2013年8月16日金曜日

8月14日、じっとしているキリスト者が心配。よどんだ水のようになってしまう。


 先週の9日にコンセプスィオンというアルゼンチンの教区が設立されてから50年を記念して、アルマンド・ホセ・マリア・ロッスィ司教に向けられた、バチカン市国で調印されたメッセージが公開された。

 この教区は教父がとても好きな教区である。時のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿は、その教区司祭たちに霊操をしたことがある。

 「この数日、無原罪の宿り教区はその50周年を祝います。わたしはこの機会に、皆さんのすぐそばにいたいと思います。司祭の霊操の間そちらで過ごした日々を忘れることができません。司祭たちの顔を思い出し、彼らのために祈ります。

 今、わたしは眼差しをさらに広げ、信者一人ひとりに心を開き、祭典にわたしも一致し、皆さん全員の喜びと一つになります。この50年は歩みを刻みました。その歩みはイエスの弟子たちの歩み、福音の宣伝者の歩みです。弟子であり宣教者であること、教区民がすべてあふれんばかりに豊かないのちをもつように。

 「歩くこと、弟子として教育されること、告げ知らせること」。パパは三つの言葉を書く。そして説明をする:「歩くこと」。皆さんは、わたしがじっとしたままのキリスト者のことを恐れているのを知っています。よどんだ水のようになって終わってしまうのです。「弟子として教育されること」:「自分は何でも知っている」、充分だと思う人にも私は恐れを感じます。知らないうちに主に対する心を閉ざしていき、自分自身を中心に据えて終るからです。こうしたキリスト者は「自分のために自分自身と一緒に歩くキリスト者」とでも呼べるような人たちです。

 イエスに出会うと、その出会いの素晴らしい驚きを体験し、祈りや福音を読むことの中にイエスを探す必要性を感じます。イエスを拝み、知る必要性を感じます。イエスのことを告げ知らせる必要性を感じます。そしてこれが三つ目の言葉です。「告げ知らせること」。つまり、宣教者となること、主の名を持ち運ぶこと、その教え、兄弟に対するイエスの仕草を持ち運ぶことです。キリスト者は歩き、弟子となり、告げ知らせます。じっとしていません。自分自身(の殻)から出ていきます。兄弟たちにイエスの良いニュースを告げ知らせるために自分自身(の殻)から出ていくのです。

 「コンセプスィオン教区の愛する兄弟の皆さん、50周年の大きな祝いが皆さんの生活の中で継続的なものとなりますように。わたしたちの母マリアのように、拝むため、また告げ知らせるために自分自身(の殻)から出ていってください。じっとし続けない人でありなさい。なぜならイエスがわたしたちに下さる愛は、苦労のかいがあるからです。楽しい50周年祭を。そしてお願いですから、わたしのために祈ってください。イエスが皆さんを祝福し、聖なるおとめマリアが皆さんを守ってくださいますように。フランシスコ」 
(María Fernanda Bernasconi – RV).

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