2014年1月31日金曜日

1月30日(木)、朝ミサ説教:教会の内部で、感じとり、考え、愛し求めること

ここをクリックして、教皇の声を聞きながら、どうぞ
〔①〕サムエル下7章18-19、24-29節
〔福〕マルコ4章21-25節

 「教会抜きに 一キリスト者を理解することはできません」。パパ・フランシスコは今朝聖マルタの家で祝われたミサの中で注意を促した。教皇は教会的帰属の意義の三本柱を示した。謙遜、忠義、そして教会のための祈りである。

 今日の説教は、今日の第一朗読で紹介されている形でのダビデ王の姿から始まった。そこではダビデは父と語る子どものように主と語る人として描かれており、その願いに対して「だめ」という答えを受けたらこれを喜んで受け止める姿が見られる。ダビデは、「神の民への強い帰属意識がありました」。そしてこれはわたしたちに、自分の教会への帰属の意義はどうなっているか、自分の教会と共にある感情、教会の中にいる感情はどうなっているかを自問させます。

 「キリスト者というのは、洗礼で水を引っ掛けてその後自分の歩みたい道を歩むものではありません。洗礼の最初の実りは教会、つまり神の民に所属させてくれる、ということです。教会抜きに一キリスト者を理解することはできません。そしてこのため偉大なるパウロ六世は、教会抜きにキリストを愛すること、キリストには耳を傾けるけれど教会には耳を傾けない、教会の枠の外でキリストと共にいること、というのはひどい自己分裂だ、と言っていました。できないのです。それはひどい自己分裂なのです。わたしたちは教会の中で福音のメッセージを受けます。そして教会の中でわたしたちの聖性を磨き、教会の中でわたしたちのあゆみを築きます。それ以外はいわば幻想、あるいはパウロ六世が言っていたように、ひどい自己分裂なのです」。

 「センスス・エックレシエ(教会感覚)」とはまさに、教会の内部で、感じ取り、考え、愛し求めることなのです。この帰属、この教会の感覚には三つの柱があります。まず第一の者は謙遜、つまり大いなる恵みとしての一共同体の内側にいるのだ、という意識です。

 「謙遜ではない人は、教会と共に物事を感じ取ることはできません。その人が好きなことを感じ取るだけでしょう。そしてこの謙遜はダビデの内側に見出されるものです。「神である主よ、わたしはいったい何者でしょうか?我が家に一体何があるというのですか?」と。その、救いの歴史は自分から始まったのでも、自分が死ぬときに終わるものでもないという意識をもって。いいえ、すべてが救いの歴史なのです。やってきてあなたを、主が受け取り、前に進ませ、それからあなたを(あちらへ)呼び、歴史は続きます。教会の歴史はわたしたちよりも前に始まり、わたしたちの後にも続くでしょう。謙遜。わたしたちは主の道を行く、大いなる民の小さな部分なのです」。

 二つ目の柱は、「聞きわけ(従順)と共にゆく」忠義です。

 「教会への忠義、その教えへの忠義、信仰宣言への忠義、教義への忠義、この教義を保つことです。謙遜と忠義。パウロ六世も、わたしたちは福音のメッセージを賜物として受けたのだから、賜物として差し出さないと思い返させていたものです。これはわたしたちが差し出す、受けた賜物なのです。そしてこの伝達において忠義を尽くすのです。なぜならわたしたちは自分のものではなく、イエスのものである福音を受けたのだから与えなければならないからです。そして自分の好みに合わせて活用するような福音のオーナー、受けた教義のオーナーに姿を変えてはならないのです。

 第三の柱は独自の奉仕です。「教会のために祈ること」です。「わたしたちの教会のための祈りはいかがですか?教会のために祈りますか?毎日ミサの中で、でも自分の家ではしない、でしょうか?いつわたしたちは自分の祈りをするのでしょう?世界のあらゆるところにある、全教会のために祈ること。「主がわたしたちを助けてこの道をいけるようにし、わたしたちの教会への帰属意識とわたしたちの教会との感じを深めることができるといいね。 
(RC-RV)

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