アパレシーダ文書は教会を継続的な宣教の状態に置くようにと提案しています。それは確かに宣教の目的で何かの活動を実現させることでもありますが、もっと一般的な宣教の性質の広い意味での文脈においてのことです。それぞれの教会のいつもの普通の活動のすべてが宣教の性質を持つように、ということです。これは確かに宣教をするために出て行くことなのです。様々な活動のうちのひとつがパラダイムなのではなく、すべての司牧活動のパラダイムが宣教に出て行くことにある、ということなのです。
教会とイエスの深い結びつきは、歩みを伴う結びつきで、自分自身から出て行き、歩み、改めていつも種を蒔き、いつももっと向こうに向かって行くことが想定されます。「他のところ、隣の村々にも福音を告げに行こう、そのためにわたしは来たのだから」と主は言っていました。それは教会にとって今も活き活きとした言葉です。自分に閉じこもらないこと、すでに充分だと感じないこと、達成したことで安心しきらないことです。もしそうなってしまうなら、教会は病みます。想像上の豊かさ、余分な豊かさで病気になります。胃もたれを起こし、弱くなります。
自分の楽な状態から出て行き、神の近さを感じることを求めている、存在の中心から外れたところにたどり着く大胆さを持たなければなりません。主は誰をも見捨てません。いつもそのぬくもりと尽きることのないあわれみを示します。ですからこれこそあらゆる人々にもたらさなければならないものなのです。
二つ目のポイントです。あらゆる司牧活動の目的は、いつであれ、誰をも除外せず、一人ひとりの状況をしっかりと考慮に入れながら、すべての人に到る宣教の促しによって導かれています。すべての人に到り、キリストと出会った喜びが分かち合われなければなりません。それは、義務を押しつけるような人や、不完全、不充分に思われることを目にして叱ったり文句を言ったりするに留まるような人として赴くことではありません。福音宣教の務めは多くの忍耐、実に多くの忍耐を前提としています。麦の世話をしますが毒麦のせいで平和を失うことはありません。また、キリスト者のメッセージを示すにあたり、主がなさったように福音の香りを漂わせながら、おだやかに順を踏んで成すこともできます。何よりもより本質的なこと、より必要なこと、つまり、死んで復活されたキリストのうちにわたしたちに語りかける神の愛の美しさを第一にすることができます。一方、その方法論において独創的であるために努力をしなければなりません。「いつもこうやっていましたから」というような話題の進め方に閉じこもっているわけにはいきません。
三つ目。 それぞれの小教区の司牧を導くのは司教です。そして司教はこれを自分の羊の名前を知っている牧者のように行います。教会の母性と神のあわれみを効果的に示しながら、彼らを近いところで、温もりをもって、忍耐をもって導きます。ほんものの牧者の態度は王子様のような態度でも、しつけることや決まり事、組織だてるための構造にばかり注意を払うただの役人のような態度でもありません。これはいつも人々から距離のある司牧、イエスとの出会いや兄弟との出会いを促しも果たしもすることのできない司牧へと導きます。
神がその牧者に任せている神の民は、司教が彼らの世話をしながら夜も目覚めていることを必要としています。何よりもこの一致を保ち、皆の心に希望が広まるようにと働きかけるのです。この民は、教会の善と世における教会の使命のために、どこでも好きなようにやってくる聖霊の息吹を、黙らせることなく識別することのできる司教を必要としています。
四つ目。 司教のこの態度は、他の司牧のエージェントたち、特に司祭たちの内面の奥深くにしっかりと浸透しなければなりません。ラテンアメリカにおける教会で多くの害を及ぼしている聖職権主義の誘惑は、信徒たちの大半がキリスト者として成熟し責任感を育てるのを妨げるものとなっています。聖職権主義には自分に判断基準をすべて置く態度、わたしたちを弟子とする主の出会いや福音の宣言を待っている人々との出会いに向かう計画を乏しくする仲良しグループ作りの態度が伴います。
そのため、人々の心に火を付け、彼らと共に歩み、その夢と恐れとの対話に入ることのできる出会いや隣人となる能力のある奉仕者を養成することは緊急であり重要であると思うのです。この仕事に関しては、司教たちは他の人に代理を立てることができません。努力や援助、同伴を惜しまずに、教会の命にとって何か基本的なものであるとしてこれを受けて立たなければならないのです。
さらに、質の良い養成には、現代の挑戦に立ち向かい、司牧活動において司祭や修道者男女、信徒たちが直面するであろう様々な状況に福音の光をもたらすことのできる、しっかりとして継続的な構造が必要になります。
現代の文化はわたしたちに、真剣な、よく組織された養成を強く求めています。そして自問するのは、たとえば充分な養成担当者に欠けるとても小さな神学校での結果を評価するための充分な自己批判ができているだろうか、ということです。
奉献生活のためにいくつか言葉をささげたいと思います。 教会における奉献生活は発酵の作用です。主が望まれるものの発酵の作用、イエスの最後の表明に向けて教会が育つようにする発酵の作用です。奉献生活を送っている男女の皆さん、いただいたカリスマに忠実であってください。位階的な聖であり母である教会への奉仕において、皆さんの創立者たちに聖霊が与え、その統合した全貌において伝達されなければならないその恵みがぼやけないようにしてください。そしてそれこそ奉献生活者の大いなる預言のわざであり、教会の善のために与えられたカリスマ(賜物)なのです。教会に奉仕するために受けたカリスマへのこの創造的な忠誠のうちに前進し続けてください。
愛する兄弟姉妹の皆さん、この大陸宣教のために皆さんがしているすべてのこと、本当にありがとう。皆さんは洗礼を受けたのだということ、そして主の弟子としていただいたことを思い出して下さい。けれどどの弟子も、同時に宣教者なのです。ベネディクト十六世はこれは同じ硬貨の二つの面だと言っていました。イエス・キリストにおける父かつ兄弟として皆さんにお願いします。洗礼において皆さんが受けた信仰を責任を持って生きてください。そしてティモテのお母さんやお婆さんがティモテにしたように、信仰を皆さんの子供たちや孫たちに伝えてください。彼らだけにではありませんが。この信仰の宝は自分専用の用向きではありません。これは人に与えるため、人に伝えるためにあります。そうして育っていくのです。イエスの名を知らせてください。そしてこれをするならば、真冬に城のバラが花開いてもおかしいと思わないでください。なぜなら皆さんは、イエスにもわたしたちにも、同じお母さん〈=聖母マリア〉がいると知っているのですから。
0 件のコメント:
コメントを投稿