2013年8月12日月曜日

8月11日、お告げの祈り:終ることのない祝祭の大いなるまた深いわたしたちの望み


 「自分のこころを磁石のようにひきつける現実とはどのようなものでしょうか?」 ローマ司教は今回、ローマの夏の暑い正午のお告げの祈りで、サン・ピエトロ聖地の広場の巡礼者たちと共に、その祈りの前の回想で自分に問いかけるようにと招いた。

 マリアの祈りの後で、パパ・フランシスコは、まずわたしたちの兄弟である、ラマダンのつきの祝いを締めくくった世界じゅうのイスラム教徒たちに挨拶をした。

お告げの祈りの前のパパのことば

愛する兄弟姉妹の皆さん、おはよう!


 この主日の福音(ルカ12章32―48節)はキリストとの決定的な出会いへの望みについてわたしたちに語っています。この望みは、いつも準備してあり、目覚めた精神でいられるようにとするものです。なぜならわたしたちは全身全霊をかけてこの出会いを待ち望んでいるからです。これはいのちの基礎的な局面です。目に見える形であれ、隠れた形であれ、だれしもが心に持っている望みがあります。わたしたちは皆、心にこの望みを抱いているのです。

 また、このイエスの教えを具体的な文脈で見ることは重要です。イエスが伝えた存在論的文脈において見ることです。このケースでは、福音記者ルカはエルサレムに向かって弟子たちと共に歩いているイエスを示します。死と復活の過越しに向かって歩いていたのです。そしてこの歩みの中で自分が心に持っていることを彼らに託しながら教育をします。それはそのやる気の深い所にある態度でした。こうした様々な態度の中で、地上的な財産への執着からの解放、父の摂理への信頼、まさに内面でのめざめて注意している状態、神の国の働きへの期待が見出されます。イエスにとっては、父の家へと帰っていくことへの期待です。わたしたちにとっては、キリスト自身への期待です。キリスト自身が、その至聖なる母マリアを、天に上げられた時に既に行ったように、わたしたちを終ることのない祝宴へと導くために探しに来ることへの期待なのです。

 この福音は、キリスト者というのは、自分の中に偉大で深い望みを抱えているのだということをわたしたちに言おうとしています。それは歩みの同伴者である兄弟たちと共に主と出会うあの望みです。そしてイエスがわたしたちに言うこの全てはイエスの名言に集約されます。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ」(ルカ12章34節)。

 望みをもつ心。誰もが望みをもっています。けれど、望みを持たない人々、前に進んで地平線に向かう望みをもたない人々は哀れなものです。わたしたちキリスト者にとって、この地平はイエスとの出会いです。ほかでもなくわたしたちのいのち、わたしたちの喜びであるイエスとの出会いです。わたしたちを幸せにしてくださる方です。わたしは皆さんに二つの問いかけをしようと思っています。一つ目:皆さんは全員望に満ちた心をもっていますか?考え、心の中で沈黙のうちに応えなさい。あなたは望む心をもってますか?それとも閉じた心、眠った心、人生のものごとで麻痺した心をもっていますか?望み。イエスとの出会いに向かって前進する望み。

 二つ目の問い:あなたの宝はどこにありますか?あなたの望むものはどこに?というのはイエスがわたしたちにこう言っているからです。「あなたの宝のあるところに、あなたの心があるのだ」と。わたしは問います。あなたの宝はどこにありますか?あなたにとって一番大切で貴重な現実は何ですか?自分の心を磁石のようにひきつける現実は何ですか?あなたの心をひきつけるものは何ですか?それは神の愛だと言えるでしょうか?主と兄弟たちのために生きる望み、他者によいことをする望みである神の愛でしょうか?こう言うことができるでしょうか?一人ひとり、自分の心の中で答えましょう。

 こう答えてくれる人もいるでしょう。「神父さん、でもわたしは仕事をしています。家族がいます。わたしにとって、一番重要な現実はわたしの家族を引っ張っていくことです。仕事です・・・。そうでしょう、真実でしょう。それは重要なものです。けれど、家族を一つにする力は何ですか?それはまさに愛です。そしてわたしたちの心に愛の種を蒔く人は神さまです。神の愛が日々の小さな献身に異議を与えるのです。そして神の愛が大きな試みに立ち向かうのを助けてくれるのです。これこそが人のほんとうのたからものです。愛をもって人生において前進することです。主が心に蒔いてくださったあの愛をもって。

 けれど神の愛というけれど、それはなんですか?それは何かつかみどころのないものではありません。属の感情ではありません。神の愛には名前と顔があります。イエス・キリストです。イエスです!神の愛はイエスにおいて示されました。なぜならわたしたちは空気とか、何か『すべて』と呼ばれるものを愛することはできないからです。わたしたちはそれぞれの性格のある人々(人格)を愛します。そしてわたしたちが愛する人(人格)は、わたしたちの間にいる父からのプレゼントであるイエスです。彼こそが他のすべてに価値と美しさを与える愛なのです。イエスは家族や仕事、勉強や友情、芸術や人間活動全般に力を与える愛なのです。そしてネガティブな経験にも意味を与えてくれます。なぜならこうした体験のさらに向こう側へと行くことができるようにしてくれるからです。もっと向こう、悪に捉われ続けるのではなく、希望にいつもわたしたちを開く、もっと向こう側へと通過させてくれるのです。神の愛は、イエスにおいて、いつでもわたしたちに希望を開きます。あの希望の地平線へ、わたしたちの巡礼の最終的な地平へと。このようにして飢えやつまずきにも意味が見い刺されます。神の愛においてわたしたちの罪にも意味が与えられるのです。なぜならこのイエスにおける神の愛はわたしたちをいつもゆるすからです。わたしたちをあまりに愛するあまり、いつでもわたしたちを赦してしまうのです。

 愛する兄弟の皆さん、今日、教会においてわたしたちはアシジの聖クララを記念します。聖クララはフランシスコの足跡をたどって、すべてを捨てて清貧のうちにキリストに奉献しました。聖クララはわたしたちに今日の福音のとても美しい証しを示してくれます。聖クララが、おとめマリアと共に、わたしたちもそれぞれの召し出しを生きることができるよう助けてくださいますように。

(イタリア語からの翻訳:ラウル・カブレラ-Radio Vaticano)

 神の母への祈りの後、パパ・フランシスコは8月15日にマリアの被昇天を祝うことを想起させた。そこでイエスと共に天におられるわたしたちの母を思い出すようにと促した。その後で、挨拶を始めたが、世界じゅうのイスラム教徒に向けて挨拶をし、繰り返しキリスト者とイスラム教徒が互いに相互の尊重を約束するようになる望みを示した。

「わたしは兄弟である全世界のイスラム教徒の皆さんに挨拶の言葉を向けたいと思います。ほんの少し前に、ラマダンのつきの締めくくりを祝いました。特にその期間、断食と祈りと施しに捧げられました。その機会にわたしのメッセージに書いた通り、キリスト者たちとイスラム教徒たちが、相互尊重のために献身してほしいと望んでいます。特に新世代への教育において」。

 教父はまた情愛をもってサン・ピエトロ広場のローマ住民と巡礼者たちに挨拶をした。「今日、また青年たちのグループにも挨拶ができることに喜びを感じています。シカゴからルルドとローマへの巡礼にやってきた皆さんに始まり、イタリアの様々なところから来た皆さん、スカウトのグループの皆さんがいます。みなさんにリオでの大会のテーマであった『行って、すべての民の中で弟子になりなさい』という言葉を繰り返します」。

 そしてよい主日と楽しい昼食を願って、パパは習慣的な主日の集いを閉じた。

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