2013年8月1日木曜日

7月31日、聖イグナシオの祝日に:中心にキリストと教会を据えること。


 今日の聖イグナシオの祝日の説教で、パパ・フランシスコは三つの概念に基づいて回想を促した。中心にキリストと教会を据えること、奉仕するためにキリストに攻め落とされるに任せること、主と兄弟たちの前で謙遜であるために自分の限界と罪を恥ずかしく感じること、である。

 「わたしたちの標語である《イェーズス・ホミヌム・サルヴァートル》は、決して忘れてはならないある現実をたゆまなくわたしたちに思い起こさせます。わたしたち一人ひとりと、まさにこの点を指摘するために聖イグナシオが『イエスに属する』と呼ばれたがった会全体にとってのキリストの中心性です」と教皇は語った。「そしてこのことは、わたしたち、イエズス会士たちを、そして会全体を『中心から外す』ようにと導きます。いつも『キリストをいつでもより大いなる方』として見据えるということです…。キリストはわたしたちのいのち(生き方、生活、人生)です。キリストを中心に置くということは、教会を中心に据えるということでもあります。この二つは分かちえない二つの炎です。わたしは教会において、また教会と共に、でなければキリストについていくことはできない、ということです。そしてこの場合、わたしたちイエズス会士と会全体は、そういう意味で『中心から外れる』わけです。わたしたちはキリストと教会への奉仕のためにいます。教会に根を下ろし、教会を基礎とする男たちなのです。これと並行した道、あるいは孤立した道というのはありえません。ある、と言えば、探究の道、独創性の道というのはあります。そうです、それは大切です。中心から外れているところに向かっていく。けれどいつも共同体の中で、教会と共に、このわたしたちが前へと進んでいくための勇気をわたしたちにもたらす帰属性をもって、です。」。

 教皇は、この二重の中心性を生きるための道は「キリストによって攻め落とされるがままに任せること」であると強調しながら続けて言った。「わたしはイエスを探し求め、イエスに仕えます。なぜなら彼がわたしを最初に探されたから・・・。スペイン語で、とてもよく描写できる言葉があります。『Él nos primerea(彼はわたしたちに先立つ)』。いつでも彼が最初なのです。わたしたちの全人格と飢えをこの王に捧げるため、誹謗中傷、軽蔑、貧困にあっても耐えることで彼に倣うために神によって攻め落とされることです」。「キリストによって攻め落とされるがままに任せるということは、自分の前にいる方、キリストという目標に向かっているわけですがその方に向かって大広げであるということです」。パパはさらに福音におけるイエスの言葉を呼び覚ました。「自分のいのちを救おうとする者はこれを失うだろう。しかしわたしのために自分のいのちを失う人は、これを救うだろう…」。「『わたしを恥じる人は・・・』」と言いながら、これをイエズス会士の「恥」と対照した。「イエスがする招きはキリストを決して恥じないことにあります。そうではなく、彼に信頼し、信用しながら全幅の献身をもっていつも彼に従うことにあります」。

 「(霊操の)第一週において聖イグナシオがわたしたちに教えるように、イエスを見つめながら、特に十字架に架けられたキリストを見つめながら、その高さにいないことの恥というとても人間的でとても貴い感覚を覚えます…。そしてこれが個々の一人ひとりとしても会としてもわたしたちを、また人類をこの大いなる徳を生きるようにといつも導きます。神の国を建設しなければならないのはわたしたちの力によるのではなく、いつも主の恵みがわたしたちのうちに働くのだということを毎日意識させる謙遜、わたしたちの個人的な奉仕やわたしたちの概念の奉仕ではなく、キリストと教会の奉仕に、もろく、ふさわしくなく、不十分だけれど膨大な宝を運び、これを伝える土の器として、わたしたち自身を差し出すようにと導く謙遜です」。

 その後で教父は、いつでも自分の存在が消えゆくときのことを指摘した。「イエズス会士がその人生に幕を閉じる時」、と言っている時に、二つのイメージが彼の脳裏に浮かぶ。中国を見る聖フランシスコ・ザビエルと難民キャンプで最後の会話をしたアルーペ神父である。「二人のイメージを眺め、思い出すのはわたしたち全員にとって益になるでしょう」と確言した。「わたしたちの人生の夕暮れが彼らのようである恵みを求めましょう」。

 イエズスのローマの教会での説教を締めくくりながら、パパ・フランシスコは集まって来た人々を促し、おとめマリアに「わたしたちが、神の前で謙遜を生きるために、委ねられた宝にはふさわしくないということからの恥を感じることができるように」願い求めた。「聖イグナシオの父としての取り次ぎと、謙遜に、すべてのことをどのようにすればいいかを教え続けてくれているあらゆるイエズス会の聖人たちがわたしたちの歩みにおいていつも共に歩んでくださいますように、ad maiorem Dei gloriam(より大きな神の栄光のために)」。

(RC-RV)

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