2014年1月7日火曜日

1月3日(金)、朝ミサ説教:教会の力は自らのうちに留まらず、神の深い水の中に隠れる



 


 聖パウロがわたしたちにこう言っています。皆さんは今聞きました。「イエスと同じ気持ちを持ちなさい。イエス自身神の身分にありながら、神としての特権を考慮に入れず、自らへりくだり、僕の身分を自ら引き受けたのです」(フィリ2章5―7節)。わたしたちイエズス会士は、イエスの名を運び、その十字架の旗本で兵士として行進したいと望んでいます。そしてこれがキリストと同じ気持ちを持つという意味なのです。キリストのように考え、キリストのように善を求め、キリストのように見、キリストのように歩むということを意味するのです。
 キリストがしたのと同じことを、同じ気持ちで、その心に同じ気持ちを持ってするという意味なのです。キリストの心、愛のために自らを空っぽにした神の心です。わたしたちイエズス会士一人ひとりは、イエスに従っていますが、自分自身を空にする心構えがなければなりません。この空にすることにわたしたちは呼ばれています。空にされること、自分自身を中心に据えて生きてはならない人であること、なぜなら会の中心はキリストであり、その教会だからです。
 そして神はいつも「Deus semper maior(常により偉大な神)」、驚きをもたらす神なのです。そしてもし驚きをもたらす神が中心にいないなら、イエズス会は道を見失います。だから、イエズス会士であるということは、不完全な考えの人であるということ、開かれた考えの人であるということです。なぜなら、神の栄光、いつもより偉大な、わたしたちを驚かせてやまない神の栄光という地平をいつも眺めながら考えるからです。これこそがわたしたちのやる気を出させる落ち着きのなさ、聖なる美しい落ち着きのなさなのです。
 罪びとであるので、わたしたちは、もしわたしたちの心が探究の落ち着きのなさを保っていたのなら、あるいはもしその反対に萎縮していたのなら、もしわたしたちの心がいつも緊張にあったなら、リラックスしない心であるなら、自分自身に閉じこもらず、しかし神の民すべてと共には立つべき歩みのリズムを刻めるようにと願うことができます。神に出会うためには神を探す必要があります。そして探すために出会うことが必要です。それもいつも。この落ち着きのなさだけがイエズス会士の心に平和を与えることができるのです。
 また使徒的落ち着きのなさが、ケリュグマの宣言や勇気をもって福音宣教することをやめさせるようなことは決してありえません。これは使徒的実りの能力の賜物を受けるためにわたしたちを準備する落ち着きのなさなのです。落ち着きのなさがなければわたしたちは不毛になります。大いなる望みの人、ピエトロ・ファブレの持っていたこの落ち着きのなさのうちに、もうひとりのダニエルがいたのです。
 ファブレは控えめで、感受性が強く、深い内面生活があり、あらゆるタイプの人と友情を作る賜物を与えられた人でした。 それはいつも落ち着きがなく、決断力に乏しく、決して満足しない精神でした。聖イグナシオの導きのもと、その落ち着きがないけれどやさしく絶妙な感受性を、決断能力と統一させることができました。彼は大いなる望みの人でした。その望みを身に帯び、これを認識しました。しかも、ピエトロ・ファブレは、難しいことを提案する時というのは、行動の人の本当の精神が示されたからです。深い信仰にはいつも世を変える深い望みが求められます。
 続くのは、わたしたちが自分にすべき問いです。わたしたちも、大いなる展望と勇気を持っているだろうか?わたしたちも大胆だろうか?わたしたちの夢は高く飛び、熱意がわたしたちを食いつくすだろうか?それともわたしたちは中途半端で、働き者の使徒職の計画に満足しているだろうか? このことをいつも思い出しましょう。教会の力は自分自身、組織だての能力のうちに生きず、神の深い水のうちに隠されています。この水の中でわたしたちの望みは武者ぶるいをし、望みが心を拡げます。それは聖アウグスティヌスが言っていたとおりです。祈ること、望むために。望むこと、心を拡げるために。
 まさにその望みのうちに、ファブレは神の声を識別することができました。望みがなければどこにも行きません。だからこそ、主に自分自身の望みを捧げなければならないのです。会憲に、わたしたちの週である神に捧げられた望みを持って隣人というのは助けられる、と言われています。ファブレは神のうちに拡げられる真の望みを持っていました。完全に神にその中心をおいていました。だからこそ従順の精神のうちに進むことができ、多くの場合は歩いてヨーロッパ全土を進み、あらゆる人とやさしさをもって対話することができたのです。彼は福音の槍でした。
 わたしは、おそらくわたしたちの誘惑となりそうなこと、つまり福音の宣言を尋問や断罪といったこん棒でうちつけることと関わらせる誘惑について考えざるをえません。それではだめです。福音はやさしさと兄弟愛、愛を持って告げられるものです。その神との家庭的交わりが彼を内なる体験と使徒的生活がいつも共に進むということを理解するに至らせたのです。その記憶に書いているのは、心の最初の動きは本質的で起源的なものを望むことでなければならない、つまり一番の席はわたしたちの週である神に出会うことへの完全な願いに譲られます。ファブレは心の中心でキリストが作業するに任せる望みを見出します。神に中心をおいていてのみ世の中言う神から外れたところに赴くことができるのです。そしてファブレは休みなく地理的国境へも旅し、「どうやらどんな所でも落ち着いていられないように生まれてきたようだな」と言われるほどでした。
 ファブレは主とコミュニケーションをとる激しい望みに食いつくされていました。もしわたしたちがそれと同じ望みを持たないならば、祈りに留まる必要性があり、沈黙に満ちた熱意をもって、わたしたちの兄弟であるピエトロの取り次ぎによって主に、ピエトロをそうした使徒的愚かさすべてにピエトロを運び、その抑制しきれない望みを運んでいた主の輝きをもってもう一度わたしたちを惹きつけてくださるように主に求める必要性があるということです。
 わたしたちは緊張のうちにある人間です。またわたしたちは矛盾や言行不一致のある人間でもあります。全員罪びとです。しかしイエスの眼差しのもとで歩みたいと望む人間です。わたしたちは小さく、罪びとですが、十字架の旗印の下、イエスの名をいただいた会のうちに兵士として行進したいと望んでいます。わたしたちは利己的ですが、その間大いなる望みによって身ぶるいさせられる生き方を生きたいと望んでいます。ですから宇宙の永遠の主へのわたしたちの祈りを行進しましょう。そうして栄光に満ちたその母の助けによって、自らを空にしたキリストの気持ちを求め、望み、生きることができますように。ピエトロ・ファブレが言っていたように、この人生の中で、イエスの名に留まらない名を探し求めないようにしましょう。おとめマリアに、その御子と共においていただけるように祈りましょう。

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