2014年1月28日火曜日

1月25日(土)、キリスト教一致祈祷週間閉会、晩課における説教

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 1月25日の夕方、パパ・フランシスコは異邦人の使徒パウロの回心の祝日にあたり、第2晩課を司式するために、城壁外聖パウロ大聖堂に移動し、こうして今年のキリスト者一致祈祷週間を締めくくった。

説教全文

 「キリストは分けられているのですか?」(Iコリ1章13節)。この夕のひとときに典礼の中で響く、コリント陣に書き送った最初の手紙の初めの部分にある、聖パウロが力に満ちて注意を呼び覚まそうとしている呼びかけが、今年の祈祷週間の間のわたしたちの黙想のためのテキストとしてカナダのキリストにおける兄弟達のグループによって選ばれたものです。

 使徒はコリントのキリスト者達が別々のグループに別れてしまっているというニュースを、大変悲しみながら受けました。「わたしはパウロに付く」という人も居れば、「わたしはアポロに属している」と公言する人も居ます。また「わたしはセファ(ペトロ)に」という人まで居て、最後に、「わたしはキリストに属します」と公言する人も居ます(12節参照)。けれどキリストにといっている人たちすら、パウロの賛辞には値しません。というのは共同体の中で他の兄弟達との間に距離をおくために唯一の救い主の名前を用いているからです。言い換えれば、一人ひとりの個別の経験や、共同体の重要な数人の考えが、他の人々の信仰を判断するための基準になってしまっているからです。

 この分裂の状況において、パウロはコリントのキリスト者達に、「私たちの主イエス・キリストの名において」すすけます。語るときに心を一つにし、互いに分裂がないようにし、同じ考えと、同じ感じ方で完全に一致しているように、と言うのです(10節)。けれど使徒が訴えている聖体的一致は、人間的な戦略の実りではあり得ません。実際、兄弟達の間での完全な一致は、キリストの考え方と感じ方に照らし合わされて始めて可能だからです(フィリ2章5節参照)。この勇のひとときに、わたしたちは祈りにおいてここに集まっていますが、分けられるわけにはいかないキリストが、私たちを自らに引き寄せ、自らの心にある感じ方に、父のみ手の中へのその完全なゆだねと信頼、人類への愛のための抜本的な断念へと引き寄せようとしています。キリストだけが私たちの一致の基本、原因、動力であり得るのです。

 わたしたちがその現存の中にいるとき、わたしたちは、教会における分裂を、人間関係の生まれる生活にならどんな形にでもある、ある意味自然で避けられない現象として考えるわけにはいかない、ということをより意識することになります。わたしたちの分裂はキリストの体を傷つけ、世においてわたしたちが示すようにと呼ばれている証しを害します。第二バチカン公会議のエキュメニズムに関する教令は、これまで黙想してきた聖パウロのテキストについて触れ、意義深い仕方でこう確言しています。「主キリストによって建てられた教会は一つであり唯一でありながら、イエス・キリストの本物の遺産として人々に示されているキリスト者の聖体的一致はたくさんあります。誰もが主の弟子であると告白していながら、違う仕方でこれを感じ、まるでキリスト自身が分けられているかのように、異なる道を進んでいます」。ですから、「この分裂はキリストの意志に対してはっきりと、公に矛盾しています。世におけるスキャンダルであり、全被造物に福音を告げ知らせるという聖なる動因を危ぶめます(Unitatis redintegratio、1)。わたしたちの誰もが分裂によって害を受けたのです!わたしたちのうち誰もスキャンダルなどにはなりたくないのです!だからわたしたちはみな、共に、兄弟愛に満ち、一致に向かって、同時に歩みにおいて一致、つまり聖霊から来るその一致を作りながら、歩いて行くのです。そこで聖霊は特別なことへとわたしたちを導きます。それは聖霊のみにできることです。その和解を生きる多様性です。主はわたしたち全員を待っています。わたしたち全員と共に歩んでくださいます。主は、この一致の歩みにおいてわたしたち全員と共にいてくださっています。

 愛する兄弟の皆さん、キリストは分けられているわけには生きません。この確信が、キリストにおける信者全員の目に見える完全な一致を再構築することへ向かう歩みにおける謙虚さと信頼を続けるために、わたしたちを励まし、支えなければならないのです。この瞬間に偉大な教皇達、つまり福者ヨハネ二十三世と、福者ヨハネ・パウロ二世の事業を思い起こすのは感慨深いものです。どちらもその人生の間に一致のための緊急性の意識を熟させていき、ローマの司教に選ばれるや、カトリックの群れをエキュメニズムの歩みへと決定的に導いていったのです。教皇ヨハネは、それ以前ほぼ前人未踏であったいくつかの道を開きました。ヨハネ・パウロ二世は、各地方教会の生活での日常的で不可欠な次元としてエキュメニカル対話を提案しました。彼等と共に、教皇パウロ六世も、もう一人の対話に関する偉大な主人公ですが、まさにこの数日コンスタンチノープル総主教あてなごらす7とのエルサレムにおける歴史的抱擁からの50周年を記念するこのことについて言及しています。

 こうしたわたしの前任者達の事業は、エキュメニカル対話の局面がローマの司教の奉仕職における本質的次元となり、今日においてはキリストにおける信者全員との対話へのこの開きを含むことなくしてペトロの奉仕を完全に理解できないという点にまで至っているほどです。また、エキュメニズムの歩みはペトロの後継者の奉仕職の理解を深めることができるようにしたので、将来においてもこの意味で働き続けることへと委ねなければならない、と言うこともできます。主がわたしたちに行わせてくださった前進に対して感謝を示し、今現在エキュメニカル対話が通っている困難を隠すことなく、主が望む一致へと歩むことができるように、キリストの感じ方にわたしたち全員が浸されるようにと願いましょう。そして共に歩むということは、すでに一致をなしている、ということなのです!

 一致の賜物によるこの祈りの雰囲気の中で、エキュメニカル大主教座の代表であるメトロポリタ・ゲンナディオス卿、ローマにおけるカンターブリー大司教の代表であるダビッド・モクソン卿、そしてこの夕方ここにきておられる諸教会および教会共同体の代表者の皆さんすべてに心から兄弟愛を込めて挨拶したいと思います。全員を代表して、この二人と共にわたしたちはパウロの墓所で祈り、互いにこう言い合いました。「一致の道を作りながら行われるこの歩みにおいて、この一致と愛の歩みにおいて、パウロがわたしたちを助けてくれるように祈りましょう!」と。一致というのは最後に奇跡のように訪れるものではありません。一致は歩んでいるうちに訪れるのです。聖霊が歩みの中でこれをなすのです。もしわたしたちが共に歩まないなら、もしわたしたちが互いに祈り合わないなら、もしわたしたちが神の民のためにこの世界でわたしたちにできる本当に多くのことがある中で働かないならば、一致は訪れないのですよ!この歩みにおいて、一歩一歩の中でできてくるのです。そしてこれを成すのはわたしたちではありません。わたしたちの善意を見てくださる聖霊がしてくださるのです。

 愛する兄弟姉妹の皆さん、わたしたちをその神秘体の生きた成員としてくださった主イエスに、ご自身とわたしたちを深く一致させ続け、わたしたちの対立や分裂、利己主義を乗り越えさせてくれるように祈りましょう。そしていつも一致は対立よりも上位にあるのだということを思い出しましょう! そしてたった一つの力、つまり聖霊がわたしたちの心に注いでくださる合いの力によって互いに一つであることを支えてくださいますように(ロマ5章5節参照)。アーメン。
(María Fernanda Bernasconi – RV).

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