2014年1月24日金曜日

1月24日(金)、朝ミサ説教:他者のうちにいつも神の像を見ること

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〔①〕サムエル上24章3-21節
〔福〕マルコ3章13-19節

 「他の人と対話を作り上げるのは、特に恨みがわたしたちを引き離すなら、簡単なことではありません。けれどキリスト者はいつも傾聴と和解の道を、謙遜と素直さをもって求めるものです。なぜならそれがイエスがわたしたちに教えたことだからです」。これは聖マルタの家の朝ミサの説教中に繰り広げられたパパ・フランシスコの考えのまとめである。

 「崩されても、屈しない、というような言い回しがあります。キリスト教の知恵は崩れないために屈することを勧めています。人生を理解する二つの方法があります。一つ目は固さをもって。簡単に人々の間に無交流の壁を打ち立てるように運命づけられています。憎しみにまで堕落します。もう一つは口論や議論の後でも、理解の架け橋を拡げるための傾きです。けれど、「謙遜」を求め実践することが条件になります」。聖マルタの家での宣教は、昨日の説教の続きであった。典礼的朗読個所の中心と、パパの回想の中心には、改めてサウル王とダビデの対立があります。ダビデには、出だしでは、サウル王を殺す機会が回って来ますが、「もう一つの道」を選びます。「近づき合い、状況を明らかにし、説明をし合う道」です。「平和を成すための対話の道です」。「対話のためには声をあげぬ素直さが必要です。他の人も自分より良いものをもっていると考える必要があり、ダビデはそう考えたのです。「彼は主から油注がれた人だ。わたしより重要な人なのだ」と。謙遜、素直さ…。対話するためには、ミサの初めに祈りの中でわたしたちが今日願ったことをする必要があります。すべての人にすべて捧げることです。謙遜、素直さ、すべての人にすべて捧げること、そしてまた、聖書には書いていないのですが、これを行うためには実に多くのことをのみこまなければならないことも知っています。けれど、しなければならないのです。なぜなら平和と言うのはそうやって手に入るものだからです。謙遜、蔑まれること、いつも他者の中に神の像をさがしながら」。

 「対話するのは難しいことです」。けれど敵対者との端を打ち立てようとすることで最悪なのは、相手に対する恨みを心の中で育つのを野放しにすることです。このようにすると、わたしたちは「わたしたちの恨みの苦い出汁の中で孤立するのです」。一方、キリスト者は、ダビデを模範とし、「謙遜の行為」をもって憎しみに打ち勝ちます。

 「自らを貶めること、そしていつも橋を渡すこと、いつも。いつでも。そしてこれこそがキリスト者です。簡単ではありません。簡単なことではないのです。イエスはこれをなしました。自ら最後までへりくだり、わたしたちに道が見えるようにしてくれました。そしてそれほど時間はいりません。問題がある時に、できるだけ早く、できる時に、嵐が過ぎ去った後で、対話に近づくこと。なぜなら時間が、ちょうど麦の成長を妨げる毒麦が育つようにするのと同様、壁を高くさせるからです。そして壁が高くなったら、和解はとても難しいのです。それはとても難しいのです!」

 「家庭や共同体、近所の人との間で」「時々皿が飛ぶ」程度では問題ないのです。大切なのは何らかの言葉、何らかの仕草で「できるだけ早く平和を求めること」なのです。ベルリンを何年もの間分けていた壁が崩れた時のように、壁よりも前に橋を。なぜなら、「わたしたちの心の中でも、他者との壁でベルリンに代わる可能性があるからです」。

 「わたしはこうした壁を恐れています。日々育ち恨みを助長するこうした壁を。また憎しみもです。この若いダビデのことを考えましょう。完璧に復讐することができたはずです。王を突き飛ばすこともできたはずです。けれど対話の道を、謙虚さと大人しさ、甘美さをもって選びました。今日、甘美さの博士である聖フランシスコ・サレジオに、わたしたち全員に他者と橋を造り、決して壁を作らない恵みを下さるように祈ることができるでしょう」。 
(RC-RV)

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