2020年12月30日水曜日

使徒的書簡『父親の心で』 4.歓迎する父親



 ヨセフは前提条件をつけることなくマリアを迎え入れました。天使の言葉に信頼しました。「ヨセフはその心の貴さをもって、律法において学んだことを愛徳の下に従属させました。そして今日、女性に対する心理的暴力、言葉の暴力、身体的な暴力が明らかなこの世界の中で、ヨセフはまだあらゆる情報がないうちに、マリアの名誉、尊厳、生命によって決断する、尊重と繊細さを兼ね揃えた男性像として現れます。そして、よりよくするにはどうすればいいかとういうその疑いの中で、神は彼の判断を照らしながら選択の助けとなりました」[1]

 人生の中ではしばしば、意味が理解できないような出来事が起こります。わたしたちの最初の反応と言えば、しばしば落胆や反抗です。生じたことに対して歩を進めるために自分の理性判断を脇にやり、どれほど神秘に満ちているように思えても、これを受け入れ、責任を引き受け、自らの歴史と折り合いをつけます。もしわたしたちが自分たち自身の歴史と折り合いをつけられないなら、次の一歩に踏み出すこともできないでしょう。なぜならそのままではいつもわたしたち自身が思い描いた期待と、この結果もたらされる幻滅の囚人となってしまうでしょうから。

 ヨセフの霊的生活は、わたしたちに説明の方法ではなく、歓迎の方法を示します。この歓迎、この和解(折り合い)に端を発してのみ、より大いなる歴史、より深い意義をも感じ取ることがでるのです。どうやらヨブが、生じたあらゆる災厄に対して反抗するようにとの妻の招きを前に答えとして発した情熱的な言葉をこだまさせているかのようです。「わたしたちは、神から良いもの(幸福)をいただいたのだから、悪いもの(不幸)もいただこうではないか(Jb 2,10)

 ヨセフは、受動的に仕方なくあきらめる人ではありません。ヨセフは勇気と力に満ちた主人です。歓迎とは、聖霊からわたしたちにもたらされる剛毅の賜物がわたしたちの生活の中で示される一つの方法です。主のみがわたしたちに、人生をありのままに受け入れ、その矛盾的で予期せぬ、存在の失望の部分にも場を与える力をくださることがおできになる方なのです。

 わたしたちの間へのイエスの到来は、御父からのプレゼントであり、そうして一人一人が、すべてのことについて理解せずとも、自分自身の歴史の肉(本質)の部分と折り合いをつけることができるようにしてくれます。

 それは、神がわたしたちの見ている聖人に向かって言っていることと同じです「ヨセフ、ダビデの子、恐れることはない」(Mt 1,20)という言葉は、わたしたちにも繰り返されているかのようです。「皆さん、恐れることはありません!」と。わたしたちの怒りや失望を脇にやり、この世的な諦めなしに、希望に満ちた力をもって、自分たちが選んだわけではないけれどそこにあるものに対して場を与えなければなりません。このような形で人生を歓迎することは、私たちを隠された意義との出会いへと導きます。わたしたち一人一人の人生は、もし福音がわたしたちに語るようにそれを生きるための勇気を見出すならば、奇跡的に新たに始められるものになるのです。そしてたとば今すべてが誤った道を選んできてしまったかのように見えたり、ある問いが不可逆的に見えたとしても、それは重要ではありません。神は花を岩の間に芽生えさせることができるお方なのです。自分の良心が何かについてわたしたちを咎める時ですら、「神は、わたしたちの良心(心)よりも大きく、すべてをご存じだからです」(1 Jn 3,20)

 存在するものを一切拒まないキリスト教の現実主義が今一度回復します。現実とは、決して簡略化されうることのない複雑さのうちに、その光と闇をそなえた存在の意義を持つものです。それゆえ使徒パウロはこう断言しています。「神を愛する者たち…には、万事が益となるように貢献するということを、わたしたちは知っています」(Rm 8,28)。そして聖アウグスティヌスはこう付け加えています。「たとえ悪とわたしたちが読んでいるものですら(etiam illud quod malum dicitur)[2]。この一般的なものの見方において信仰は、幸福でも悲しくても、一つ一つの出来事に意味を与えます。

 そこで、信じるよりも考えることが良いとは、慰めるよりも簡単な解決を見出すほうが大切だということを意味しているというようなもののとらえ方は、わたしたちから遠くにあってほしいものです。他方、キリストがわたしたちに教えてくださった信仰は、聖ヨセフのうちにわたしたちが見ている信仰であり、これによってヨセフは近道を探すことなく、「目をよく見開いて」自分に生じたことに向き合い、第一人称でその責任を引き受けたのです。

 ヨセフにある歓迎の姿勢は、他の人々を、例外なく、ありのままに、弱者への優先性を持って歓迎するようにわたしたちを招いています。なぜなら、神は弱い者を選び(cf. 1 Co 1,27)、「みなしごの父となり、やもめの訴えを取り上げてくださる」方であり、他国から来た人を愛するようにと命じる方だからです[3]。わたしは、イエスがヨセフの態度を、放蕩息子といつくしみ深い父親のたとえ話のためのモデルとしたのではないかとイメージしたのではないかと思いたくなってしまいます(cf. Lc 15,11-32)



[1] Homilía en la Santa Misa con beatificaciones, Villavicencio – Colombia (8 septiembre 2017): AAS 109 (2017), 1061.

[2] Enchiridion de fide, spe et caritate, 3.11: PL 40, 236.

[3] Cf. Dt 10,19; Ex 22,20-22; Lc 10,29-37.


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