2014年1月21日火曜日

1月16日(木)、朝ミサ説教:教会のスキャンダルの中には神のみ言葉はない

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〔①〕サムエル上4章1―11節
〔福〕マルコ1章40-45節

 教会でのスキャンダルが起こるのは、その人に神との生きた関係、み言葉との生きた関わりがないからです。このように、腐敗した司祭たちは、いのちのパンを与える代わりに、神の聖なる民に毒に侵された食べ物を与えているのです。パパ・フランシスコは、聖マルタの家で捧げられたミサの朝の説教の中でこう語った。

 ペリシテ人の手厳しいはたらきによるイスラエル人の苦しい敗退を語る、この日の朗読と答唱詩篇についてコメントしながら、教皇はあの頃の神の民が主を見捨てたことを省察した。神の言葉はあの頃「珍しく」なっていたと言われていました。年老いた祭司エリは「生ぬるく」その子らは「腐敗していて、民をおびえさせ、痛い仕打ちをしていた」のです。イスラエル人たちはペリシテ人に対抗して戦うにあたり、契約の箱を持ち出しますが、それを「魔術」に用いるかのように、「外からの物」として用いました。そして壊滅するのです。箱は敵たちに持ち去られます。神への本当の信仰、生活における神の本当の現存がありません。


「この聖書個所は、わたしたちの神との関係、神のみ言葉との関係はどうなっているかを考えさせます。これは形式的な関係でしょうか? 遠ざかった関係でしょうか? 神の言葉はわたしたちの心に入り、わたしたちの心を変えますが、この力があるでしょうか、それともないでしょうか? それは形式的な関係だとして、まぁいいとしましょうか?けれど心があの言葉に対して閉ざされているのです! そしてこのことは教会の様々なこと、ただ単に主を感じないから、主を探さないから、主に探されるに任せないために(!)起こる神の民の崩壊の数々について考えさせます。そしてその悲劇の後で、こう祈ります。『でも主よ、何があったのですか? わたしたちを近所の人たちの嘲笑の的にするのですね。周りの人は皆バカにして笑います。わたしたちは国への懲罰のきっかけになり、国々は頭を振ってばかにしてきます』と」。

 パパは教会のスキャンダルについて考えをめぐらした。

 「でも、わたしたちは恥ずかしいと感じているでしょうか? 実に多くのスキャンダルがあって、一つ一つ挙げ連ねるのははばかられるけれど、みんな知っていることです…。どんなものかみんな知っています! スキャンダル、ある人には大変な苦労になりました。いいことですよ!そうでなければなりません… 教会の恥ですから! けれどわたしたちはあのスキャンダルで、あの司祭たちや司教たち、信徒たちの堕落で恥を感じているでしょうか?あのスキャンダルのただ中で、神の言葉は珍しい者でした。あの男性たち、女性たちの中で、神の言葉はめったに聞かれなかったのです! 神との絆がなかったのです!教会での役職、権力の役職、居心地の良さの役職はありました。けれど神の言葉がなかったのです!『でも、わたしはおメダイをもっていますが』『わたしは十字架を身につけているのですが』とおっしゃるでしょう…。そうでしょう、今日の聖書の人々が契約の箱を持って行ったようにですよね! 神との生きた関わり、神の言葉との生きた関係なしに! わたしの脳裏によぎるのは、スキャンダル(つまずき)が訪れる人々へのイエスのあの言葉です…。そしてここに、スキャンダルが訪れました。神の民の退廃のすべて、司祭たちの弱さや腐敗にいたるまでです。

 ローマ司教はその説教を、神の民にその考えを向けて結んだ。

 「なんてかわいそうな人々でしょう!哀れな人々です!わたしたちは命のパンを食べさせていないのです。そうしたケースにおいては、真理を食べさせていないのです!そして何度も何度も毒に侵された食べ物を食べサルにまで至っているのです! 『起きてください、主よ、なぜ寝ているのですか!」 これがわたしたちの祈りでありますように! わたしたちを永遠に見捨てることのないようにしてください! なぜみ顔を隠されるのですか? なぜわたしたちの悲惨や抑圧を忘れておられるのですか? と。 わたしたちが、生きている神の言葉を決して忘れることなく、その言葉がわたしたちの心に入り、力を与える糧をわたしたちに求めている神の忠実な聖なる民のことをわたしたちが決して忘れることのないように、主に願いましょう。

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