〔①〕サムエル下6章12b-15、17-19節
〔福〕マルコ3章31-35節
賛美の祈りはわたしたちを実り豊かな者にします。聖マルタの家での今朝のミサ中にパパ・フランシスコはこう語った。パパは、第一朗読の語っている主のためのダビドの歓喜に満ちた賛美についてコメントをしながら、もし形式主義に閉じこもるならば、わたしたちの祈りは冷たく不毛になってしまう、と強調した。
「ダビドは主の前で全力で踊りました』。教皇はその説教を、サムエル記第二巻で語られているこの喜ばしいイメージに端を発して発展させた。神の民全体はお祝いでした。なぜなら契約の箱が家に帰ってきたからです。ダビデの賛美の祈りは、「冷静さをすべて脇に置き、主の前で全力で踊るに至らせました」。これは、「まさに賛美の祈りだったのです!」 この個所を読むと、「わたしはすぐにイサクを産んだ後のサラのことを考えます」。「主は喜びのあまり踊るようににとなさったのです!」。この老女です。若いダビデのように、主の前で「喜び躍ったのです」。「わたしたちにとって、主にあることを願うための祈りは理解に安いではないことかもしれません。そして主に感謝することも。礼拝の祈りを理解するためにも、「それほど難しいことではありません」。けれど賛美の祈りは他事を横にやることで、適当にわたしたちに訪れるものではないのです!」。
「『でも、神父さん、これは聖霊刷新の人たちの問題で、キリスト者全員の物代ではないでしょう』とおっしゃるでしょう。いいえ、賛美の祈りはキリスト者の祈りです。わたしたち全員にとっての!。ミサの中で、毎日、感謝の賛歌を歌う時…これは賛美の祈りですよ。神をたたえます。その偉大さを。なぜなら偉大だからですよ!これが賛美の祈りです。そして美しいことを言います。なぜならこのままでいたいとは望まないので、美しい物事について語るのです。『でも、神父さん、わたしにはできません…。わたしがしなければならないのは…』とおっしゃるでしょう。けれど、あなたは自分の応援しているサッカーチームがゴールを決めると叫び声をあげるのに、主への賛美の歌を歌うことができないんですか?これを歌うために少し自分を抑えているところから出ないのですか?神への賛美というのは、完璧にただなのですよ!何かをお願いするのでもないし、何かに感謝するのでもなくて、賛美するのです!」
「心を尽くして」祈らなければなりません。「それは正義の行為でもあります。なぜなら主は偉大だからです!」 ダビデは「実に幸せでした。なぜなら契約の箱が帰ってきた、つまり主が帰ってきたからです。あのダンスでその体でも祈っていたのです」。
「今日することができる、よい問いがあります。『わたしの賛美の祈りはどうなっているでしょう? わたしは主をたたえることはどういうことか知っているでしょうか?主への賛美の仕方を知っているのか、それとも栄光の賛歌や感謝の賛歌を祈る時に、口だけで、心を尽くさずにしているのでしょうか? ダビデは踊りながらわたしに何を語っているのでしょうか? そしてサラは、喜びに踊りながら何を言っているでしょう?ダビデが町に入る時、もう一つ別のことが始まります。祭りです!
「賛美の喜びは、祭りの喜びへとわたしたちを導きます。家族の祭りです」。ダビデが宮殿に入る時、サウル王の娘であるミカルは、ダビデをいさめ、王でありながら全員の前であのように踊ったことが恥ずかしくないのかと尋ねます。ミカルは「ダビデを軽蔑しました」。
「わたしたちは心の中で、典礼的ではないとか形式に従わないということで、自然と、自分の中でわいてくるかのように主を賛美する善い人々を、何度軽蔑していることでしょうか?軽蔑!そして聖書はこのせいでミカルは一生、子どもが産めなくなったと語っています。ここで神のみ言葉は何を言おうとしているのでしょう?喜びが、賛美の祈りがわたしたちを実りをもたらしうる者とするのです!サラは子どもが産める体になったその偉大な瞬間に踊っていました。90歳でですよ!主に対する賛美をわたしたちに与え、主を賛美する無償性を与える、実りをもたらす能力です。主を賛美すし、主を賛美しながら祈り、栄光の賛歌を祈る時にこれを唱えることに喜びを感じ、聖なるかなを歌う時に歌うことに喜びを感じるあの男性、女性は、実りをもたらす能力を備えた人なのです」。
(RC-RV)
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