2013年11月25日月曜日

11月22日(金)、朝ミサ説教:わたしたちの聖堂は、礼拝の場になっていますか?


 聖堂は聖なる場所ですが、そこで一番大切なのは儀式を綺麗に行うことよりも、「主を礼拝すること」なのです。とパパ・フランシスコは聖マルタの家での朝ミサの説教の間に語った。パパは人が「聖霊の神殿」であり、自分の内側で神に耳を傾け、ゆるしを願い、神に従うようにと呼ばれている、ということを黙想した。

 聖堂は神の前で民が自分の魂を見守る石造りの家である。しかし聖堂はまた、個々人の体でもある。その中で神が語り、心が耳を傾けるところである。教皇はキリスト者の生活で並行して流れているこの二つの次元を中心にその説教を進めた。そのきっかけは典礼で読まれた旧約聖書の朗読個所にある。そこでユダ・マカバイが戦争によって破壊された神殿を聖別しに戻ってくる。「神殿は、共同体に関する論点の出発点のようなものです。そこは神の民に関わる場所なのです」そこに向かうのには様々な理由があるが、その中で他のものにまさるものが一つある、と説明した。

「神殿は、共同体がそこに行って祈り、主を賛美し、感謝をする場所ですが、なによりも礼拝する場所です。神殿で主が礼拝されるのです。そしてこれが一番大切なポイントです。同様に、これは典礼の式典にとっても通用します。この典礼祭儀で、何が一番大切なのでしょう?歌、式分、どれも美しいですね?でも礼拝が一番大切なのです。集まった全共同体は犠牲が祝われる祭壇を見て、礼拝するのです。でも、わたしが思うに、謙虚に言いますが、多分わたしたちキリスト者たちは、すこし礼拝の感覚を失ってきた気がします。そしてこう考える。聖堂に行こう。兄弟たちと集まろう。それはよいことです。素晴らしいことですよ!でも中心はあちらに、神がいるところにあるのです。そしてわたしたちは神を礼拝するのです」。

 この前提から直接の問いが湧き出る。『わたしたちの聖堂は、礼拝の場となり、礼拝にふさわしくなっているでしょうか?わたしたちの祭儀は礼拝をしやすくしていますか?イエスは、神殿を礼拝の代わりに取引の場として占めていた商人たちを追い出します。でも他の「神殿」があるのです。そして信仰生活において考慮する別の聖性があるのです。

 「聖パウロはわたしたちは聖霊の神殿であると言っています。わたしが聖堂なのです。神の霊がわたしと共にいるのです。そしてこうも言っています。「あなたたちの中にいる主の霊を悲しませてはなりません!」そしてここでも、おそらく礼拝の前のように話すことはできず、自分の中に主の霊を求め、自分の中に神がいることを知っていて、その中に聖霊がいる、そうした心である礼拝の運について語られます。これに耳を傾け、これに従いなさい」。

 きっと神から帰結されるものは、継続的な清めをあらかじめ予測しています。「なぜなら誰もが罪びとだからです」とパパは繰り返し、次のように強調した。「祈り、償い、ゆるしの秘跡、エウカリスティアをもって自らを清めること。そうして「この二つの聖堂には二つの場所があります。物質的な聖堂と礼拝の場です。霊的な聖堂は自分の内側にあり、そこに聖霊がス回っています。この二つの聖堂において、わたしたちの態度は礼拝し耳を傾け、祈り、ゆるしを願い、主をたたえる試合でなくてはなりません」

 「そして神殿の喜びについて語られる時、次のようなことで語られているのです。

 「礼拝や祈り、感謝、賛美のうちにある全共同体」。わたしは祈りにおいて、自分が『聖堂』なのだから自分のうちにいる主と共にいます。人に耳を語る時、心構えのうちにある時に…。主がわたしたちにこの神殿の本当の意味をわたしたちに教え、わたしたちの礼拝の祈り、神の言葉の礼拝と傾聴のわたしたちのいのちにおいて前進できるのです。 

 (Traducción del italiano: Raúl Cabrera-Radio Vaticano)

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