は、わたしたちの未来である2極を除外するにいたったのです!

 そこで、青年たちは出ていかなければならない、価値あるものとならなければならないのです。 青年たちは諸価値のために戦うために出ていかなければならないのです。さぁ、価値のために戦いなさい!そして年寄りが口を開けるように、年寄りが口を開いてわたしたちを教えてくれるように、民の知恵をわたしたちに伝えるように!アルゼンチンの国で、わたしは高齢者に心から願います。正義を伝え、歴史を伝え、価値観を伝え、民の記憶を伝えるわたしたちの民の文化を守るのにたじろがないように。そしてみなさん、お願いですから、年寄りへの反発にくみしないでください!彼らに話させなさい、彼らに耳を傾け、前に連れて行きなさい!けれど知っておきなさい。この今の時点で、皆さん青年たちと高齢者たちは、同じ運命に定められています。除外です!除外されないようにしなさい!よくわかりましたか?だから、働かなければならないと思います。

 イエス・キリストへの信仰は冗談ではありません。何かとても真剣なものです。それはスキャンダルなのです。神がわたしたちの一人となるために来た、これはスキャンダルです!そして十字架上で死んだ、これはスキャンダルです、十字架のスキャンダル(つまずき)です!十字架は今でもスキャンダルであり続けています。けれど十字架の道が、イエスの道が、イエスの受肉が唯一の確かな道なのです!

 お願いですから、イエスへの信仰を(ジューサー・ミキサーにかけて)液状化しないでください!オレンジをミキサーにかけたジュースやリンゴをミキサーにかけたジュース、バナナをミキサーにかけたジュースはありますが、お願いですから、信仰はミキサーにかけないでください。信仰はそのままいただくものです、ジュースにするものではありません。それがイエスへの信仰です。わたしを愛し、わたしのために死んだ人となられた神の子への信仰なのです。

 そういうわけで、厄介事となりなさい!高齢者と青年という極端の面倒を見なさい!除外されないようにしなさい。高齢者を除外してはなりません。そして二つ目、イエス・キリストへの信仰を液状化させてはなりません。

 幸いであること(真福八端)です!神父さま、わたしたちは何をしなければなりませんか?ごらんなさい、真福八端(マタイ5章)を読みなさい。あなたに役立つでしょう。そしてもし実際に役立つこととして何をしなければならないかを知りたいなら、マタイ25章を読みなさい。それはわたしたちが裁かれる基準のプロトコルです。この二つのことに行動のプログラムがあります。真福八端とマタイ25章、他のことを読む必要はありません。心からこれを願います!

 さぁ、皆さんがこんなに近くいてくれることに、もう本当に感謝しています。残念なのは、皆さんが 檻に入れられたようになっていることです。けれど皆さんに一つのことを言います。しばらく私が感じていることですが、檻に入れられているというのは嫌なものです!心から皆さんに告白しますね!でもまぁ仕方ありません・・・、皆さんのことを理解します。・・・もっと皆さんの近くにいたいと思うのですが、秩序のために、できないんですね、よく理解しています。

 来てくれてありがとう。わたしのために祈ってくれてありがとう。心から皆さんにお願いしますよ、それが必要なのです!みなさんの祈りが必要なのです、とってもたくさん必要です!だからありがとう!

 さて、皆さんに祝福をします。そしてその後でアルゼンチン中を回るマリア像と聖フランシスコの十字架を祝福します。この二つは宣教者として国中を回ります。

 けれどわすれないで、厄介事となりなさい!いのちの両極、民の歴史の両極、つまり高齢者と青年たちの面倒を見なさい!そして信仰を液状化してはなりません!

 それでは今から聖母像を祝福するために祈って、それから皆さんに祝福する、というところに移ります。

 祝福のために立ちましょう。あぁ、でもその前にアランセード卿に、感謝しなかったら全く教育がなっていないと言われましたので感謝します。お言葉、ありがとうございました。

 父と子と聖霊とのみ名によって。アーメン。

 アヴェマリア、恵みに満ちた方、主はあなたと共におられます。
あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母、聖マリア、わたしたち罪びとのために
今も死を迎える時もお祈りください。アーメン。

 主よ、あなたはわたしたちのただ中にあなたの母を残し、わたしたちに寄り添えるようにしてくれました。
 マリアがわたしたちの歩み、心、信仰においてわたしたちの面倒を見、わたしたちを守ってくださいますように。
 マリアがわたしたちを、自分がそうであったように弟子とし、これもまた自分がそうであったように宣教者としてくれますように。
 マリアがわたしたちが道に出ていくのに伴い、わたしたち自身から出ていくことを教えてくださいますように。
 主よ、国中を回るこの像を祝福します。
 マリアが、そのおとなしさとその平和をもって、わたしたちに道を示して下さいますように。

 主よ、あなたはスキャンダルです。十字架のスキャンダルです。
 謙虚さ、大人しさである十字架、神の近さをわたしたちに語る十字架です。
 国中を回るこの十字架像をも祝福します。

 ほんとうにどうもありがとう!ここ数日、顔を合わせていきましょう!
 神さまが皆さんを祝福して下さいますように!
 そしてわたしのために祈ってくださいね、忘れないで!

7月25日、ヴァルジーニャの貧しい共同体にて


 「本物の富は物にあるのではなく、心にあります」。「いつもこれを覚えていましょう。分かち合うことができる時のみ、ほんものの富が手に入るのです。分かち合うものは、増殖するのです」。リオ・デ・ジャネイロにある700のファベーラのひとつ、1500人の人が住んでいるヴァルジーニャ共同体の住民にフランシスコが向けて語ったことばからの抜粋である。

 コパカバーナの大通りでワールドユースデーの青年たちによる歓迎の待ちに待ったフィエスタ、今回は160カ国以上の国から集まった世界じゅうの青年たちとローマ司教との最初の大集会を代表するとも言いうる式典を前に、パパ・フランシスコはリオ・デ・ジャネイロ市長の手から今朝、リオ市の鍵を受け取った。その後で、ブラジルで三年後に祝われるスポーツの祭典、オリンピックのための公式な旗を祝福した。そしてヴァルジーニャ共同体を訪れた。そこでは一万人ほどの人が住んでおり、五万人ぐらいの巨大な「平和裏な」ファベーラの一部を成す。

 フランシスコ自身が語ったように、「最初から、ブラジルへの訪問を計画するにあたり、わたしの願いはこの国のあらゆる集落を訪れることでした。一軒一軒の扉を叩いて、「おはよう!」といい、いっぱいの冷たい水を求め、「ちょっとしたコーヒー」を飲み、家の友人として語り、一人ひとり、お父さんやお母さん、子供たち、おじいさんやおばあさんの心に耳を傾けたいと思っていました。けれどブラジルは、いやはやとても大きいのです!そして一軒一軒の扉を叩いて回ることができません。それで、ここにみなさんの共同体を訪問するために来ることを選んだのですが、みなさんは、ブラジルのあらゆる集落を今日、代行しているのです」。

 フランシスコはワールドユースデーのための旅行の状況でこの訪問を含めたいと思った。なぜならその本質は牧者だから、いやさらに、最近司祭や司教の特徴について語るにあたり自ら勧告したように、自分の群れと共に、その間にまみれて歩まなければならない「羊の匂いのついた」牧者だからである。

 ずいぶんと前から、パパはその、病者や疎外された人々、貧困の場合のような社会不正の犠牲者、ローマ司教が触れている存在の中心から外れたところにあるという存在しうる枠組みを成すすべての人々一人一人の人格のうちに「キリストの傷口に触れる」、「キリストの肉体に触れる」ということについて話してきた(病者に関しては水曜日に薬物依存やアルコール依存からの再生を中心的に行っている『アシジの聖フランシスコ病院』を訪問するにあたって示された)。

 そのため、この機会に、より財産をもっている人々、公的権威者、社会正義に献身しているよい心の人々すべてに、より公正で連帯に満ちた世界のために働くのに疲れを覚えないようにと呼びかけるチャンスを逃さなかった。

 マルシオ・ケイロス神父は、ヴァルジーニャ共同体の主任司祭であるが、家に招いてもらうようにと選ばれた女性は、それが知らされる前にすでに、関心をもつ報道陣に包囲されていた。その家はフランシスコが通らずにはいない場所にあると考えられたからである。そして彼女はいつも否定していた。しかしながら、犠牲がなかったわけではないが、先週、バチカン市の色の一つで家の入口を塗る決意をし、フランシスコが通ることに情愛を示した。黄色くしたのである。バチカン市国の色の一つである。彼女は昨日になってはじめてフランシスコが自分の家に入ると知った。

 その息子は、しかも、福音派の牧者で、最初はフランシスコを知ろうという関心は全くなかったが、今やその心に説明しえない変化が生まれた…。

 一方、ブラジル人司祭のルイス・アントニオ・ロペスは、リオ・デ・ジャネイロのファベーラの司牧責任者であるが、パパに渡すようにと、ヴァルジーニャ共同体の住民から手紙をもらった。

 その手紙の中で、ある人はもう二日も水がない、ある人はもう三日も電気が通らない、といったことを告げていた。この58歳の司祭は、とてもつつましやかな地域出身者であるが、住宅の権利は神聖であると確言する。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもない」。なぜならファベーラは問題なのではなく、住宅の政策が一切ない国に求める解決の糸口なのである。

 また、特に教会のおかげでファベーラは今では国に認識される現実である。というのは20年前には地図にすら載っていなかったのである。
(リオから:マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ、RV) 

 Palabras del Papa a los habitantes de la Comunidad de Varginha

(Audio) RealAudioMP3 Queridos hermanos y hermanas

Es bello estar aquí con ustedes. Ya desde el principio, al programar la visita a Brasil, mi deseo era poder visitar todos los barrios de esta nación. Habría querido llamar a cada puerta, decir «buenos días», pedir un vaso de agua fresca, tomar un «cafezinho», no un vasito de cachaça, hablar como amigo de casa, escuchar el corazón de cada uno, de los padres, los hijos, los abuelos... Pero Brasil, ¡es tan grande! Y no se puede llamar a todas las puertas. Así que elegí venir aquí, a visitar vuestra Comunidad, que hoy representa a todos los barrios de Brasil. ¡Qué hermoso es ser recibidos con amor, con generosidad, con alegría! Basta ver cómo habéis decorado las calles de la Comunidad; también esto es un signo de afecto, nace del corazón, del corazón de los brasileños, que está de fiesta. Muchas gracias a todos por la calurosa bienvenida. Agradezco a los esposos Rangler y Joana sus cálidas palabras.

1. Desde el primer momento en que he tocado el suelo brasileño, y también aquí, entre vosotros, me siento acogido. Y es importante saber acoger; es todavía más bello que cualquier adorno. Digo esto porque, cuando somos generosos en acoger a una persona y compartimos algo con ella —algo de comer, un lugar en nuestra casa, nuestro tiempo— no nos hacemos más pobres, sino que nos enriquecemos. Ya sé que, cuando alguien que necesita comer llama a su puerta, siempre encuentran ustedes un modo de compartir la comida; como dice el proverbio, siempre se puede «añadir más agua a los frijoles». ¿Se puede añadir más agua a los frijoles? ¡Siempre!
Siempre!Y lo hacen con amor, mostrando que la verdadera riqueza no está en las cosas, sino en el corazón.
Y el pueblo brasileño, especialmente las personas más sencillas, pueden dar al mundo una valiosa lección de solidaridad, una palabra a menudo olvidada u omitida, porque es incomoda. Me gustaría hacer un llamamiento a quienes tienen más recursos, a los poderes públicos y a todos los hombres de buena voluntad comprometidos en la justicia social: que no se cansen de trabajar por un mundo más justo y más solidario. Nadie puede permanecer indiferente ante las desigualdades que aún existen en el mundo. Que cada uno, según sus posibilidades y responsabilidades, ofrezca su contribución para poner fin a tantas injusticias sociales. No es la cultura del egoísmo, del individualismo, que muchas veces regula nuestra sociedad, la que construye y lleva a un mundo más habitable, sino la cultura de la solidaridad; no ver en el otro un competidor o un número, sino un hermano.
Deseo alentar los esfuerzos que la sociedad brasileña está haciendo para integrar todas las partes de su cuerpo, incluidas las que más sufren o están necesitadas, a través de la lucha contra el hambre y la miseria. Ningún esfuerzo de «pacificación» será duradero, ni habrá armonía y felicidad para una sociedad que ignora, que margina y abandona en la periferia una parte de sí misma. Una sociedad así, simplemente se empobrece a sí misma; más aún, pierde algo que es esencial para ella. No dejemos entrar en nuestro corazón la cultura de lo descartable, porque somos hermanos y ninguno es descartable. Recordémoslo siempre: sólo cuando se es capaz de compartir, llega la verdadera riqueza; todo lo que se comparte se multiplica. Pensemos en la multiplicación de los panes de Jesús. La medida de la grandeza de una sociedad está determinada por la forma en que trata a quien está más necesitado, a quien no tiene más que su pobreza.

2. También quisiera decir que la Iglesia, «abogada de la justicia y defensora de los pobres ante intolerables desigualdades sociales y económicas, que claman al cielo» (Documento de Aparecida, 395), desea ofrecer su colaboración a toda iniciativa que pueda significar un verdadero desarrollo de cada hombre y de todo el hombre. Queridos amigos, ciertamente es necesario dar pan a quien tiene hambre; es un acto de justicia. Pero hay también un hambre más profunda, el hambre de una felicidad que sólo Dios puede saciar. Hambre de dignidad. No hay una verdadera promoción del bien común, ni un verdadero desarrollo del hombre, cuando se ignoran los pilares fundamentales que sostienen una nación, sus bienes inmateriales: la vida, que es un don de Dios, un valor que siempre se ha de tutelar y promover; la familia, fundamento de la convivencia y remedio contra la desintegración social; la educación integral, que no se reduce a una simple transmisión de información con el objetivo de producir ganancias; la salud, que debe buscar el bienestar integral de la persona, incluyendo la dimensión espiritual, esencial para el equilibrio humano y una sana convivencia; la seguridad, en la convicción de que la violencia sólo se puede vencer partiendo del cambio del corazón humano.

3. Quisiera decir una última cosa. Aquí, como en todo Brasil, hay muchos jóvenes. Queridos jóvenes, ustedes tienen una especial sensibilidad ante la injusticia, pero a menudo se sienten defraudados por los casos de corrupción, por las personas que, en lugar de buscar el bien común, persiguen su propio interés. A ustedes y a todos les repito: nunca se desanimen, no pierdan la confianza, no dejen que la esperanza se apague. La realidad puede cambiar, el hombre puede cambiar. Sean los primeros en tratar de hacer el bien, de no habituarse al mal, sino a vencerlo. La Iglesia los acompaña ofreciéndoles el don precioso de la fe, de Jesucristo, que ha «venido para que tengan vida y la tengan abundante» (Jn 10,10).
Hoy digo a todos ustedes, y en particular a los habitantes de esta Comunidad de Varginha: No están solos, la Iglesia está con ustedes, el Papa está con ustedes. Llevo a cada uno de ustedes en mi corazón y hago mías las intenciones que albergan en lo más íntimo: la gratitud por las alegrías, las peticiones de ayuda en las dificultades, el deseo de consuelo en los momentos de dolor y sufrimiento. Todo lo encomiendo a la intercesión de Nuestra Señora de Aparecida, la Madre de todos los pobres del Brasil, y con gran afecto les imparto mi Bendición, gracias! (RC-RV)