2014年4月16日水曜日

4月7日(月)、朝ミサ説教:神の憐みはわたしたちの罪による傷の上になされる愛撫

朗読箇所:ダニエル13章1-9、15-17、19-30、33-62節/ヨハネ8章1-11節

 神の憐みは愛と温もりの大いなる光、わたしたちの罪による傷の上になされる神の愛撫です。聖マルタの家の小聖堂でささげられた朝ミサの説教で、教皇はこう語った。

 姦淫の罪を犯しゆるされた女性に始まって、パパ・フランシスコは神の憐みの意味について説明した。有名なエピソードである。ファリサイ人たちと律法学者たちがイエスの前に姦淫の現場で捕まった女性を連れてきて、この女性に何をすべきかを問う場面である。そこではモーセの律法で、最高に重大だと考えられる罪に関して石打を命じる掟を考慮に入れているものである。

「夫婦は、象徴でありながら、神とその民との関係の人間的な現実でもあります。そして姦淫によって結婚をダメにするとき、神と民との子の関係を汚すことになるのです」。けれど律法学者たちとファリサイ派の人々は、イエスをとがめるための口実を得るためにこの問いを計画したのです。「もしイエスが『どうぞ、どうぞ、石打をしなさい』と言ったならば、人々は『けれどこの人はあの女性のあんなにもいい先生なのに…ひどい、このかわいそうな人になんてことをしたんでしょう!』と言ったことでしょう。そしてもしイエスが『いや、かわいそうだ!ゆるしてあげなさい!』と言ったなら、人々は『この人は律法を守らない』と言ったことでしょう。彼らには、女性は別に大切ではありませんでした。姦淫も大したことはありませんでした・・・。おそらく、彼らのうちには姦淫を犯している人もいたでしょう・・・。どうでもよかったのです!ただ、イエスにわなを仕掛けるということだけが気になっていたのです!そこから、主の答えが出ます。『あなたたちの中で、罪のない人が、彼女に最初の石を投げなさい!』と」。

 福音には、「ある種の皮肉」があり、咎めていた人々は、「一人一人、より歳を取った人から初めて去って行った」と語っています。「どうやら天国の銀行には彼らに相当いい当座預金があったようです」。そこでイエスは女性と二人きりになって、聴罪司祭のようにこう言います。「ねぇ、みんなどこに行ったかな?誰もあなたを裁かなかったの?みんなどこ?あなたとわたしの二人っきりだよ」。糾弾もなく、悪口もなく、神の前にたつあなた。あなたと神!「誰もあなたを裁かなかったのかい?」女性は答えます。「誰も、主よ!」けれど、「偽りの糾弾だったわ!わたしは姦淫は侵さなかったもの!」とは言いません。「自分の罪を認めています」。そこでイエスは断言します。「わたしだってあなたを裁きませんよ!行きなさい、行って、今から先、もう罪を犯してはならない、こんなひどい瞬間を過ごさないために、こんなにも恥ずかしい思いをしないために、神を悲しませないために、神とその民との間にある美しい関係を汚さないために」。「イエスはゆるします!けれどここでは、ゆるし以上の何かが扱われています」。

「イエスは律法を超え、ずっと先に行きます。こうは言いません。「姦淫は罪ではありませんよ!」とは言わないのです!けれど律法によって彼女を裁くことはしません。そしてこれが憐みの神秘なのです。これこそがイエスの憐みの神秘なのです」。

「憐みは、どこか理解に苦しむものです」。

「でも、『神父さま、憐みは罪を消すのですか?』。『いいえ、罪を消すのは神のゆるしです』。憐みと言うのは神がゆるすそのやり方です。なぜなら、イエスは『わたしがあなたをゆるす。行きなさい!』と言うことだってできたわけです。あの天井からイエスの前に下ろされた中風の人に行ったのと同じように。『あなたの罪はゆるされた!』と。しかしここでは、『平和のうちに行きなさい!』と言うのです。イエスはずっと向こうを行くのです。彼女にもう罪を犯さないようにと助言します。ここにイエスのあわれみ深い態度が見られます。罪びとをその敵対者たちから守ります。正当な裁きから罪びとを守るのです。わたしたちも、わたしたちのうちのどれほどが、本当は地獄に行かなければならないのでしょう、わたしたちのうちのどれ程が?そしてそのさばきは正当なのです・・・そsこでイエスはこれを超えてゆるすのです。どのように?このあわれみをもってです!」

「憐みは、ずっと向こうを行き、人の命がこうして、罪を隅に追いやるようなものとするのです。それはちょうど天国のようなものです」。

「わたしたちは天を仰ぎます。たくさんの星、たくさんの星があります。けれど朝になって、太陽が出ると、あまりの光に、星々は見えなくなります。神の憐みはそのような感じです。愛、温もりの大いなる光です。神はゆるしますが、宣言文にはよらず、愛撫をもってゆるすのです。わたしたちの罪の傷を優しくなでながらゆるすのです。なぜなら彼はゆるしを活用していて、これをわたしたちの救いのために活用しているのです。そのように、イエスは聴罪司祭のようにしているのです。この人を辱めることはありません。「何をしたんですか、いいなさい!いつそれをしたんですか?どんな風にしたんですか?そんなこと、誰としたんですか?」とは言わないのです。そうではありません!「行きなさい、行って、今から先、もう罪を犯してはダメだよ!」と言うのです。神の憐みは偉大です。イエスの憐みは偉大です。わたしたちをゆるすこと!わたしたちを愛をもって撫でること!」
(María Fernanda Bernasconi – RV).

0 件のコメント:

コメントを投稿