2014年1月24日金曜日

1月21日(火)、朝ミサ説教:人は外見で判断するが、主は心を見る

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〔①〕サムエル上16章1―13節
〔福〕マルコ2章23-28節

 主の偉大さとの対話をするためにわたしたちの小ささを見守りましょう。聖マルタの家での朝ミサでフランシスコはこう語った。続けて、「主は、いつも小さい者、力がより少ない者を選びます。それはわたしたちの謙虚さを見るからです』と語った。

 主と小さな人々。教皇はその説教でこの二つの名詞を中心にし、「主とその民との関係は人格的な関係です」「いつも、ペルソナからペルソナへ」ということを強調した。「彼は主で、民には名前があります。これは権力者と大衆との間にある対話とは違います。これは人格的な対話なのです」。

 「そして民には、一人ひとりに自分の居場所があるものです。主は決してこうやって民衆、大衆に語ることはありません。いつも個人的に、名前を知りながら語りかけるのです。そして個人的に選びます。創造物語はこのことを見えるようにするモデルです。その手で芸術家のように男を作りますが、そこで名を与えます。『お前はアダムと呼ばれるようになる』と。そのように、あの神と人との間の関係が始まります。それから別のこともあります。それは神と渡した地小さなものとの関係です。神は偉大で、わたしたちは小さいのです。人を選ばなければならない時も、民を選ぶ時もです。神はいつも小さな人々を選ぶのです」。

 神があの民を選んだのはそれが「より小さく」、他のどの民よりも「力が少なかった」からです。まさに「神と人の小ささとの間の対話」があるのです。またおとめマリアはこう言うことになります。「主は卑しさを御覧になった」と。主は「小さな人々を選びました」。今日の第一朗読で、「はっきりとこの主の態度が見受けられます」。預言者サムエルはエッサイの子どもたちのうち一番背の高い者の前に来て、彼が「聖別された者」だろうと思います。「なぜなら背が高く大きい人だったから」です。けれど主は、サムエルにいます。「その表面に目を留めず、その背の高さにも目を留めるな。なぜならわたしは彼を外したから。なぜなら人が見るものには価値がないからだ」。実際、「人は外見を見ます。けれど主は心を見ます。主はご自分の判断基準で選ぶのです」。そして「弱い人たち、素直な人たち」を選び、「地の権力者たちを混乱させる」のです。最後に、そういうわけで、「主はダビデを、一番背の低かった子、その父から重要と思われなかった子を選びます」。「彼は家におらず」「羊たちの番をしていた」のです。まさにこのダビデが「選ばれた」のです。

 「わたしたちは全員、洗礼をもって主に選ばれました。わたしたちは全員選ばれているのです。一人ひとりを選んだのです。わたしたちに名前を下さり、わたしたちを見つめます。そこには対話があります。なぜなら主はそうやって愛するからです。ダビデも、あとで王になり、過ちを犯します。おそらくとても多くの過ちを犯したことでしょう。けれど聖書は強烈な二つの過ちについて言及します。あの大きな過ちです。ダビデは何をしたのでしょう?自らを貶めました。自分の小ささに立ち戻り、『わたしは罪びとです』と言い、赦しを願い、償いを果たしたのです」。

 そして二つ目の罪の後、ダビデは主に言います。「わたしを罰してください。民ではなく、わたしを。民には罪はありません。わたしのせいです」。ダビデは、「その小ささを保ちました。その痛悔をもって、祈りをもって、嘆きをもって」。「こうしたこと、主とわたしたちの小ささとの間の対話を考えると、キリスト者の忠誠はどこにあるんだろう、と自問したくなります」。

 「キリスト者の忠誠、つまりわたしたちの忠誠は、単純に、主と対話できるためにわたしたちの小ささを保つことにあるのです。わたしたちの小ささを保つこと。このために謙虚さ、素直さといったものがキリスト者の生活においてとても重要なのです。なぜならそれが主が見たいと望んでいる小ささを守ることだからです。そしていつもわたしたちの小ささと主の偉大さの間には対話が存続するでしょう。主がわたしたちに、ダビデの取り次ぎ、またその卑しさを神が見染めたので神に喜んで歌をささげたおとめマリアの取り次ぎによって、主の前でわたしたちの小ささを見守る恵みを下さいますように。
(RC-RV)

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