2014年4月25日金曜日

4月24日(木)、朝ミサ説教:復活の喜びを恐れる「コウモリのようなキリスト者」になるのを避けよう

使徒言行録:3章11-26節、ルカ:24章35-48節
 イエスがわたしたちに下さろうと望んでいる復活の喜びを恐れるキリスト者がいて、その生活はまるで葬式のようです。けれど復活された主はいつもわたしたちとともにおられます。パパ・フランシスコは聖マルタの家の小聖堂でささげられた朝ミサの説教の中でこう語った。

 この日の典礼に定められた福音は、復活されたキリストの弟子たちへの出現を語っている。主からの平和のあいさつを前に、弟子たちは、喜ぶ代わりに、「気が狂ったようになり恐れに満ちてしまいます」。「亡霊を見た」と思ったからです。イエスは一生懸命、見ているものは本物であることを理解させようとして、自分の体に触れるようにと招き、何か食べさせてくれるようにと頼むのです。かれらを「復活の喜びに、彼らの間にいる自分の現存の喜び」に導こうとしているのです。けれど弟子たちは、「信じることができませんでした。なぜなら喜びを恐れていたからです」。

「これはキリスト者たちに見られる病気です。わたしたちは喜びを恐れてしまうのです。こう考えた方がよいと思っています。『はい、はい。神様は存在していますよ、でもあっちに。イエスは復活されました、あそこにいます』とすこし距離を置いて。イエスの近さを恐れているのです。なぜならこのことはわたしたちに喜びをもたらすからです。そうすると、葬式に行っているような顔をしたキリスト者がたくさんいることの説明になるでしょう?ね?その生活はまるでたゆまぬ葬儀のようです。悲しみの方がよく、喜びではないのです。何も見えないので日の光にではなく、夜にだけ出ることのできるあぁいう動物たちのように、喜びの光の中よりも、影の中の方が、うまく動けるのです。ちょうどこうもりのように。ちょっとユーモアのセンスを入れれば、主の現存の光よりも影を好むコウモリキリスト者がいる、と言えるかもしれません」。

 けれど「イエスは、その復活をもって、わたしたちに喜びをもたらします。キリスト者であることの喜び、近くでイエスに従う喜び、真福八端の道を進む喜び、イエスとともにいる喜びを」。

「そしてわたしたちは、幾度となく、この喜びがわたしたちに届くとき、気が狂ったようになるか、恐れに満ちるか、亡霊を見ていると思うか、イエスと言うのは一つの行動様式であると考えるかしています。『けれどわたしたちはキリスト者で、こうしなければならないのです。でも、イエスはどこにいるのですか?』 『いいえ、イエスは天におられます』。あなたはイエスと話しますか?イエスにあなたは語り掛けますか?『わたしはあなたは生きていると思います。あなたは復活した、あなたはわたしの近くにいる、あなたはわたしのことを見捨てない』と?キリスト者の生活はこれでなければなりません。イエスとの対話です。なぜなら、これは本当のことですが、イエスはいつもわたしたちと一緒にいて、いつもわたしたちの問題、わたしたちの困難、わたしたちの善い行いと一緒にいてるからです」。

 幾度、わたしたちキリスト者は、「恐れのために喜ばずにいるでしょうか!」 十字架の中に「負けた」キリスト者たち。

「わたしの故郷にはこういう言い回しがあります。『沸騰した牛乳で火傷をすると、牛を見ると、泣く』。こうした人たちはキリストの十字架の出来事で火傷をし、『ここに留まらないようにしよう、キリストは天国にいるのだ、いいでしょう、復活した、でももう一度ここにこないように、なぜならもうきつくて耐えられないから』と言った人です。主が、わたしたち全員と、喜びを恐れていた弟子たちに何をしたかを語ってくださいますように。わたしたちの知性を開き、『聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて』言われたように。イエスがわたしたちの心の目を開き、イエスは生きた現実であり、体があり、わたしたちとともにいて、わたしたちと共に歩み、勝利した方であることを悟らせてくださいますように。主に、喜びを恐れない恵みを求めましょう」。
(María Fernanda Bernasconi – RV).

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