2020年12月30日水曜日

使徒的書簡『父親の心で』 2.やさしい父親


 

 ヨセフはイエスが「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛され」(Lc 2,52)日々成長していくのを見ました。主がイスラエルに対してなさったように、ヨセフはイエスに「歩くことを教え、腕に抱き、彼にとって子どもを自分の頬の高さまで抱き上げ、食べさせるためにみをかがめる父親のようであった」のです(cf. Os 11,3-4)

 イエスは神のやさしさをヨセフのうちに見ました。「父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる」(Sal 103,13)

 会堂(シナゴーグ)での詩編の祈りの間、ヨセフはきっと、イスラエルの神がやさしさの神であり、すべての人にとって善い方であり[1]、「そのやさしさは造られたすべてのものに及びます(新共同訳:造られたすべてのものを憐れんでくださいます)」(Sal 145,9)という声がこだまするのを聞き取ったことでしょう。

 救いの歴史はわたしたちの弱さを通して「希望するすべもない時に」(Rm 4,18)信じることで成就します。しばしばわたしたちは、神は良い部分、私たちの勝者の部分にのみ基づいていると考えがちですが、実際はそのご計画のほとんどは、私たちの弱さを通し、私たちの弱さにもかかわらず実現されるのです。これこそが聖パウロに次のように言わせることになるのです。「そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である!。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました」(2 Co 12,7-9)

 もしこれが救いの仕組み(経綸)の展望であるならば、わたしたちは、自分の弱さを、強く濃く深い優しさをもって受け止めることを学ばなければならないのです[2]

 悪はわたしたちの脆弱さをネガティブな判断で見させるのですが、他方、聖霊はこれをやさしさをもって光の下に持ってくるのです。わたしたちの中にある脆弱な部分に触れるための一番の触れ方は、やさしさです。他の人について指摘する指や批判は、しばしば自分自身の弱さや脆さを受け入れる能力不足のしるしです。「告発者」のわざからわたしたちを救えるのはやさしさだけです(cf. Ap 12,10)。このようなわけで、神の慈しみに出会うことは重要です。特に和解の秘跡の中で、真理とやさしさの体験をしながら。皮肉も、悪もわたしたちに真理を告げることができますが、その場合、それはわたしたちを罪に定めるためです。しかしながら、神からくる「真理」は、わたしたちを罪に定めることなく、わたしたちを受け入れ、抱きしめ、支え、ゆるすということを私たちは知っています。「真理」はいつもたとえ話のいつくしみ深い父親のように示されます(cf. Lc 15,11-32)。わたしたちに会うために出て来て、わたしたちの尊厳を回復し、わたしたちを改めて自分の足で立たせるようにし、わたしたちと共に祝います。なぜなら「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(v. 24)からです。

 ヨセフの苦悩を通しても、神のみ旨やその歴史、そのご計画が届きます。このようにして、神を信仰するということには、神がわたしたちの恐れや脆さ、弱さをとおしても行動することがお出来になることを信じることも含まれると、ヨセフはわたしたちに教えています。そして人生の嵐のさなかで、恐れずに神にわたしたちの舟のかじをゆずるべきであるということをも教えています。時々、わたしたちはすべて


[1] Cf. Dt 4,31; Sal 69,17; 78,38; 86,5; 111,4; 116,5; Jr 31,20.

[2] Cf. Exhort. ap. Evangelii gaudium (24 noviembre 2013), 88, 288: AAS 105 (2013), 1057, 1136-1137.


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