2020年12月30日水曜日

使徒的書簡『父親の心で』序文

 

教皇フランシスコ使徒的書簡『父親の心で』

― 聖ヨセフを普遍(カトリック)教会の保護者として宣言してから150周年を記念して



 

 父親の心で:このようにヨセフは、四つの福音書でも「ヨセフの子」と呼ばれているイエスを愛しました[1]

 その人物像を証言した二人の福音記者、マタイとルカは、少しだけれど、どのようなタイプの父親であったか、そして「摂理」が彼に託した使命(ミッション)を理解するには十分なほど言及しています。

 質素な大工であったこと(cf. Mt 13,55)、マリアと婚約していたこと(cf. Mt 1,18; Lc 1,27)、「正しい人」(Mt 1,19)、いつも神の律法に表された神のみ旨 (cf. Lc 2,22.27.39)や四つの夢見を通して示された神のみ旨(cf. Mt 1,20; 2,13.19.22)を行う心構えがある人であったことを私たちは知っています。ナザレからベトレヘムへの長く厳しい旅の後で、ほかの場所には「彼らのために場所がなかった」(Lc 2,7)ために馬小屋で救い主が生まれるのを見ました。それぞれイスラエルの民と異邦人の民の代表ともいえる羊飼いたち(cf. Lc 2,8-20)や占星術師たち(cf. Mt 2,1-12)の礼拝の場面に立ち会いました。

 イエスの法的な意味での父親となることを勇気をもって引き受け、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(Mt 1,21)と天使が示した通りの名をつけました。周知のとおり、古代の人々の習慣では、人やものに名前を付けるということは、創世記の物語の中でアダムが行ったように(cf. 2,19-20)、所有権を得ることを意味していました。

 誕生後40日たって、神殿の中で、ヨセフは、母親と共に、幼子を主のもとに連れて行き、イエスとマリアについてシメオンが口にした預言を驚きつつ耳にしました(cf. Lc 2,22-35)。イエスをヘロデ王から守るために、外国人としてエジプトにとどまりました(cf. Mt 2,13-18)。地元に帰ると、生まれ故郷のベトレヘムからも、神殿のあったエルサレムからも遠い、「預言者が一人も出たことがなく」「良いものなど何一つ出ることのできない」(cf. Jn 7,52; 1,46)ガリラヤ地方のナザレという小さく無名の村でひっそりと暮らしました。エルサレムに巡礼を行っていた時に、12歳のイエスを見失い、ヨセフとマリアは心配しながらイエスを探し、律法の専門家たちと議論をしていた最中のイエスを神殿で見つけました(cf. Lc 2,41-50)

 教皇教導職の中で、神の母マリアに次いで、その夫であるヨセフほど重要な場を占める聖人はいません。私の先任者たちは、救いの歴史の中でのヨセフが持つ中心的役割を取り上げるために、福音書を通して伝えられたわずかなデータの中に含まれているメッセージについて深く吟味しました。たとえば福者ピオ9世はヨセフを「カトリック教会の保護者」と宣言し[2]、尊者ピオ十二世は「労働者の保護者」[3]、聖ヨハネ・パウロ二世は「贖い主の庇護者」[4]と紹介しました。大衆は「良き臨終の保護者」としてヨセフに呼びかけます[5]

 そのため、福者ピオ9世が1870128日にヨセフをカトリック教科の保護者として宣言してから150年を迎えるにあたり、私は、イエスもおっしゃったとおり、「口が心にあふれていることを語る」(cf. Mt 12,34)ような形で、わたしたちの人間的な状況にこれほどまでに近い、このものすごくすばらしい人物像についての個人的な回想をいくつかみなさんと分かち合いたいと思います。この願いはこの世界規模の感染症を生きる数か月の中で育ってきました。私たちに打撃を与えている危機のさなかで、次のようなことを体験することができました。「私たちのいのちはふつうの人たち―流れの中で忘れられる人たち―によって編まれ支えられています。彼らは新聞や雑誌の一面を飾ることもなく、最新のビッグショーのランウェイに出てくることもないけれど、疑う余地なく、今日、わたしたちの歴史の決定的な出来事を書きつづっています。医者、看護士、スーパーの棚に商品を並べ直す担当者たち、清掃員、物品管理者、物品運送者、警察などの社会保安隊、ボランティア、司祭、修道者、ひとりで救われる人は誰もいないと理解した多くの、しかし実に多くの他の人々…。パニックの種をまかないように気を付け、むしろ共同責任感の種を植えるよう意識しつつ、日々忍耐を示し、希望を促す人々が実に多くいらっしゃいます。お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、先生たちで、わたしたちの子どもたちに、日々の小さなしぐさで、新しい生活習慣に適応しつつ、まなざしを上げ、祈りを促しながら、危機にどのように立ち向かいこれを乗り越えていくのかを示している人は、実にたくさんいらっしゃいますよね。実に多くの方々、すべての人の善を願って祈り、身を尽くし、取り次いでおられます」[6]。このすべての皆さんに、聖ヨセフの中で出会うことができます。目立たずに過ごす人、つつましく隠れた日々にそこにいてくれる人、困難の時の取次ぎ手、支え手、導き手。聖ヨセフは、一見隠れ、あるいは「第二線」にいるすべての人々に、救いの歴史の中で唯一無二の重要な役割があることを思い出させてくれます。そのすべての皆さんのことを、わたしは思い起こし、感謝をささげて言葉を向けたいと思います。



[1] Lc 4,22; Jn 6,42; cf. Mt 13,55; Mc 6,3.

[2] S. Rituum Congreg., Quemadmodum Deus (8 diciembre 1870): ASS 6 (1870-71), 194.

[3] Cf. Discurso a las Asociaciones cristianas de Trabajadores italianos con motivo de la Solemnidad de san José obrero (1 mayo 1955): AAS 47 (1955), 406.

[4] Exhort. ap. Redemptoris custos (15 agosto 1989): AAS 82 (1990), 5-34.

[5] Catecismo de la Iglesia Católica, 1014.

[6] Meditación en tiempos de pandemia (27 marzo 2020): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (3 abril 2020), p. 3.

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