2014年1月7日火曜日

12月31日(火)、年末の祈り

 午後五時に、パパ・フランシスコはサン・ピエトロ大聖堂で聖体礼拝と聖体による祝福を伴った、神の母聖マリアの祭日の前晩の祈りを司式した。これは2013年の最後の祭儀であり、神に感謝し、2014年という市政上の一年を主の名において開始するために聖母マリアに呼びかけることを目的としている。
 祭儀の終わりに、ローマ司教はサン・ピエトロ広場に行ってしばらくの間馬小屋の前で祈り、そこに集まっていた数えきれないほどの信者や巡礼者に挨拶をした。

教皇フランシスコの説教全文

 使徒ヨハネは、今という時をぴったりの表現で定義しています。「終わりの時が来ました」(Iヨハ2章18節)と。この12月31日のミサで読まれる断言は、神が歴史に訪れることでわたしたちは既に「終わりの」時にいて、その後で、最後の一歩はキリストの二度目の決定的な到来であることを意味します。普通にここでは時の質について語られているのであって、時の長さについて語られているわけではありません。 イエスと共に時の「満たし」、意味の満たし、救いの満たしが訪れました。そしてイエスが既に示したことの満ち満ちた表明以外には、さらに新しい啓示はありません。この意味でわたしたちは「終わりの時」にいて、わたしたちの生活の一瞬一瞬は決定的であり、わたしたちの行動の一つ一つは永遠でいっぱいです。実際、今日イエスキリストにおいてわたしたちを愛している神に向ける応えは、わたしたちの未来に関わっているのです。

 時について、また歴史についての聖書的、またキリスト者的視座は、循環的ではなく、直線的です。それは一つの達成点へと向かって行く道なのです。ですから、過ぎ去った一年は、何か終っていく現実ではなく、果たされる現実へとわたしたちを導きます。それは、わたしたちの目の前にある目的に向かう、それに続く歩みなのです。希望の目標、幸福の目標です。なぜなら神、つまりわたしたちの希望の意義、わたしたちの喜びの泉である方にわたしたちは出会うからです。

 2013年が暮れ行くにあたり、籠に入れるように、この一年過ごしてきた日々、週、月日をもう一度手に取り、主にすべて捧げましょう。そして勇気をもって問いかけましょう。主がわたしたちに下さった時をどのように生きてきただろうか?この時を何よりも自分自身のため、自分の関心事のために使ってきただろうか、それともこれを他の人々のためにも費やすことができただろうか?どれだけの時間を祈りのうちに、沈黙のうちに、礼拝のうちに「神と共にいる」ためにキープしただろうか?

 またわえたしたち、ローマ市民について考え、このローマの町についても考えましょう。今年、何があっただろうか?何が今起きていて、どんなことが起きていくのだろうか?この町の生活の質はどうだっただろうか?わたしたち全員にかかっているのです!わたしたちの「市民としてのあり方」はどうだっただろうか?今年、わたしたちのできる限りで、この町が住みやすく、整えられ、人を受け入れる雰囲気をもつようにわたしたちは貢献しただろうか?実際、一つの町の顔つきはモザイクのようなもので、そこに住んでいる人々すべてがそのピースなのです。権威を行使する人に一番の責任があるのはその通りですが、善においても、悪においても、一人ひとりに共同責任があるのです。

 ローマは他に二つとない美しさをもつ街です。その霊的遺産と文化遺産は普通ではありません。しかしながら、ローマにも物質的、道徳的悲惨さによって刻まれた人々、貧しい人々、不幸な人々、苦しむ人々があまりに多く、公的責任のある人々のみならず、市民一人ひとりの意識に訴えかけています。ローマにおいておそらく、壮大で芸術的美に満ちたところと、生きるのがより大変な人々の社会的不備との対照がより強く感じられます。

 ローマは旅行者に満ちた町ですが、同時に難民でもいっぱいです。ローマは働く人に満ちていますが、同時に仕事が見つからない人、あるいは不当な給料、しばしば尊厳を損なう給料で働き続ける人もいます。一人ひとりが人間の尊厳をもって生きているのですから、同様の歓迎と平等の態度で扱われる権利がすべての人にあるのです。

 一年の最後の日。何をしましょうか?わたしたちの町をもう少し良くするために、来る年にどのようなふるまいをしましょう?もし人間味やホスピタリティ、歓迎においてもっと豊かになるならば、もしわたしたち全員が困難にある人に対してもっと意識を向け寛大であるならば、もしすべての人にとっての善のために、わたしたちが建設的で連帯の精神をもって協力することができるならば、新年の炉0間はもっと美しい顔つきになるでしょう。もしこの町を「遠くから」「はがきの中だけで」見る人がいなくなり、つまりその生き方をバルコニーから動かずに、人間の問題、男女の問題、つまり結局は、そして最初から、好むとも好まずとも、わたしたちの兄弟である人々の問題に巻き込まれることなく眺めるような人がいなくなるならば、新年のローマはよりよい町になるでしょう。この者の味方で、ローマの教会は町の生活と将来に自ら貢献することに献身していることを身にしみて感じていますが、それは教会の義務なのです!福音のパン種をもってこれを励まし、神のあわれみのしるし、道具となろうと献身していることを感じています。

 この夕暮れ時に、感謝をし、ゆるしを求めながら2013年という主の年を結びます。二つのことを一緒にします。感謝することとゆるしを願うことです。主がわたしたちに下さったすべての恵みに感謝します。特にその忍耐と忠実さです。それは時が進むに連れて示されていきますが、特に時が満ちた時に、「神が、一人の女性から生まれたその御子を送った」(ガラ4章4節参照)時に示されるのです。神の母が、明日から地上でのわたしたちの巡礼の新しい個所をその名において始めるわけですが、人となられた神をわたしたちが受け入れるようにと教え、毎年、毎月、毎日、その永遠の愛で満たされますように。なれかし(アーメン)。
(Traducción de Griselda Mutual y Mariana Puebla – RV).

0 件のコメント:

コメントを投稿