2014年4月16日水曜日

4月14日(月)、神学生たちに:もし主の道を続ける心構えがないならば、別の道を探す勇気を持ちなさい


 皆さんは「会社の役職者」になるのではなく、「イエスの似姿を持った牧者」になるのです。これはパパが月曜日にアナーニのレオン会の教皇庁立学校に通う神学生たちに向けて語られた言葉である。この学校はレオン13世によって1897年に設立され、ラシオのイタリア地区の将来の司祭たちを養成する。神学生たちは歩いて巡礼をした後に謁見に参加した。パパはこれをキリストの愛において巡回する「あゆみの美しい象徴」であると定義した。「召命のプロジェクトを実りをもたらす可能性に満ちた使徒的現実に」変えることである。ローマ司教は他の神学校全てと同様、このようにレオン会の務めをまとめた。そして「福音的雰囲気」についてアクセントをつけた。それは「日々、イエス・キリストの気持ち、御父と教会に対するその愛、神の民へのその惜しみない献身に似ていくようにそのうちに浸っていく意識をする」雰囲気である。そして、「祈り、勉強、兄弟愛、使徒的生活」という「四つの養成の柱」を指摘した。

「愛する神学生の皆さん、皆さんは何か専門職を実現するため、会社の役員になるため、あるいは官僚機関の役員になるために準備をしているわけではありません。実に多くの司祭が、その道の半ばにいます。彼らが歩み切ることができなかったのは、痛いことです。どこか役人のようなところがあり、官僚の次元が何らかの形であり、それは教会にとって良くないのです。お願いです。これに陥らないように注意していなさい!皆さんは善き牧者イエスのイメージを持つ牧者に変わっていっているのです。彼のようになり、その群れのただなかで彼の人格を身につけ、その羊たちを牧するために」。

「この召命を前に、わたしたちはおとめマリアが天使に対してしたように答えることができます。『どうしてそのようなことがあり得ましょうか?』と」。イエスのイメージを持つ「よい牧者」になっていくことは、「とても大きなことです。そしてわたしたちはあまりに小さいのです」。けれど実際は、「わたしたちのわざではないのです」。「それは、わたしたちの協力の伴う、聖霊のわざなのです」。

「これは、自らを謙遜に捧げることなのです。形を変えるために粘土を、陶工、それは神ですが、陶工に渡し、水と火を使って、つまりみ言葉と聖霊を使ってこれで仕事をするようにと捧げることです。これは、聖パウロが言っているあのことに入っていくことです。『もはや生きているのはわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです』(ガラ2章20節)。そのようにしてのみ、教会において助祭になったり司祭になったりすることができるのです。そのようにしてのみ、神の民を牧し、わたしたちの道ではなく、イエスの道を、いや、それよりも、イエスという道において率いていくことができるのです」。

 「最初のうちは、必ずしも完全にまっすぐな動機が存在するわけではない」のは確かです。「そういうのが存在するのはむしろ難しいです」。

「わたしたちには誰しも、まっすぐな動機ではないそうした小さなものがいつもありました。けれど時間とともにこれは日々の回心によって解決されていきます。使徒たちのことを考えましょう!聖ヤコブとヨハネのことを考えてごらんなさい。一人は首相になりたくて、もう一人は大蔵大臣になりたがっていました。なぜなら一番大事だったからです。使徒たちは、・・・他のことを考えていました。そして主は実に忍耐強く、・・・意向の修正を行い、最終的には伝道と殉教に命を懸けるほどまでも意向がまっすぐになりました」。

 フランシスコは「生き方と伝道をもって福音をのべ伝えるために、毎日福音を黙想すること」の大切さをこうして強調した。そしてさらに、「和解(ゆるし)の秘跡において神の憐みを体験する」ことの大切さをも強調した。「そしてこれは決してしなくなってはなりません」。「いつも告解をすること!」 「そうして寛大であわれみ深い奉仕者となるでしょう。なぜなら皆さんを寛大であわれみ深い奉仕者にするために自分たちに注がれる神の憐みを感じることになるからです」。よき牧者になるということは、愛をもって聖体祭儀によって養われ、これによってキリスト教の民に栄養を補給することを意味します」。また「祈りの人となり、父をたたえ、たゆまなく兄弟たちのためにとりなしをするキリストの声となっていくことを意味します」。もし皆さんに「この道を、この態度とこうした体験をもって続ける心構えがないのなら、他の道を探す勇気を持つ方がよいのです」。教皇は神学生たちにこのように忠告した。

「教会にはキリスト者としての証しをするのに実に多くの形があります。そして聖性へと導く道も実にたくさんあります。イエスの奉仕の結果には、凡庸さには余地がありません。あの神の聖なる民を自分自身の利益のために用いるようにとつねに導く凡庸さには余地がないのです。災いだ、自分自身を牧するイスラエルの牧者たちは!牧者は羊の群れを牧するべきではないのか?と実に力強く預言者たちは叫んでいました(エゼ34章1-6節参照)」。

 アウグスティヌスは、この預言のフレーズを、その『牧者について』の中で取り上げています。「悪い牧者たちは災いだ。なぜなら神学校は、真実を言えば、わたしたちの持ちうる実に多くの限界のための逃げ場、心理的な限界のための逃げ場、人生において前進していく遊金がないため、そこに自分を守ってくれる場所を探すような逃げ場ではないからです」。

「違います、それではないのです。もし皆さんの神学校がそういうところなら、教会にとっての負担になってしまうでしょう!違います、神学校はまさに前進していくためのものです。この道において前に進み、預言者たちが「災いだ!」と聞くときに、この「災いだ!」がわたしたちに真剣にその将来について考えさせるものとなるのです。かつてピオ十一世が、はっきりしない候補者をもって危機にさらされるよりは、一つ司祭証明を失った方がましだ、と言ったことがあります。かれは登山者だったので、そういうことを知っていたのでしょう」。

 パパはその演説を、神学生たちをおとめマリアにゆだねて結んだ。「ロシアの神秘家たちは、霊的な騒乱の時に、神の聖母のマントの下に逃げ込むことが必要である、と言っていました」。そういうわけで、出ていくのですが、マリアの「マントに包まれながら」出ていきましょう。
(RC-RV)

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