2014年1月7日火曜日

1月6日(月)、公現祭ミサ説教:光について行って、《光》をさがすこと

 ひどい雨が数日続いた後で、陽の光がローマの冷たく湿っぽい朝を和らげる頃、ローマ司教は、サン・ピエトロの聖地で、ミサの中で、博士たちは大文字の光を探し求めて一つの光について行ったことを思い返した。

教皇フランシスコの説教全文 

 «Lumen requirunt lumine(光への光)». この公現の日の典礼に用いられる賛歌に見られる示唆に富んだ表現は、博士たちの経験について語っています。一つの光について行きながら、彼らは《光》を探します。天に現われた星は彼らの考えと心に、大いなるキリストの光の探求へと彼らを動かす光を灯します。博士たちは忠実に、彼らの内側にインスピレーションを与えるその光について行き、主に出会います。

 この東方の博士たちの巡り歩きは一人ひとりの到達点を象徴しています。わたしたちの人生は歩くことです。道を照らす様々な光に照らされて、真理と愛の満たしに出会うためです。それをわたしたちキリスト者は、世の光であるイエスに認めます。誰もが、博士たちのように、巡礼において道を示すしるしを推測させる二つの大いなる「本」を手にしています。一つは被造物、もう一つは聖書です。大切なのは注意していること、目覚めていること、わたしたちに語る神、いつもわたしたちに語りかけている神に耳を傾けることです。主の掟について言及しながら詩篇が「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」(詩篇119編105節)とうたっているようにです。特に福音を聞き、これを読み、これを瞑想し、これをわたしたちの霊的糧とすることで、わたしたちは生きたイエスに出会い、イエスとその愛を体験することができるようになります。

 第一朗読は預言者イザヤの口を通して、エルサレムでの神の呼びかけをこだまさせます。「起き上がれ、輝け!」(60章1節)。エルサレムは神の光を世の上に反映させ人々がその道を歩むのを助ける光の町となるように呼ばれています。これは世における神の民の召命であり使命です。 けれどエルサレムがこの主の呼びかけに応えないこともあります。福音書は、博士たちが、エルサレムについた時、しばらくその目から星が見えなくなってしまったことを語っています。特に、ヘロデ王の宮殿ではその光は不在です。あの住処は闇に覆われ、そこでは暗黒や不信、恐れ、妬みなどが支配しています。ヘロデは、事実、自分がライバルだと感じるそのいたいけな《赤ん坊》の誕生のせいで不信に満ち心配している様子をあらわにします。本当はイエスは、憐れな人形である彼を倒すために来たのではなく、この世の《王子》を倒すために来たのです!しかしながら、王とその側近たちはその権威の構造に危機を及ぼすと感じ、恐れ、ゲームのルールを逆転させ、正体を暴かれます。支配の上、成功の上、持つことの上、汚職の上に建てられた世はすべて、一人の《赤ん坊》のせいで危機にさらされるのです!そしてヘロデは赤ん坊たちを殺すことにまで至ります。教会のある神父が言っていました。「お前は肉において子供たちを殺す。なぜなら恐れが心においてお前を殺しているからだ」(聖クオドブルトデウス、シンボルにおける議論2:PL40、655)。そうなのです、恐れていて、この怖れのうちに気が触れたのです。

 博士たちはヘロデの前に拡がった暗黒の危険に満ちたその瞬間を乗り越えることができました。それは聖書を信じたからです。メシアの誕生の場所がベツレヘムであると示唆する預言者のことばを信じたからです。このようにして世の夜の痺れから逃げ、ベツレヘムへの歩みを再開し、そこで改めて星を見たのです。福音は彼らが「ものすごい喜び」を体験したと語っています(マタ2章10節)。その星はあの宮殿の世俗性においては見受けられなかったものです。わたしたちを信仰の歩みにおいて導く光のひとつの局面は、聖なる「狡猾さ」でもあります。この「聖なる狡猾」は、ある種の徳です。危険を避けるために、危険に気付かせるあの霊的聡明のことです。博士たちは、帰り道で、ヘロデの闇に満ちた宮殿を通らずに別の道を通っていくことを決めた時に、この「狡猾さ」の光を使うことができました。この東方から来た博士たちは、どうすれば闇の落とし穴に落ちず、どうすればわたしたちの人生を覆おうとする暗闇からわたしたちを守ることができるかをわたしたちに教えています。彼らは、この聖なる狡猾さをもって信仰を見守りました。わたしたちも、わたしたちの信仰を守らなければなりません。暗闇からその信仰を守ることですが、しばしば、その暗闇は光を装っています。なぜなら悪魔は、聖パウロが言っているように、光の天使を装うからです。ここで、わたしたちは、今日はあれこれをしなければならない、と警鐘の歌が語るように、わたしたちの信仰を守るための聖なる狡猾さを必要としているのです。けれど信仰はある種の賜物です。恵みです。その信仰をこの聖なる狡猾さ、祈り、愛、愛徳をもって守るのはわたしたちに任された務めです。神の光をわたしたちの心に迎え入れる必要があります。そして同時に、イエスが弟子たちに「ヘビのように慎重で、鳩のようにシンプルに」(マタ10章16節)と求めているように、単純さを狡猾さに活用することのできるその霊的狡猾さを培うことが必要です。

 公現の祝日に、つまりイエスが一人の《赤ん坊》の顔で人類に自らを示したことを思い返すこの日に、博士たちと、歩みの知恵ある同伴者として、わたしたちも心を一つにします。その模範はわたしたちが星にむかって目を挙げ、わたしたちの心にある大いなる望みに従って行くことを助けます。わたしたちに、中途半端な生き方、「小さな養殖場」に満足せず、よいこと、本当のこと、美しいこと、つまり神によっていつも惹きつけられるようにすることをわたしたちに教えています。こうした真善美はすべて、より大いなるものになっていきます。そしてわたしたちに、表面的なこと、世にとっては偉大で、知恵があり、権力があるようなものに騙されないことを教えています。そこで留まっていては成りません。表面的なこと、かっこつけに満足していてはならないのです。信仰を守る必要があります。今の時代では、これはとても重要なことです。闇のずっと向こう側、警鐘の音、世俗性、今日の近代文化のずっと向こう側に行く必要があります。ベトレヘムに行く必要があります。そこで町の中心から外れたある家のシンプルさに、愛と信仰に満ちた一人のお母さんと一人のお父さんの間に、宇宙の王、高みより生まれた《太陽》が輝いています。博士たちの模範に倣い、わたしたちの小さな光をもって、《光》を探し、信仰を守りましょう。

(Traducción: María Fernanda Bernasconi y jesuita Guillermo Ortiz – RV).

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