朗読箇所:エゼキエル47章1-9、12節/ヨハネ 5章1-3、5-16節
「感覚の麻痺したキリスト者は教会に益を及ぼしません」。パパは聖マルタの家で祝われた朝ミサの説教でこう強調した。フランシスコは、形式主義にとどまる必要はなく、「活用すること」、霊的怠慢に打ち勝ち、福音を告げ知らせる第一人者となる危険に身をさらすことこそ必要なのだと再確認した。
パパはその説教を、イエスと38年間、泉の回廊の下に見られ、癒しを待っていた中風を患っていた人との出会いについて語る福音箇所に留まって発展させた。この男は嘆いていました。なぜなら水に身を浸すことができなかったからです。というのはいつも他の人が自分より先に行ってしまったからです。けれど、イエスは彼に立ち上がって、行くようにと命令します。この奇跡はファリサイ派の人々の批判を巻き起こします。なぜならそれは安息日だったからです。そしてその日にはこのようなことはできないと言っていました。教皇はこの話に二つの強い、霊的な病気が見られるとその見解を述べました。「考えめぐらすことでわたしたちの駅になる」二つの病気についてです。何よりもまず、病人のあきらめです。不快感に満ち、一人で嘆いています。
「わたしは、多くのキリスト者、多くのカトリック信者ことを考えています。そうです!カトリックなんですが、熱意もなく、しかも不快感に満ちている人たちです!『そりゃそうですよ、人生ってそんなものです、しかたないでしょ、でも教会が・・・わたしゃミサに毎日曜日言ってますけど、実際に活用しない方がいいでしょうね。自分は十分健康だと思いますよ。ほかの人にこれを挙げに行く必要は感じませんね…』。それぞれ自分の家で、自分の生活に落ち着いて・・・。もし何かしたら、あとで叱られるし…と。『いやぁ、このままのほうがいいや、危険に身をさらすなんて…』と。これは怠慢という病気です。キリスト者の怠慢と言う病気です。この態度は使徒的熱意を中風の状態にして動けなくし、キリスト者を静かで落ち着いた人にします。けれど、言葉の持つようないい意味においてではありません。福音を告げ知らせるために出ていくことに心を配っていませんから!感覚の麻痺した人々です」。
「そして麻酔状態は、良くない体験です」。その活用しないということは、「霊的怠慢」に形を変えるのです。それは「怠慢です。それは悲嘆です」。こうしたキリスト者は悲しみに沈んでいます。「輝きに満ちた人々ではなく、否定的な人々です。そしてこれこそがわたしたち、キリスト者の病気なのです」。「毎日曜日」ミサにはいく「けれど、お願いですから邪魔しないで、と」。 このような「使徒的熱意のない」キリスト者たちは「役に立ちません。教会にいいことをしないのです」。そしてどれほどのキリスト者がそのように過ごしていることでしょう!パパは苦しみをにじませながら語った。利己主義、自分自身のためのこと。これは怠慢の罪です。使徒的熱意の反対を生き、他の人々にイエスの新しさ、わたしに無償で与えられたこのニュースを差し出そうとするやる気に反して生きています。けれどこの福音の箇所で、もうひとつの罪に出会います。イエスが土曜日に病人をいやしたことで批判された時のものです。「神の恵みに場を与えないキリスト者たちです。そしてキリスト者の生活は、こうした人々の生活は、すべての書類を決まり通りに、証明書をすべてそろえることに集中します」。
「こうした人々のように、偽善的なキリスト者たちです。彼らに興味があるのは形式だけです。あ、安息日でしたか?ダメですね、安息日には奇跡をおこなうなんてありえません。安息日には神の恵みが働くなんてありえません、と。神の恵みに扉を閉ざしています!教会に、こうした人々がどれほどいることでしょう!たくさんいます! これがもう一つの罪です。最初のものは、怠慢の罪を犯す人々です。彼らには使徒的熱意をもって前進することができません。なぜなら自分自身のうちに、その悲しみのうちに、その悔しさのうちに、そうしたものすべてのうちに留まると決めてしまったからです。こうした人々は救いを運ぶことができません。なぜなら救いに扉を閉ざすからです」。
こうした人々のために、「形式のみが」意味を成します。「それはできない。これが彼らが一番使う言葉です」。そしてこうした人々にはわたしたちも出会います。そしてわたしたちも「何度も怠慢を抱きました。あるいはファリサイ派のように偽善者でありました」。こうした誘惑はやってくるものなのですが、「こうした誘惑から身を守るために、どういうものか知っておかなければならないのです」。こうした二つの誘惑を前に、「その野戦病院」を前に、「そこに、教会の象徴があります」。「実に多くの負傷者」を前に。イエスは近づき、彼らに尋ねます。「癒されたいですか?」そして「恵みを彼らに与えます。恵みがすべてを行うのです」。そして、改めて中風だった人に出会うとこういいます。「もう罪を犯してはならない」。
「この二つのキリスト教のことばです。癒されたいか?と、もう罪を犯してはならない。けれどまずこの人を癒します。ます彼をいやした後で、『罪を犯してはならない』です。温もりと愛に満ちて発せられた言葉です。そしてこれがキリスト者の道なのです。使徒的熱意の道です。実に多くの人々、この野戦病院の負傷者、そしてまた教会の男性たち、女性たちの聖で傷ついた人々に近づく道です。これは兄弟姉妹のことばです。癒されたい?そしてその後で、進んでから、『あぁ、もう罪を犯してはダメですよ、よくありませんからね!と言うのです。これはもっとよいことです。イエスの二つの言葉は怠慢の態度や偽善の態度よりもずっと美しいものです」。
(María Fernanda Bernasconi – RV).
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