2014年1月21日火曜日

1月9日(木)、朝ミサ説教:キリスト者の愛はメロドラマのようなものではなく、具体的で寛大なもの


 キリスト者の愛にはいつも「具体的」であるという性質があります。ですから、それは「言葉よりも働きのうちに、受けるより与えることにある」愛なのです。聖マルタの家の小聖堂で祝われたミサの説教の中でパパ・フランシスコは今朝こう言った。

 センチメンタリズムは全くありません。そうではなく、腕まくりをし、貧しい人に目を向け、受けるよりも与えることを好む愛他主義的で思いやりのあるものか、キリストの愛とは全く関係のないものかどちらかです。パパ・フランシスコはこの問題についてはっきりしており、その回想を、何よりも第一ヨハネの手紙に含まれている言葉によって進めた。使徒は何度も強調して繰り返している。「もしわたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちの間に留まっており、神の愛はわたしたちの間で完璧なものです」。同時に、信仰の経験は、まさにこの「二重の意味で留まること」にある。

「わたしたちが神のうちに、神がわたしたちのうちに。これがキリスト者のいのちです。世俗の精神のうちに留まることなく、表面的なことのうちに留まることなく、偶像崇拝のうちに留まることなく、虚栄のうちに留まることなく…。違います。違うのです。主のうちに留まることです。そして主はこのことに報いてくださいます。つまり、主がわたしたちのうちに留まってくださるのです。けれど、本当はまず、彼がわたしたちの間に留まっておられます。何度も何度も彼を追い出し、主のうちに留まることができなくなるようですが、聖霊こそがとどまるのです」。

 キリスト者の愛を動かす精神の躍動力を明示したところで、パパ・フランシスコは、肉についての考察へと進んだ。神の《愛のうちに留まるということは、心の恍惚状態のことを言おうとしているわけではありません。それはわたしたちが感じることのできる素敵なことです」。

「ごらんなさい。ヨハネが語っている愛は、メロドラマの愛とは違います!いいえ、別のことなのです。キリスト者の愛にはいつもある特質があります。それは、具体性です。キリスト者の愛は具体的です。イエス自身、愛について語る時、わたしたちに具体的なことを語ります。空腹な人に食べさせ、病人を訪問し、と、実に様々な具体例があります。愛は具体的です。キリスト者の具体性です。そして子の具体性が存在しない時、空想のキリスト教主義を生きることになりかねません。なぜならどこにイエスのメッセージの中心があるのかよく理解できていないからです。この愛は具体的になっていきません。それは空想の愛です。それはまるで弟子たちが、イエスを見ながら、幽霊だと思った時の弟子たちが持っていたような空想の世界のようなものです」。

「幽霊」は、まさに福音のエピソードによれば、弟子たちが、湖の上を歩いて自分たちに向かってくるのを驚き恐れつつぼんやりと見たものです。けれどかれらのおののきは心のかたさから生まれます。なぜなら、福音書自体が語っているように、少し前に起こったパンの増殖を「理解していなかった」からです。「堅くなった心では、愛することができず、あなたは愛とは物事の見せかけを整えるようなものだと考えます。違います、愛は具体的です」。そして子の具体性は、二つの判断基準に基づいています。

「最初の判断基準:言葉ではなく、実践をもって愛すること。言葉というのは風で飛ばされます!今日はわたしはいるけれど、明日はいない、そういうものです。二つ目の具体性の判断基準は、愛においては与える方が受けることよりも大切だ、ということです。愛する人は、与え、与え、与えます…。ものを与え、いのちを与え(ささげ)、自分自身を神に差し出し、他の人々に差し出します。一方、愛さない人、利己的な人は、いつももらおうとし、いつもものや利益を手にしようとします。閉ざされており、何も理解できずにいた弟子たちのようにではなく、開かれた心で留まること。神のうちに留まり、神がわたしたちのうちに留まること。愛のうちに留まること」。

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