2014年4月16日水曜日

4月4日(金)、朝ミサ説教:権力は預言者を黙らせようとするが、聖霊は檻にとどめることはできない




 「福音を宣言するとき、迫害されるかもしれない」。聖マルタの家で今朝のミサ中にパパ・フランシスコはこう語った。パパは繰り返し、今の時代には教会の初期よりも多くの殉教者がいると語り、無理解や迫害を恐れないようにと信者たちに執拗に頼んだ。
 
宗教を我が物顔で支配したがる神から離れる悪い人の心。パパは第一朗読である知恵の書の朗読箇所から初めてその説教を展開させた。そしてイエスの敵対者たちがわなを仕掛け、「誹謗中傷を」たくらみ、「名誉をはく奪」しようとしていることを観察した。それは「まるで義人を破壊させるための苦汁を準備するようなものです」。これはなぜかというと、その行動に反対するからです。「律法に背くといって・・・咎める」からです。「教えに反した」といって責めるからです。救いの歴史を通して、「預言者たちは迫害されてきました」。イエス自身も、ファリサイ人たちに言っています。いつも〔救いの歴史において、イスラエルの時代にも、教会においてですら、預言者たちは迫害されてきました」。迫害されるのはなぜかというと、預言者たちは「あなたたちは道を誤った!神の道に戻りなさい」と言うからです。そしてこれは、「その悪い道についての権力を持っている人々にとって、うれしくないことなのです」。

「今日の福音は、はっきりしているでしょう?どうですか?イエスは隠れていました。この最後の日々に。なぜならご自分の時が来ていなかったからです。けれどイエスは自分の終わりがどのようなものになりそうなのかを知っていました。自分の最後がどうであるかを。そしてイエスは最初の時から迫害されていました。その伝道の初めに自分の村に帰り、会堂に行って説教をした時のことを思い出しましょう。最初の大いなる驚きのすぐ後に、『でもこの人のことは、わたしたちはどこから来ているか知っているんじゃないか?わたしたちのうちに一人にすぎないだろう?どんな権威で俺たちに教えに来ようってんだ?どこで勉強したんだ?』と言い始めます。彼の価値を下げるのです。これは同じ議論でしょう、違いますか?『俺たちはこの人がどこから来たかを知っている!キリストは、一方で、誰もいつ来てどこから来るか知らないはずだ!』主の価値を下げること、権威をはく奪するために預言者の価値を下げること!」
 
 イエスの価値を下げるのは「なぜかというと、イエスがあの閉ざされた宗教環境、あの檻から出ていき、人々を出していたからです」。預言者は、「聖霊を檻に閉じ込める人々と戦います。そしてそのために迫害されるのです、いつも!」と繰り返した。預言者たちは、「いつも迫害されたり、理解されなかったり、脇に見捨てられたりしてきました。彼らに場をつくらないのです!」この状況は、イエスの死と復活では終わりませんでした。教会において続いているのです!

「外部からの執拗な攻撃と、内部からの迫害」。聖人たちの生涯を読むと、「聖人たちはどれほどの無理解、どれほどの迫害を苦しんだことでしょう」。「なぜなら、彼らは預言者だったからです」。
 
「また、どれほどの教会の思想家たちが迫害されてきたことでしょう。今、この瞬間に、一人のことを考えています。わたしたちから遠くない人です。善意の人、真理の預言者です。主の道から離れている教会をとがめる本を何冊も書いた人です。すぐに修道会から呼ばれ、索引に据えられていた彼の書名も消され、教団から外され、こうしてこの人の人生は終わりました。このことがあってからそれほど経っていません。時がたって、今日は福者です!けれど昨日異端だった人が、今日福者というのは、どういうことでしょうか?なぜなら『昨日権力のあった人々は彼を黙らせたがったからです。彼の行っていることが好きではなかったからです。今日の教会は、神のおかげで悔い改めることを学び、こういうのです。「いや、この人は良い人だ」、と』。それよりももっと先を行きます。聖性への道にあるのです。彼は福者です」。「神の民に真理を語るために聖霊が選ぶ人はすべて、迫害に苦しみます」。そしてイエスこそが「その模範、模型なのです」。主は自らの肩に「その民のあらゆる迫害を負いました」。教皇は顔を苦しみにゆがめて言った。「そして今日も、キリスト者は迫害されています」。「今は始まりの頃と同じくらい、いや、もっと多くの殉教者たちがいる、と大胆に言います」。「なぜならこの世俗的な社会、このあまりに落ち着いた社会には、真理を語り、イエス・キリストを告げ知らせるような問題が欲しくないからです」。
 
「けれど、今日、世界のあるところでは、家で福音書を持つばかりに、あるいは要理を教えたばかりに死刑になったり刑務所に放り込まれたり、という罰が存在しています。そうした国のカトリックの人が、誰かと一緒に祈ることが許されていないと言っていました。禁止されているのです!一人一人別々に、あるいは隠れてしか祈ることができないのです。けれど彼らは聖体祭儀を執り行いと思うのです。どうすればできるのでしょうか?誕生日を準備して、誕生日を祝うふりをして、そこで、パーティーの前に聖体祭儀を祝うのです。こういうことが起こったことがあるのです!警察がやってkるうと、急いですべてを隠し、「おめでとう、おめでとう、誕生日おめでとう!と言いあうのです。そうしてパーティを続けるのです。そのあとで、彼らがいなくなってから、聖体祭儀を終えるのです。そのようにしなければならないのです。ともに祈ることが禁止されているからです。今日、この現代においてです!
 
 そしてこの迫害の歴史は、「主の歩みに」刻まれています。「これは主に従う人々の歩みなのです」。「けれど、最後に、いつもあらためて、主のように、復活をもって終わるのです。けれど十字架を通ってです!」  フランシスコは中国での宣教者、マテオ・リッチ(利瑪竇)神父にその考えを向けた。「彼は理解されませんでした。分かってもらえませんでした。けれど彼は、イエスと同様に従順に従ったのです!」いつも「迫害と、無理解があるでしょう!けれどイエスは主です。そしてそれは挑戦であり、わたしたちの信仰の十字架なのです」。主が、「わたしたちにその歩みを、たとえ迫害の十字架が起こったとしても、続けるための恵みをくださいますように。
ER - RV

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