2020年12月30日水曜日

使徒的書簡『父親の心で』 7.影にいる父親


 

 ヤン・ドブラチンスキーというポーランド人の作家は、その本『父の影』という本[1]の中で、聖ヨセフの生涯を小説化しました。影を想起させるようなイメージをもってヨセフの人物像を定めています。イエスにとって天の御父の地上における影、つまり彼を助け、守り、その歩みを続けるために決して彼のそばから離れない存在として見ているのです。モーセがイスラエルの民に思い起こさせていたあのことを考えましょう。「荒れ野でも、…あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た(Dt 1,31)。そのようにヨセフは全生涯を通して父としての役割を果たし切りした[2]

 誰も父親として生まれることはなく、父親になっていくものです。そして子を世に生み出すことだけで父親になれるのではなく、責任感を持って子の面倒をみることによって父親になるのです。誰かの人の人生の責任を引き受ける時はいつも、何らかの意味で、その人に関して父の役割を果たすことになります。

 わたしたちの現代の社会において、しばしば子どもたちには、父親がいないかのように見えることがあります。近年の教会も、父親たちを必要としています。聖パウロのコリントの人々に向けられた警告は、いつでも時宜にかなっています。「養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない」(1 Co 4,15)ですし、司祭や司教も使徒パウロのように語ることができるはずです。「福音を通し、キリスト・イエスにおいてあなたがたをもうけたのはわたしです(わたしがあなたがたをもうけたのです)」(ibíd.)。そしてパウロはガラテヤの人々にはこう言います。「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、あなたがたを産もうともう一度苦しんでいます」(4,19)

 父親であるということは、子どもを人生の経験へ、現実へと導くことを意味します。留めおくためでも、閉じ込めておくためでも、独占するためでもなく、選び、自由であり、出かけていけるようにするためです。おそらく、この理由で、伝統は、ヨセフに、父親という愛称に、「最も貞潔な」という言葉を添えてきたのでしょう。これは単に愛情面の指摘だけではなく、独占することとは正反対のことを表現する一つの態度のまとめです。貞潔とは、人生のあらゆる環境において所有の願望から自由であることにあります。愛が貞潔なものである時のみ、ほんものの愛であると言えます。所有したがる愛は、最終的に、危険で、閉じ込め、窒息させ、不幸にします。神ご自身が人を貞潔な愛で愛し、誤ったり神に対立することまでも含めて自由なままにしたのです。愛の論理はいつも自由の論理であり、ヨセフは特に尋常ではないほど自由な仕方で愛する能力のある人でした。決して自らを中心に置きませんでした。自分の人生の中心にマリアとイエスを置くために、自らを中心から外すにはどうすればいいかをよく知っていたのです。

 ヨセフの幸福は、自己犠牲の論理にあるのではなく、自分自身の賜物のうちにあります。この人の中では決して欲求不満は感じられず、ただ信頼のみが感じられます。その徹底した沈黙は、不平を見つめるのではなく、信頼という具体的なしぐさを心の目で捕えます。世界は父親を必要としており、オーナーを拒絶します。つまり、自分の虚しさを埋めるために他者の所有物を用いたがるような人を拒みます。権威を権威主義と履き違え、奉仕を屈従と履き違え、取り組みを圧迫と履き違え、愛徳を福祉マニアと履き違え、力を破壊と履き違える人々を退けます。ほんものの召命はすべて、単純な犠牲が成熟した状態である、自分自身という賜物から生まれます。司祭であることや奉献生活にもこのタイプの成熟が求められます。結婚生活であれ、独身生活であれ、処女性であれ、召命が、犠牲という論理にのみとどまり、自分自身を捧げるという成熟に至らないときには、愛の美しさと喜びのしるしとなる代わりに、不幸や悲しみ、欲求不満を表現する危険に陥ります。

 子どもという生き方をする誘惑を退ける父性は、いつも新しいスペースに対して開かれています。子どもは誰でも自分と共に神秘を携えています。それは、その自由を尊重してくれる父親の助けと共にのみ開かれうる、何か形容しがたいものです。自分が「使えない」ものになった時、子どもが自律的になり、ひとりで人生の小道を歩めるようになった時、いつも幼子が自分のものではなく、単に面倒を見るようにと託されたものであるということを知っていたヨセフの状況に身を置いた時、その教育活動が完成し、その父親としての役割が完全に生き抜かれたことになるということを父親は自覚するのです。結局、それこそイエスが提言していることになります。「地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」(Mt 23,9)

 父親の役割を果たす状況にある時はいつも、これが決して所有するという行為ではなく、より上位の父としてのあり方を思い起こさせる「しるし」であるのだと心に刻んでおかなければなりません。ある意味で、誰もがヨセフの状況にあります。「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」唯一の天の御父の影であり(Mt 5,45)、御子について回る影なのです。

 

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[1] 原本:『Cień Ojca, Varsovia 1977.

[2] Cf. S. Juan Pablo II, Exhort. ap. Redemptoris custos, 7-8: AAS 82 (1990), 12-16.

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