今日、恒例の十字架の道行きをローマのコロッセウムでリードするにあたり、パパ・フランシスコは「神はわたしたちのあらゆる罪の重みをすべてイエスの十字架におかれた」ということを強調した。そこで「わたしたちはどれほど永遠にまで愛されているかを手で触れられるほどまでに手に取ってみるのです」。
十字架の道行きにおけるパパ・フランシスコのことば全文
神はわたしたちのあらゆる罪の重みすべて、カインがその兄弟に対して行ったことによってしみ込んだ不正のすべて、ユダとペトロの裏切りの苦々しさのすべて、偽りの友たちの傲慢のすべてを、イエスの十字架に置かれました。
見捨てられた人々の過ごす夜のように、重い十字架でした。 愛する人々の死のように重い十字架でした。悪の醜さをすべて受け取ったために重い十字架でした。しかしながら、それはこのすべてを伴って、長い夜の明けるときのように、栄光に満ちた十字架なのです。なぜならそこに、わたしたちの悪いや裏切りよりも偉大な神の愛すべてを代弁しているからです。
十字架を見るとき、そこに悪に導かれるがままにした時の人のモンスター性が見られます。けれど同時に、わたしたちをその罪に従って扱うのではなく、その愛に従って接してくださる神の憐みの計り知れなさをも見るのです。
イエスの十字架を前に、わたしたちはどれほど永遠にまで愛されているかを手で触れられるほどまでに手に取ってみるのです。十字架を前に、自分たちは物事や対象物ではなく、息子なのだと感じます。それはちょうどナジアンゾスの聖グレゴリオが、次のような祈りをキリストに向けつつ確認していたことです。
我がキリストよ、もしあなたが存在していなかったなら、
わたしは自らを衰弱しきった被造物だと感じるだろう。
わたしは生まれた。わたしは溶けてしまうように感じる。
わたしは眠り、休息し、歩み、
病気になり、癒す。
数えきれない嵐がわたしを襲す。
わたしは太陽と地を豊かにするものすべてに喜ぶ。
それからわたしは死に、
肉体は、罪を持たない動物たちのように塵に帰る。
けれど、わたしには、これ以上何があるというのか?
何もない、神がなければ。
あぁ、我がキリスト、もしあなたが存在しておられなかったら、
わたしは自らを衰弱しきった被造物だと感じるだろう。
あぁ、イエスよ、わたしたちを十字架から復活まで導き、
最後の言葉は悪にあるのではなく、
愛とあわれみ、ゆるしにあるのだということを
我らに教えたまえ。
あぁ、キリストよ、我らがもう一度呼び求めるを得しめたまえ。
昨日キリストと共に十字架にかけられていたわたしが、
今日キリストと共に栄光を受けている。
昨日キリストと共に死んでいたわたしが、
今日キリストと共に生きている。
昨日キリストと共に墓に葬られていた私が、
今日キリストと共に復活している。
最後に、共に、病気の人たちのことを思い出しましょう。十字架の重みの下に見捨てられている人々すべてを思い出しましょう。かれらが十字架の試練の中で希望の力、復活と神の愛の希望の力を見出しますように。
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