2013年8月22日木曜日

8月21日、日本人の中学生に(西武学院文理中学校生徒の非公式訪問):対話が平和をもたらす


 この水曜日の午前中、教皇フランシスコは日本の東京にある西武学院文理中学校の、15人の教授と200人の中学生たちを迎えた。この短い日公式会見は聖ダマススの中庭で行われ、教父は青年たちに、他の文化の他の人々との出会いに出ていくようにと招いた。育つこと、孤立しないこと、対話すること。「対話なくして平和はありえない」と繰り返した。

日本人の中学生たちへの教皇のことば

おはようございます!

 イタリア語が分るようなので・・・・・、みなさんに挨拶します!
 わたしにとってこの訪問はうれしいものです。皆さんにとってもこの旅がとても実りあるものであるように望んでいます。だって他の人たちや、他の文化を知ることは、わたしたちにとても役立ちますから。わたしたちを育みます。これは、どうしてでしょうね?なぜならもしわたしたちが自分たちの世界で孤立したならば、持っているものしか持たず、文化的に育つことができないからです。そうではなく、もし他の人々や他の文化、他の考え方、他の宗教に出会いに行くならば、もし自分たちの殻から出ていくならば、「対話」と呼ばれる本当に素敵な冒険に乗り出すことになるのです。対話は自分の成熟のためにとても大切です。だって他の人や他の文化と向き合うことにおいて、それから他の宗教との健康的な向き合いにおいて、人は育つからです。育ち、成熟します。もちろん、危険もあります。もし対話なのにそこで自分自身に閉じこもり、邪魔を感じるならば、喧嘩することにもなりうるからです。危険は喧嘩にあります。それはよくありません。だってわたしたちは出会うために対話するのであって、喧嘩するためではないからです。じゃぁ対話して喧嘩しないために持たなければならない一番深い態度は何でしょう?それはおとなしさです。平和をもって他の人や他の文化と出会う能力です。賢い問いをする能力です。「あなたはなぜそのように考えるんですか?この文化ではどうしてそのように考えるのですか?」まず他の人に耳を傾け、その後で語ることです。まずは聞き、後で話すこと。これはおとなしさです。もしあなたがわたしのように考えないならば・・・「でも、ほら、わたしは違う考え方をしています。あなたの意見ではわたしは納得しません。でもやっぱり僕らは友達ですね。僕はあなたの考えを聞きましたし、あなたは僕がどう考えるかを聞きました」。そして一つこれを知っていますか?一つ大切なことを?この対話はあの平和を作るものなのです。対話がなければ平和はありえないのです。見受けられるあらゆる戦争、あらゆる闘争、あらゆる解決しない問題は、対話にかけているから存在するのです。問題があるところには、対話を。それが平和をもたらすのです。そしてこれはこの皆さんの対話のたびにおいてみなさんに望んでいることです。対話することを学んでください・・・「あぁ、この文化は、なんでこうやって考えるのか、これは素晴らしい、これは好きじゃない」となりますが、対話をしながらやっていけば、育っていくのです。このことをみなさんに望みます。そしてローマへの旅を楽しんでください。皆さんと、その学校と、その家族に一番よいものが与えられるように望みます。神さまが皆さんを祝福して下さいますように。ありがとう。
(RC-RV)

2013年8月18日日曜日

回勅『信仰の光』、項ごとまとめ



(以下のまとめは、ホアン・パブロ・マルティネス神父による まとめの翻訳です)

信仰の光(まとめ)
2013629日の聖ペトロとパウロの祭日に、パパ・フランシスコはその在位期間最初の回勅を出し、75日にこれを公開した。これは前任者によって、第二バチカン公会議開始からの50周年及びカトリック教会の教え(要理)の発表から20周年を記念するために呼びかけられた信仰年の枠内で行われた。

導入 (1-7) 光よりの光:
1.    信じる人は歩み全体を照らす光を見る。「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」(ヨハネ1246節、IIコリント46節参照)。異教世界ではSOL INVICTUSを信じていたが、これはいのちを照らすことはできても、死までを照らすことはできなかった。

幻想の光?
2.    現代人の多くは信仰とは幻想だと思っている。ニーチェが言っていたように、信じるとは探究する(問いかける)ことの反対であると考えている。彼らにとって、信仰とは未来に向かって自由に進んでいくことを妨げる蜃気楼である。
3.    しかしながら、理性だけの光では充分に照らすことはできない。大いなる光、大いなる真理を探し求めるのをやめて、人は束の間を照らす、道を開くことのできない小さな光の数々に満足してきた。光の足りない時、すべては混乱し、善悪を見分けることはできない。目的地へ導く小道と、確かな方向性がなくどうどうめぐりをさせる別の小道とを見分けることができないのである。

見出されようとしている光
4.    人の全存在を照らすことのできる、信仰の輝かしい特性を回復することは緊急課題である。信仰は、わたしたちを呼び、その愛をわたしたちに示す生きた神との出会いから生まれる・・・。この愛によってわたしたちは変えられ・・・その内に充満の約束があることを体験する。信仰は、超自然的な賜物で、こみ日おける光として紹介され、時間(基本的な思い出  受肉  地平線を照らす星  復活)の中で孤立したわたしたちの「自分」を越えるようにとわたしたちを連れ行くわたしたちの歩みを導く。
5.    パパ・ベネディクトは信仰年を呼びかけた。初代教会のキリスト者たちの強みを回復することが扱われている。彼らはキリストを自分の父、信仰をその母として告白していた。というのは、子孫を生んだ(光に送りだした)からである。- ルスティコトヒエラックスの対話。
6.    信仰年は信仰についての公会議である第二バチカン公会議の50周年記念に始まる(パウロ六世)。現代世界に信仰が輝くようにしって作られたものである。
7.    この信仰についての文章は、パパ・フランシスコによればベネディクト十六世によってほとんど完結していたという。「キリストにおける兄弟愛に心から感謝します。わたしはいくつかの付加をしながら、彼の貴い仕事を引き継ぎます。ペトロの後継者は、昨日も今日も、いつでも神が全人類の歩みの飢えに降り注ぐ光のように神が与える信仰の比べようのない宝において、『その兄弟たちを確かなものとする』ように呼ばれています。

第一章:「わたしたちは(・・・)愛を(・・・)信じています」Iヨハネ416節)(8―22項)

アブラハム、信仰における我らの父
8.    信仰はわたしたちに道を開き歴史を通してわたしたちの歩みに寄り添う。これを理解するためには、信仰者の歩みを考慮に入れなければならず、その中でも神が「み言葉」を差し向けるアブラハムを取り上げる。信仰は聞くことと関連付けられる。信仰は個人的に開示される言葉への応答、わたしたちの名でわたしたちに呼びかける一人の「あなた」への応答である。
9.    この「みことば」がアブラハムに伝えることは、自分の土地から出ていくようにという呼びかけである。信仰は歩んでいくうちに「見る」ようになる。信仰は「記憶」であり、新しいいのちの「約束」へと自らを開くことへの招きである。信仰は「将来の記憶」である時、希望と結びつけられる。
10. この「み言葉」に信頼するようにとアブラハムは求められます。その言葉は最も確かで壊れることのないもの、しっかりとした岩なのです。信仰には(ヘブライ語で)“´amán”という単語から来ている“´emûnah” という単語が使われ、それは支える、という意味である。「人は約束する神を信じながら忠実であり続けます。神は人に約束したものを与えることで忠実であり続けます」 (『詩篇について』 32, II)
11. 神の言葉はそれが真新しいこと(ニュース)であり約束でありながら、父祖(アブラハム)の独自の体験と無関係ではない。み言葉が彼に示す内容は、すでに彼の心に刻まれていたことである。アブラハムに、自分に全く信頼するようにと求める神は、アブラハムに父性を提供し、自らの父性を示す。それはあらゆることの起源であり、あらゆるものを支えるものである。イサクをいけにえにするという試練において、神は死後までも含め、いのちを確証することを示す。

イスラエルの信仰
12. 出エジプトにおいて、イスラエルの民の物語はアブラハムの信仰の航路の続きを担う。信仰は起源的な賜物から生まれ、それは約束された地への長い歩みへの呼びかけである。神はその息子の手をとっていく父である。ゴシック建築を見ると、その約束を果たす神の祝福の歴史を見ることができる。「大きなカテドラルで、光は聖なる歴史を表現しているステンドグラスの絵を通して天から届きます。神の光はその啓示の物語を通してわたしたちに届きます。そしてこのようにして、神の祝福をお思い出しながら、またその約束がどのように果たされるのかを示しながら、時の中でわたしたちの歩みを照らすことができるのです」。
13. イスラエルは不信の誘惑に落ちた。信仰の反対は偶像崇拝であり、回心は偶像からの離脱である。「偶像崇拝は道を示さず、どこにも導かない大量の小道を示します。そしてむしろ迷路を作るのです。神に信頼したくない人は『俺を信じろ』と叫ぶ実に多くの偶像の声を聞かざるを得なくなることに気づきます」。
14. イスラエルの信仰において、モーセを取り上げる。モーセは神と語り、主のみ旨を全員に伝える仲介者である。このように、個別の信仰の行為が共同体に入り込むのである。この黙想は、個人主義の概念をもち、知識に限りがあると、理解が難しいものである。

キリスト教の信仰の完全態
15. アブラハムの信仰はイエスへと向かっていた(ヨハネ856節)。父祖たちは、すでにやってきた方への信仰ではなく、来るべき方への信仰によって救われた。イエスの人生は神とそのわたしたちへの愛の最高で決定的な表明である。それは神の最後のアーメン(このようにあれ)である。
16. キリストの愛の信ぴょう性に関する最大の試練は、そのわたしたちのための死に見出される(ヨハネ1513節参照)。「どれほどわたしを愛しているかを示すために死を避けなかったこの愛において、信じることができます・・・わたしたちがキリストに完全に信頼することができるようにしてくれるのです」。
17. キリストの死は復活の光に照らすとき、神の愛の完全な信ぴょう性を示す。復活はイエスを忠実な証し人にした(Iコリント1517節)。復活においてわたしたちキリスト者は、歴史において働きその最終的な目的地を定める神の、具体的で効果的な愛を告白する。
18. 信仰はイエスを見つめ、また神についてわたしたちに説明をする御子、イエスの視点で(物事を)見る(ヨハネ118節参照)。「そのみ言葉や証しを受け入れる時、わたしたちはイエス『を信じます』。なぜなら彼は真実だからです(ヨハネ630節参照)。イエスを一人の人格としてわたしたちのいのちに招き入れ、彼に信頼を置き、愛を通してイエスと一つになり、長い道のりでイエスに従う時、わたしたちはイエス『に信頼します』。

信仰を通しての救い
19. 信じる者は新しい被造物に作り変えられる、つまり息子(娘)になるのである。信仰は神の善意を認識することであり、神を中心に置くことである。そしてわたしたち自身の働きに信頼することは、わたしたちを中心に置くことである。「あなたをおつくりになった『お方』から、たとえ自分自身に向かうにあたっても離れてはなりません」
20. 信仰のロジックの中心を、受肉と復活によって天と地の淵との間にいるイエスに置いている。キリストへの信仰はわたしたちを救うのだが、それはイエスにおいていのちはわたしたちに先立ち、わたしたちを作りかえる愛、わたしたちの中でわたしたちと共に働く愛、人生の起源と終点、人の歩みで描かれた完全な弧を照らす愛に対して抜本的に開かれるからである。
21. キリスト者はイエスの目、その息子(娘)としての条件をもつことができる。なぜならその愛、つまり聖霊に参与するものとなり、イエスを主と認識し、キリストがその人のうちに生きるからである。
信仰の教会的様相
22. 信者としての存在は教会的存在へと姿を変える。信者たちはキリストにおけるたった一つの体を形成する。「キリスト者は『一つ』です(ガラテヤ328節参照)が、その個別性を失わず、他者への奉仕のうちに一人ひとりその独自のあり方に到達するのです」。信仰はキリストの体の中で告白される。信仰には個人的な次元と公的な次元とがある(ローマ1010節)。


第二章:信じなければ、あなたがたは理解できないだろう(確かにされない)(イザヤ79節)(23-26項)

信仰と真理
23. 信仰はわたしたちを支える、信仰は岩のようなものである。信じなければ、理解できないだろう。もし信じないならば、あなたがたは生きられない(生計を維持できない、存続できない)だろう(イザヤ79節)。アハズ王の不信を前に、「アーメン(なれかし、言われた通りになるように)」の神、忠実さの神を信じるように招かれている(イザヤ6516節)。「わたしはあなたのうちに安定し、堅固なものとなる、あなたの真理のうちに」
24. 真理のうちにわたしたちは存続し、理解する。真理のない信仰は空っぽである。人は知識を必要としている。真理を必要としている。なぜなら真理がなければ存続できず、前進して行かないからである。信仰はわたしたちの計算を越えた新たな光を提供する。
25. 現況の文化は真理をただの技術的真理、あるいは個人的な真理、相対的な真理としてしか受け入れない傾向にある。大いなる真理というのは、個人的ないのちと社会的ないのちをすべて含んで説明するが、全体主義や熱狂主義の根幹として疑いをもってかかられている。

愛と、真理に関する知識Amor y conocimiento de la verdad…
26. 信仰は特別な知識である。心をもって信じられるものである。心というのは人の中心であり、体と精神とを結ぶ。つまり信仰は全人格を変容させる。なぜなら信仰は愛のうちに働くからである。
27. ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインは信仰とは主観的な状態が体験される恋愛のようなものであると言及している。啓示によれば愛は真理とつながっているのであって、純粋な願望の感情とつながっているわけではないので、いつまでも続く歩みへと姿を変えるものである。愛が真理を必要としているのと同じ仕方で真理は、それが冷たく、非人格的で抑圧的なものとならないために愛を必要とする。「(あなたは美しく、)その目は鳩のよう」とは、照らされた愛の理解に到達することである(雅歌15節)。
28. そこで信仰は知識の泉となる愛なのである。そのため真理と(信頼に基づいた)忠実さは一致して進み、真の神は(信頼のおける)忠実な神なのである。

耳を傾けることと目を向けることとしての信仰
29. 人を愛しみ言葉を人に向ける契約の神は信仰と傾聴とをつなげる。『フィデス・エクス・アウディトゥ(聞くことからの信仰)』(ローマ1017節)とあるが、そこから信仰について従順が語られる。聖書的には耳を傾けることは神の顔を見る願望と一つになる。聴力は時間の中で示される啓示よりも、呼びかけ、応答と結びつきやすい。そして視力は歩んできた道のりすべてを眺める展望と結びつき、神の大いなる計画の中にわたしたちを据えることができる。
30. 見ることと耳を傾けることとの関連は聖ヨハネにおいて好んで用いられ、み言葉の受肉においてその実現を見る。わたしたちに開き示される信仰の真理はキリストとの出会い、その命を眺めること、その現存の近くにその中心を置いている。
31. その受肉をもって、イエスはわたしたち(人類)に触れられた。そして、秘跡を通して、今日もわたしたちに触れられる。信仰をもって、わたしたちは彼に触れ、その恵みの力を受けることができる。心で触れること、それこそ信じることである。

信仰と理性間の対話
32. キリスト者の信仰は神の愛に端を発して全現実を照らすべきである。そしてギリシャ世界において対話の相手を見出した。福音派哲学的思考と出会い、あらゆる国々に行きわたった。ヨハネ・パウロ二世は信仰と理性は互いに強めあうことを示した。信仰はキリストにおいてあらゆる人間関係を照らす。
33. 聖アウグスティヌスは神の超越を理解し、あらゆる物事が自らのうちに神の良さ、善を反映することのできる透明性をもっていることを見出した。神は彼を導いた光であることを理解したが、その強烈な出会いは、傾聴と、「とって読みなさい」と言われローマ人への手紙13章を呼んだ人格的な神との出会いのうちになされた。そこで、「人の中で輝くみことば」について触れながら、見ることと聞くことは一つになった。
34. 愛の光は真理をもって照らす。そのため信仰はわたしたちの元台の対話の相手を照らすことができる。忍耐を失わせるかわりに、信仰の落ち着きがわたしたちを歩みのただ中にすえ、証しとすべての人々との対話を可能にする。科学研究を提示する世をよりよく照らすための理性の地平を拡げるのである。科学は信仰の恩恵を受ける。

信仰と神の探求
35. 信仰の光は神を探し求めるすべての人の歩みを照らす。様々な宗教の追従者たちとの対話を好む。そして信仰を道として認めるにあたり、信じなくとも信じることを望み、探し求めることをやめない人々と関連付ける。光は道となる(マタイ2112節)。アブラハムは神の声を聞く前に、すでに沈黙において神を探していた。「善を実践するために歩み始める人は神に近づき、すでに神によって支えられている」。

信仰と神学
36. 光を扱うにあたり、信仰はわたしたちをその光の中に入っていくようにと招く。わたしたちが愛するものをよりよく知ろうと望むということから、キリスト者の神学は生まれる。それは、教皇と司教たちの主との一致のうちにある教導職のみられる、信仰の教会的形に参与することである。これはもともとの源泉、つまりその神のみ言葉全体と関係をもつことを約束する。信仰の科学としての神学は、自らのうちに神が持っているその神に関する知識に参与することである。

第三章:わたしは自分が受けたものを伝えます(わたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです)(Iコリント153節)(37-49項)
教会、わたしたちの信仰の母
37. 聞くことと見ることである信仰は、みことばと光として伝えられる。キリスト者の生活の二つの実践である「わたしは信じた。それで、わたしは語った」(IIコリント413節)および「わたしたちは、・・・鏡のように主の栄光を映し出しながら…主と同じ姿に作りかえられていきます」(IIコリント318節)。信仰は説教と触れ合いを通して伝えられる(復活のろうそく)。
38. 出会いから生まれる信仰は、伝えられなければならない。世代から世代へと限られた時間の協力を通しての途絶えることのない鎖によって伝えられる。もし人が孤立した個々人であるならば、もし知識の確実さを自らのうちにのみ求める個別の「わたし」のみから始まっているならば、この確信は不可能であろう。
39. それぞれ勝手に信じるということは不可能である。個人的な「わたしは信じる」は共同体の「わたしたちは信じます」ということによって支えられている。「教会的わたしたち」に対する開きは、聖霊が複数のペルソナの一致となる一であり三である神の神秘を豊かにする対話と似ている。

秘跡と信仰伝達
40. 教会はその子らに、もととなる記憶を持つ使徒伝承を通して、その記憶の内容を伝える。しかし信仰は証しとコミュニケーションを必要としており、そのため「本」だけでは十分ではない。このようにして、典礼において、秘跡を通して、この富を伝達するのである。
41. 信仰伝達は何よりもまず、わたしたちを神の養子とする洗礼を通して実現される。だれも自分勝手には生まれてこない。そこで、善の道にわたしたちを据える、生きる具体的な様式と告白すべき教義をも受けるのである。
42. 洗礼志願者の上で三位一体の神の名に呼びかけ、水に浸るにあたって、イザヤの次の言葉をいのちとしながら神の「わたし」に対して開くために個人的な「わたし」に対して死ぬ。「・・・その高い塔は堅固な岩。・・・水は絶えることがない」(3316節)。なぜなら支えとなるしっかりとした何かに出会ったからである。
43. 幼児洗礼はキリスト者の生活の共同体的性格を理解する一助となる。個人的な歩みの一歩というよりも、それは教会の共同体の中で生きられるいのちの瞬間である。聖アウグスティヌスは、両親がすべきことは子どもを生み出すことだけではなく、洗礼を通して神の子として新たに生まれ信仰の恵みを受けるために、神に子どもたちを導くこともある。
44. 信仰の秘跡的本性は、信仰のための糧であるエウカリスティアにおいてその最大の表現に到達する。そこで信仰の歩みの二つの軸が結論付けられる。歴史の軸と、目に見える世から目に見えない世へと導く軸である。
45. 諸秘跡の儀式において、教会はその記憶、特に信仰宣言を通してその記憶を伝える。クレドは神の一致であるあらゆる物事の最も深い秘密における三位一体的構造をもっている。クレドにはキリスト論的告白があり、信仰を告白する人は変えられ、自分を抱きしめ教会との一致の一部分と自らをしながらその存在を拡大する愛の歴史に組み込まれる。

信仰、祈り、そして対話Fe, oración y decálogo
46. 教会の記憶の忠実な伝達における、二つの他の要素があるが、それは主の祈り、天におられるの祈りと、十戒(出エジプト記202節)と祈りとの融合である。その概念では、イエスにおけるその充溢に到着し、自分自身に閉じこもった「わたし」から出ていかせ、そのあわれみを運ぶものとなるためにそのあわれみによって抱きしめられながら、神との対話に入らせる。

一致と信仰の統合性
47. 真理は、務めと分かち合いと目標のうちに一致しているかのように見える人間を前にして、より良い一致の絆である。本物の愛は真理をどうしても必要とする。聖大レオが表現するには、「もし信仰が一つではないのなら、信仰ではありません」とある。信仰が一つなのは、神が一つだからである。主が一人なのは受肉の基本によってである。そして教会は一つで、そうしてわたしたちは同じ岩の上で互いに支え合うのである。
48. 信仰はその純粋さと総合性において告白されなければならない(Iテモテ620節)。そのたった一つの項目ですら否定され得ない。信仰から何かを取り除くことは、聖体的一致から何かを取り除くことになる。信仰は一つの体である。信仰は普遍的(宇宙的)である。なぜなら宇宙と歴史のすべてを照らすからである。
49. 信仰の一致と総合的な伝承に仕えるものとして、主は教会に使徒の後継の賜物を与えた。教導職はいつも信仰に基づくみ言葉についての根元的なみ言葉に聞き従いながら語るのである。

第四章:神は、彼らのために都を準備されていた(ヘブライ1116節)(50-57項)

信仰と共通善
50. 教父たちや旧約の義人たちを紹介するにあたり、ヘブライ人への手紙はそれはただ単に道であるだけではなく、人々が共生できる場所の建設でもあることをも強調する(117節参照)。このようにノアやアブラハム、イスラエルの民は神が人のために都(世界)を準備していることを知っている。この家の堅固さはわたしたちの関係がしっかりすることを必要としている。
51. その愛との関連で(ガラテヤ56節)、信仰は人間関係を照らす。正義や権利、平和のための具体的な奉仕へと据えられる。愛における信仰は関わりとなる。信頼のおける愛がなければ、何ものも人々を本当に一致させ続けることはできない。信仰の腕は天に伸べられるが、同時に愛徳において、神の愛を基礎としてもつ、関係性の上に建てられた都(世界)を建設する。

信仰と家族
52. 未来建設に向かうアブラハムの歩みにおいて、神は父祖たちを、子どもを与えることを通して祝福する。人間の都(世界)において信仰が照らす最初の環境は、家族である。
53. 家族において、信仰は、幼児期に始まって全生涯のあらゆる段階と共にある。だから、両親が家族の中で共通して信仰の実践を培うことは重要である。特に、青年たちはその時期に家族と教会の近さと援助を感じなければならない。

社会生活のための光
54. 信仰は社会関係全体を照らし、兄弟愛の道において広まる。父性との関連性のない兄弟愛は存続することができない。普通の生活に貢献するために人間の都(世界)に信仰の眼差しが提供した利益はどれほどのものだろうか!信仰のおかげで、一人ひとりの無二の尊厳を見出してきた。すべての人は神によって愛されているのである。
55. 信仰は自然を、神によって書かれた文法として尊重するようにさせる。信仰はわたしたちが創造をわたしたちすべてが負債者であるところの賜物として考えることを発展させる模範を求めるようにと招く。わたしたちに、共通善の奉仕のために、権利というのは神からもたらされることを認識しながら、正しい政治の形態を自分のものとするようにと教える。信仰が消えると、それとともにいのちの基盤が弱まる危険性へと走る。わたしたちの都(世界)から信仰が消滅するということは互いの信頼を弱める。

苦しみに向き合う力
56. 試練の時に、信仰はわたしたちを照らす。詩篇116編は叫ぶ。「わたしは信じていた、『わたしはなんと悲惨なのだろう』と言った時にも」(10篇)。キリスト者は苦しみがあることを知っているが、それに意義を与えることを知っている。それを愛のはたらきやわたしたちを見捨てない神への信頼に満ちたささげ、信仰と愛における成長に変えることを知っている。キリスト者はキリストと同じまなざしに参与することを学ぶ。死は照らされ、信仰の最後の呼びかけ、最後の「あなたの土地を離れ、来なさい」という父によって発せられることばとして生きることを可能にする。
57. どれほどの信仰に満ちた男女が苦しむ人々から光を受けてきたであろう!アシジの聖フランシスコは皮膚病の患者から、カルカッタの福者マザーテレサはその貧者から。キリストにおいて、神はこの歩みを分かち合ってきた。そしてわたしたちに光を与える。信仰は希望と手を取り合っていく。そしてたとえ地上の住処が破壊されても、神がキリストにおいて、その体において竣工した永遠の住まいがあるのである。(IIコリント416-55節)。時間はいつも空間に対して上位にある。空間は課程に輝きを添える。一方、時間は将来に向かわせ、希望に置いて歩むようにと後押しをする。

信じた方はなんと幸いなことでしょう(58-60
58. 主の母は、み言葉に耳を傾け、それを心にとめ、その実りをもたらすよい土である。彼女は信仰の完璧なモデルである。聖エリザベトは言う。「信じた方は何と幸いなことでしょう!(ルカ145節)と。マリアは忠実な女性たちと一つになり、これを導く。Fiatにおいて「信仰と喜び」を受胎したのである。
59.  マリアはわたしたちが信じるキリストと密接に結びついている。その受難においてキリストの子としての性質と人類の歴史とが一つになるのである。

60.  教会の母、わたしたちの信仰の母であるマリアへの祈りをささげる。
母よ、わたしたちの信仰を助けてください。 
わたしたちの耳を開き、神の声とその呼びかけに
気づくことができるようにしてください。
わたしたちのうちに
わたしたちの地を離れその約束に信頼しながら出ていって、
主の道に従う望みを燃え立たせて下さい。
その愛に触れられ、
信仰において神に触れられるように助けてください。
神を完全に信頼し、愛において、
とくに揺らぎや十字架の時、
わたしたちの信仰が育ち成熟するようにと呼ばれている時に
信じることができるように助けてください。
わたしたちの信仰に復活の喜びの種を蒔いて下さい。
信じるものは決して一人ぼっちではないことを思い出させて下さい。
イエスの目で見ることを教え、
イエスがわたしたちの歩みにおける光であるようにしてください。
そしてこの信仰の光がわたしたちの中でたゆまず育ちますように。
かげることのない日、
キリスト、あなたの子、わたしたちの主の日が訪れる時まで。
(アーメン)

Juan Pablo Martinez神父による要約