〔①〕サムエル上15章16-23節
〔福〕マルコ2章18‐22節
キリスト者の自由は、「神の言葉への従順」にある。パパ・フランシスコは、今朝聖マルタの家でのミサで語った。教皇は福音の「新しさ」と「神の驚き」を受け入れる心構えがいつでもなければならない、と強調した。
「神の言葉は生きていて効力があり、心の思いと考えを見極める」。教皇はこの考えから始めてその説教を繰り広げた。そこで神のみ言葉を本当に受け入れるには「素直さ」の態度を持たなければならないと強調した。「神の言葉は生きているので、やってきて、自分が言ってくれたらと待っていることや言ってほしいと望んでいることではなく、神の言葉自身が言いたいことを言います」。「自由な」みことばなのです。そしてこれはまた「驚きです。なぜならわたしたちの神は驚きの神だからです」。み言葉は「ニュース」なのです。
「福音はニュースです。啓示はニュースです。わたしたちの神はいつも物事を新しくする方で、わたしたちにその新しさに対する素直さを求めています。福音において、イエスはこのことではっきりしています。とてもはっきりしています。新しいぶどう酒は新しい皮袋に。ぶどう酒は神が持ってきますが、新しさに対する開きをもって受けられなければなりません。そしてこれを素直さと呼ぶのです。自問してみましょう。わたしは神の言葉に従順でしょうか?それとも自分が思いこんでいることが神の言葉であるようにといつも行っているでしょうか?あるいは神の言葉が金網を通るようにして、最後には神がしたいと望んでいることについて他のことをするのでしょうか?
もしこれをするなら、「新しい布の切れ端を古い服に次当てるようなものになってしまいます。つぎはぎはもっとはしたないものです」。そして「神の言葉を受け入れることができるため これと都合を付けることができるのは」「禁欲的な態度そのもの」であると証しをした。
パパは第一朗読について考えを巡らし、サウルの時代には、戦争に勝つと戦利品を得、その一部で犠牲を果たしたことを思い返した。「主への供え物にしようと(…)、最上の動物を、戦利品の中から取り分けたのです」。けれど、サウルは「自分の考え、自分の気持ち、自分の習慣をもとに理性を働かせました」一方、「わたしたちの神は、習慣の神ではなく、驚きの神なのです」。サウルは
「神の言葉に従いませんでした。神の言葉に対して素直ではなかったのです」。そしてサムエルはまさにこのことでサウルを叱ったのです。「従順ではなかった、しもべとして振舞わなかった、自分自身が主人になったことを感じさせました。彼は神の言葉を我が物顔で扱ったのです」。「反抗、神のことばに従わないことは、占いと同じような罪です」。「頑迷さ、神が望むことではなく自分がしたいことをする、素直さのなさは、偶像崇拝の罪と同じです」。そしてこれは、「何がキリスト者の自由で、何がキリスト者の従順であるか」について「わたしたちに考えさせます」。
「キリスト者の自由とキリスト者の従順は、神の言葉への素直さであり、たゆまなくやってくるこの新しいぶどう酒のために、新しい皮袋に代わっていくあの勇気を持つことなのです。このいつも識別する勇気。識別する、というのは、相対化させる、ということではありません。自分の心の中で聖霊が何をするか、自分の心の中で聖霊が何を望んでいるか、自分の心の中で聖霊が自分をどこに導いているかをいつも識別することです。従い、識別し、従うこと。今日、心にある重いと考えを識別する神の言葉、生きていて実効力のあるこの言葉への素直さの恵みを願いましょう。
(RC-RV)
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