2013年11月1日金曜日

10月29日(火)、朝ミサ説教:あなたにとって希望とはどのようなものですか?


 希望は楽観主義とは違います。これは神の子の啓示に向かう「燃えるような期待」なのです。聖マルタの家での火曜日のミサ中に、パパ・フランシスコはこう語った。教皇はキリスト者は司祭中心主義や居座った態度にならないように注意をしなければならないことを強調した。キリスト者の希望はダイナミックで、命を与えるものだからである。

 一キリスト者にとって希望とはどのようなものでしょうか?ローマ司教は第一朗読の聖パウロの言葉からインスピレーションを受けて、キリスト者の希望の唯一の局面を強調した。「楽観主義について扱われるのではないのです。神の子の啓示に向かう燃えるような期待なのです」。「被造界ははかなさに裏打ちされています。そしてキリスト者は希望と奴隷状態の間にある緊張を生きています」。聖パウロの言葉を響かせながら教皇はこう語った。「希望は期待を裏切ることはありません。確かなものなのです」しかしながら「希望を理解するのは簡単ではありません」。「しばしば希望の人とは楽観主義の人だと思われがちなのです」。けれどそうではありません。

「希望は楽観主義ではありません。あの元気よく物事を見て前進し続ける能力ではないのです。違うのです。それは楽観主義ですが、希望ではないのです。また希望は物事を前にしたポジティブな態度でもないのです。そうした人々は輝かしく、前向きです…。これはいいことですよね!でも希望というのはまた別格です。希望とは一体何かを理解するのは簡単ではありません。よく言われているのは、これはいのちの中に隠れているので、三神徳〈信・望・愛〉の中でも最もつつましやかなものだということです。信仰はみられ、感じられ、それが何か知られるものです。愛徳は行われ、これも何かが分ります。けれど、希望とは何でしょうか?その希望の態度とは何でしょうか?少し近づくために、まず希望というのは危険だ、危険に身をさらすような徳だということができるでしょう。聖パウロが言っているように『神の子の啓示に向かう燃えるような期待』なのです。これは幻想ではありません」

 「希望をもつことは」まさにこのようなものです。「この啓示に向かう緊張、わたしたちの口を笑顔で満たすだろうこの喜びに向かう緊張にあることです」。聖パウロは「希望とは楽観主義ではなく、それよりももっと素晴らしいものだ、と強調しています」。「これは違う別のことなのです」。そして初期キリスト者たちは、「希望を錨にたとえたものです。希望は錨だった、ずっと向こうの岸辺に下ろされた錨だったのです」。そしてわたしたちの命は、ちょうどその錨に向かって歩むことなのです。

 「問いが脳裏をよぎります。 わたしたちは一人ひとり、どこに錨をおろしているでしょうか?あの遠く広がる大洋の向こう岸におろしているでしょうか?それともわたしたちが自分で作った、自分の決まりや振舞い、時間割、司祭中心主義、教会的ではない教会に来ると見られる態度などといった人工的な小さな湖に錨をおろしているのでしょうか?わたしたちはそこに錨をおろしているのではないでしょうか?どれも快適で、安全で、違いますか?あれは希望ではないのですよ。心が錨を下ろしているところはどこでしょうか?真理の侵害され得ないような態度をもってこの人工的な湖に錨をおろしてしまっているのです」。

 パパは付け加えた。聖パウロはもうひとつの希望のイメージ、あの出産のイメージを指摘しています。「わたしたちはそわそわして待っています。これが出産です。そして希望はこの躍動感のうちに見出されるのです」「命を与えるということにおいて」。しかしながら、「希望の初穂は見られないものです」。そうではありながらも「聖霊が働く」のを知っています。わたしたちの中で「まるで小さなマスタードの種のように、けれどその中に命と力をたっぷり抱えたもので、木になるまで前進していくように」働きます。聖霊はイースト菌のように働きます。そこで、「聖霊は働くのです。見られることはないけれど存在しています。これは願わなければならない恵みです」。

 希望のうちに生きるというのは一つのことです。なぜなら希望のうちにわたしたちは救われているから出す。そしてもう一つのことはただよいキリスト者として生きることです。啓示への期待を保ちつつ生きるのか、掟を守ってよく生きるのか。向こう岸に錨をおろすのか、人工的な湖に滞るのか。わたしはマリアのことを考えます。若い女の子が、自分がママだと聞いたあと、その態度を変え、〈いとこの家に〉行き、手伝い、その賛美の歌を歌います。一人の女性が胎内に子を宿したときに、その人は女性ですがただの女性ではなく、母でもあるのです。希望にはこうしたものがあるのです。わたしたちの態度を変えるのです。わたしたちはわたしたちですが、ただわたしたちなのではなく、あちらのことを求め、あちらに錨をおろしているのです。

 パパ・フランシスコはその火曜日の説教を、司祭叙階銀祝を祝うためにいたメキシコ人司祭団に向けた挨拶で締めくくった。「希望の母であるおとめマリアに、その年月が希望の年月になり、希望の司祭たちとして、希望を与えながら生きられるように祈り求めなさい」。

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