2014年1月24日金曜日

1月19日(日)、ミサ説教(カストロ・プレトリオの「イエスの御心」教会への司牧訪問にて)


 この福音の個所は美しいです。ヨハネが洗礼を授けていました。そしてイエスは、前に洗礼を授けられていました。数日前のことです。そして近づいてきて、ヨハネの前を通り過ぎます。そしてヨハネは自分の内側で、聖霊の力を感じ、イエスについて証しをします。イエスを見ながら、自分の周りにいる人々に視線を投じ、言います。「この方こそ神の小羊、世の罪を取り除く方だ」。そしてイエスの証しをします。この人はイエスだ、この人はわたしたちを救いに来ると言われていたあの方だ、この人はわたしたちに希望の力を下さるあの方だ、と。

 イエスは「小羊」と呼ばれています。世の罪を取り除く子羊です。こう考える人もいるでしょう。でもどうして、小羊、あんなにも弱い、弱くてちっちゃな小羊が、それほど多くの罪や悪をとりのぞくことができるんだろう?と。答えは、愛をもって、そのおとなしさをもって、なのです。イエスは小羊であることをやめたことは決してありません。大人しく、善良で、愛に満ち、小さな人々に近く、貧しい人たちに近い人でした。そこにいました。人々の間にいて、すべての人の病をいやし、教え、祈っていました。まるで小羊のように、イエスはとても弱く。けれど自分の背にわたしたちの罪すべてを、全部を担ぐ力がありました。「でも神父さん、あなたはわたしの人生を知りません。わたしには人に言えない罪が…、トラックがあっても積みきれないほどの罪が…」(笑い)。しばしば、わたしたちの良心を見つめると、その中には大きな罪も見つかります。けれどイエスはそれらを担います。イエスはこのために来たのです。赦すため、世に平和をもたらすため、けれどその前に心に平和をもたらすためです。おそらくわたしたち一人ひとりの心の中には嵐があるかもしれません。おそらく心に闇があるかもしれません。おそらくある罪のせいで少し悲しいと感じているかもしれません。イエスはこのすべてを取り除くために来たのです。イエスはわたしたちに平和を下さります。イエスはすべてをゆるづのです。「この人は罪を取り除く神の小羊だ」。罪を、根こそぎ、すべて取り除く方なのです。これがその愛とそのおとなしさに伴われたイエスの救いです。そしてイエスを救い主として証しする洗礼者ヨハネが言っていることを聞きながら、私達はイエスへの信頼のうちに育たなければなりません。

 しばしばわたしたちは医者に信頼します。それでいいのです、なぜなら医者はわたしたちを治療するためにいてくださるからです。人に信頼します。わたしたちを助けてくれる兄弟姉妹に信頼します。善いことです。わたしたちの間で、人としての信頼を持つことですから。けれど主への信頼を忘れてしまいます。ここにわたしたちの人生における成功がかかっているのです。主への信頼です。主に信頼しましょう。「主よ、わたしの人生を見てください。わたしは闇の中にいます。わたしにはこんな困難があります。わたしにはこんな罪があります…」、わたしのあるがまますべてをです。「主よ来れを見てください。わたしはあなたに委ねます」。そしてこれこそわたしたちがしなければならない賭けなのです。主に委ねること、そうすれば彼は決してわたしたちをがっかりさせません。決して、決して!人生を今始めている若い男の子たち、女の子たち、よく聞きなさい。イエスは決してがっかりさせません。絶対に。これがヨハネの証しです。イエス、善良な人、大人しい方、小羊のように、死んで終わることになっているイエス。叫ぶことがありません。イエスはわたしたちを救うため、罪を取り除くために来ました。わたしの罪、あなたの罪、世の罪、すべて、すべてを。

 ではここで、わたしは皆さんを一つ招きます。目を閉じましょう。その情景を思い浮かべましょう。川岸で、ヨハネが洗礼を授けている間に、イエスが通り過ぎるところです。そしてヨハネの声を聞きましょう。「この人は世の罪を取り除く神の小羊だ」。沈黙のうちにイエスを見つめましょう。わたしたち一人ひとり、心からイエスに何か言いましょう。沈黙のうちに。(長い沈黙)大人しい方、善良な方、小羊である方、罪を取り除くために来られた主イエスが、わたしたちの人生の歩みを通してわたしたちと歩みを共にしてくださいますように。かくあれかし(アーメン)。

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