2013年11月24日日曜日

11月23日(土)、洗礼志願者たちへの要理:わたしたちは一つの共通のものを持っています。それは神の望みです。


 この土曜日の午後、バチカン大聖堂でパパ・フランシスコは洗礼志願者の入門式を司式した。5大陸の47カ国から500人の洗礼志願者が来てその要理担当者たちと共にこの集いに参加した。この午後のイベントは、翌日24日(日)に閉じられる、信仰年の一環として特別に組み込まれたものである。そしてこれはベネディクト十六世によって呼びかけられて始まった一年は終るが、むしろ一人ひとりのキリスト者が、自分の弟子となるように招き、福音を宣べ伝え、その生き方で信仰の喜びの証しをするために世に遣わす主イエスに日々応える努力を続けなければならない、ということのしるしとなってほしいという意図で組み込まれたのである。この午後、ローマ司教はキリストにおける新しいいのちの意味と弟子であることについての要理を発した。

洗礼志願者への教皇の要理全文(イベントのラジオ同時通訳より)
 愛する洗礼志願者の皆さん、この信仰年を閉じようとしている時に、皆さんの要理担当者たち、家族たちと共に、また全世界の様々なところで今、皆さんと同じような信仰の歩みを果たしている多くの男女の代表者として皆さんはここに集まっています。

 みなさんは様々な多くの国、文化伝統、異なる経験のあるところからやって来ました。それにもかかわらず、この午後、わたしたちの間では多くの共通のことを感じています。何よりも、一つのことがあります。それは神の望みです。

 この望みは、詩篇作者のことばによって思い返されます。「谷川の水を求める鹿のように、わたしの魂はあなたを探し求めます、わが神よ。わたしの魂は神に渇きます。生ける神に。いつわたしはやって来て、神の顔を見ることになるのでしょう?」 この望み、主に出会い主に関する体験をし、その愛の体験をし、そのあわれみの体験をしたいという切望を活き活きと保つことは、どれほど大切なことでしょう!もし生きる神への渇きが不足し始めたら、信仰はマンネリ化する危険に走り、火おこしのされない炎のように、消えゆく危険に走ります。悪臭を放ち始め、無意味になっていく危険に走るのです

 福音書のヨハネ1章35-42という個所がわたしたちに示したのは、洗礼者ヨハネがその弟子たちにイエスを神の小羊として指し示す場面です。このうちの二人は師について行き、その後、他の人たちが主に出会い、主を知り、主に従うことができるようにする「仲介者」になっていきます。

 この個所には、洗礼志願者の体験に訴えかける三つの時があります。まず第一に、「耳を傾けること」があります。二人の弟子たちは洗礼者の証しに耳を傾けました。愛する洗礼志願者の皆さん、皆さんも、イエスについて語ってくれた人々、皆さんに、洗礼を通してイエスの弟子となりながらイエスに従うようにと提案してくれた人々に耳を傾けてきました。わたしたちの周りや自分自身の内側でこだまする様々な声のざわめきの中で、皆さんはイエスをわたしたちの人生に完全な意味を与えることのできる唯一の方として指し示す声に耳を傾け、この声を受け入れたのです。

 二つ目の時は、「出会い」です。二人の弟子たちは師に出会い、彼のもとに共に留まります。師に出会った後で、すぐに自分の心の中で新しい何かが訴えかけているのを感じ取ります。その喜びを他の人たちにも伝えなければならないような強い力です。その人たちも主に出会うことができるように、と。

 アンデレは、実際、その兄弟シモンに会い、イエスのところに連れて行きます。この情景を思い浮かべることはどれほどわたしたちのためになることでしょう!この情景を思い浮かべると、神が、わたしたちが一人きりでいるため、わたしたち自身の中に閉じこもっているためにわたしたちを創ったのではなく、イエスに出会うことができるため、また他者との出会いにわたしたち自身を開くためにつくられたのだということを思い出すことができます。神はまず、わたしたち一人ひとりに向かって来ます。これは素晴らしいことです。イエスがわたしたちとの出会いを求めてくるのです!
 聖書では神さまはいつも人との出会いのきっかけを作るような存在として現れます。神さまの方が人を探すのです。一般的には、まさに人が神さまを裏切ることで、辛く悲劇の体験をし、神さまから逃げている間に、神さまはその人を探します。神は人を探しに出て行くのに時を待ちません。すぐに探すのです。
 わたしたちの父は忍耐強い探究家なのです!神さまはわたしたちに先立ち、いつだってわたしたちを待ちます。わたしたちを待ち飽きません。わたしたちから離れることなく、わたしたち一人一人との出会いのためにふさわしい時を待てる忍耐があります。そして出会いが生じる時、それは決して いそいそとした出会いではありません。なぜなら神は長い時間わたしたちと共に留まり、わたしたちを支え、わたしたちを慰め、わたしたちに喜びを与えようと望むからです。

 神さまはわたしたちに出会うためには大急ぎですが、わたしたちから離れるのに急ぐことは決してありません。わたしたちのもとに残られるのです。わたしたちが神さまを切望し、神さまを望むように、神さまもわたしたちのもとにいたいと望まれるのです。なぜならわたしたちは神さまに属し、わたしたちは神さま「のもの」であり、神さまによって創られたものだからです。神さまも、わたしたちとの出会いに渇きを覚える、という言い方をしても過言ではないでしょう。わたしたちの神さまわたしたちに渇ききった神なのです。これが神の心です…。このことを感じるのは素晴らしいことです!

 この個所の最後の部分は「歩むこと」です。二人の弟子たちはイエスに向かって歩み、その後でイエスと共なる歩みの道のりをなします。これはわたしたちすべてにとって大切な教えです。信仰はイエスとの歩みなのです…。いつもこのことを思い出しなさい、信仰とはイエスとの歩みのことです。そしてそれは全生涯続く歩みです。そして最終的にいるでしょう。
 当然、この歩みの中には疲れたり混乱したりする時もあるでしょう。けれど信仰はわたしたちにあらゆる状況において、それも最も痛みのある時や理解に困難な状況においても、イエス様が休むことなくそこにいてくださっているということを確かなものとしてくれるのです。わたしたちは、自分たちをはるかに超え、落ち着きと希望を持って生きられるようにしてくれる神の愛の神秘のますます奥深くに入っていくようにと呼ばれているのです。

 愛する洗礼志願者の皆さん、今日皆さんは洗礼志願者としての歩みを始めます。喜びをもって、全幅の信頼を持って皆さんを見守る全教会の支えにおいて確実に、これを歩み通すようにとわたしは望んでいます。
 マリアさまは、完璧な弟子でしたが、皆さんと共に歩んでくれます。マリアを信仰におけるわたしたちの母として感じることができるのは素晴らしいことです!皆さんが信仰の光に目を開かせた最初の時期の熱意を守るようにと、わたしは皆さんを招きます。
 愛される弟子として、イエスと初めて留まった日時を思い返すと、彼らは皆さんの上に注がれるその眼差しを感じたのです。このイエスの眼差しを決して忘れてはなりません。あなたの上に、あなたの上に、あなたの上に注がれた、この眼差しを…。その眼差しを決して忘れてはなりません、それは愛の眼差しなのです!そしてこのように、皆さんは主の忠実な愛のおかげでいつもしっかりとしていられるようになります。主は忠実ですから、しっかりとしていなさい!主が皆さんを裏切るようなことは決してありません!
(Traducción del italiano: Griselda Mutual y Mariana Puebla – Radio Vaticano)

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