2013年11月29日金曜日

11月28日(木)、朝ミサ説教:信仰はプライベートな行為ではない。背教や迫害にもかかわらず、最後まで神を礼拝すること。


 宗教を「個人の好きで行うもの」にしたがる「世俗の力」がある。しかし世に勝った神は、「信頼と忠実さをもって」最後まで礼拝されるものである。これはパパ・フランシスコが今朝聖マルタの家の小聖堂で祝われたミサの説教の間に出された考えである。今日迫害されているキリスト者たちは、イエスの最終的な勝利を告げる証拠のしるしである、と語った。

 典礼が年の終わりに読むように勧めている神と悪との間の最終的な戦いにおいて、パパが「普遍的な誘惑」と呼んでいる大いなる罠がある。神について自分のものをもって出て行きたがる人のへつらいに身を任せる誘惑である。しかしまさに信じる人には、見るということに対して、清いものの捉え方がある。 それはイエスの話で、砂漠で苦しんだ試練、そしてその後の公生活において耐え、「愚弄」と「抽象」によって味付けをされた「実に多くの」ことは、極限、つまり十字架まで含むが、そこは世の王子(悪魔)が平和の王子(イエス)の復活を前にその先頭に敗北するところなのである。パパ・フランシスコがこのキリストの人生の場面場面を指示したのは、福音書に描写されている世の終わりに向かう中で、演じなければならないのは、自然災害によって表現されている劇的なことよりもずっと高次のものなのである。

 「イエスが他の個所でこうした災害について語る時、神殿を汚す行為、信仰や民を汚す行為が生じると私たちに語っています。そこには忌まわしきことが生じ、忌まわしきことによる荒みが生じる、というのです。これは何を意味するのでしょう?それはまるで世の王子の勝利、神の崩壊であるかのようです。それは災害のあの終わりの時に、世の王子がこの世を支配下に置き、世の主人となるかのようです」。

 ここに「最後の試練」の心臓がある。信仰の冒涜である。フランシスコの見解によれば、「他の様々なことの中でも、これはとてもはっきりしています。第一朗読の話の中で、預言者ダニエルが苦しんでいることにあります。王を礼拝する代わりに神を礼拝したかどでライオンの穴に投げ込まれた話です。そこで、「忌まわしきことの荒み」には「礼拝の禁止」というちょうどの名がある、とパパは再確認した。

 「宗教について語ることができない、それはプライベートなことだから、違いますか?このことについては公には語られないのです。宗教的象徴が取り払われます。世俗の力から来る命令に従わなければなりません。色々なことをしてもよいのです、素晴らしいたくさんのことを、けれど神を礼拝するのはいけない、と。礼拝の禁止。これはこの終着点の中心です。そして時が満ちると、つまりこの異教的態度の「カイロス=(摂理的時」が訪れると、そのとき、そうです、主が来られるのです。「そして人の子が雲に乗って大いなる力と栄光を帯びて来るのを見るだろう」。キリスト者は、迫害の時を苦しみ、礼拝の禁止の時を苦しんでいるキリスト者たちは、わたしたち全員に生じるであろうことの預言となっているのです」。

 しかしながら、パパ・フランシスコは次のように結んだ。「異邦人の時が果たされる瞬間というのは」、わたしたちが頭をもたげる瞬間である、なぜなら「イエス・キリストの勝利が近づいている」からである、と。

 「恐れなくてもいいのです。ただ主はわたしたちに忠実さと忍耐を求めておられます。ダニエルのような忠実さ、最後まで自分の紙に忠実で、神を礼拝していたその忠実さを。そして忍耐です。なぜならわたしたちの髪の毛は落ちないと言われているからです。そのように主は約束をしたのです。この一週間というのは、この礼拝の禁止と呼ばれる、一般的になっている背教について考え、次のように自問することはわたしたちの益となるでしょう。「わたしは主を礼拝しているだろうか。わたしは主人であるイエス・キリストを礼拝しているだろうか?それとも少し中途半端で、この世の王子にかまけているでしょうか?」最後まで、信頼と忠実さをもって礼拝すること。これこそが今週わたしたちが求めるべき恵みです」。
(María Fernanda Bernasconi – RV).

11月27日(水)、一般謁見:体の復活

11月25日(月)、朝ミサ説教:極限の状況においてすら、主に信頼すること


 極限状態においてすら、主に信頼すること、というのが聖マルタの家での月曜日のミサでの勧告であった。パパはキリスト者たちは、あらゆる時代の殉教者たちがわたしたちに教えているように、決定的な選択をするように呼ばれていることを強調した。今日も、わたしたちにとって模範であり、主に完全に信頼するようにとわたしたちを励ます、迫害されている兄弟たちがいる、との見解を述べた。

 「極限状況で」主を選ぶこと。教皇は、ダニエル書からとられた第一朗読と福音がわたしたちに紹介する情景に留まりながらその説教を発展させた。ネブカドネザルの法廷での若いユダヤ人奴隷青年の話と、主を礼拝するために神殿へと行くやもめの話である。双方とも、極限状態である、とローマ司教は述べた。やもめは極貧状態にあり、青年たちは奴隷状態にあります。やもめは神殿の宝としてあったものすべてを差し出し、青年たちはその人生の危機を抱えつつ主に忠実であり続けます。

 「双方とも、つまりやもめたちも青年たちも、危機にさらされていました。その危機の中で主を選びました。広い心で、個人的な関心抜きで、けちな感覚抜きで。そこにはけちな態度はなかったのです。主は、主こそはすべてです。主は神であり、彼らは主に信頼していました。これは力ずくで-言葉を許して下さいですが、狂信的な仕方でなされたわけではありません。違います。「これをわたしたちはしなければなりません」、というのは、違います!それは別のことです。信じられたのは、主が忠実であることを知っていたからです。なぜなら主にはこれを変えることができないからです。いつも忠実なのです。忠実でなくなることができません。自分自身を偽ることはできないのです」。教皇は加えて言った。「この主への信頼が、この主のための選択をするにいたらせるのです。なぜなら彼らは主が忠実であると知っているからです」。それは簡単なことにも大きくて難しい決断にも通じる選択である。

 「教会でも、つまり境界の歴史の中でもこの選択をする老若男女が見受けられます。殉教者の人生を聞いたり、今日のキリスト者に対する迫害についての新聞記事を読んだりするとき、この選択をする、極限状態にいるこの兄弟姉妹のことを考えます。彼らはこの時を生きているのです。彼らはわたしたちにとって模範であり、体験されるためにわたしたちに託されているすべてのものを教会の宝である人々に差し出すようにとわたしたちを励ましています」。

 フランシスコは思い返して言った。「主は、奴隷にされた若いユダヤ人たちを困難から抜け出るのを助け、またやもめは主に助けられます。彼女を見てイエスは賛美し、その賛美の裏には、一人の犠牲者がいるのです。

 「わたしたちの全歴史の中で、今日も、決定的な選択をしているこうした兄弟姉妹のことを考えるのはわたしたちにとって益となります。けれど、家族と共に、子どもたちと共に前進して行くための決定的な選択を日々実現している多くのお母さんたち、家庭の多くのご両親のことをも考えましょう。彼らはわたしたちに証しをしています。わたしたちに証しをしているこれほど多くの人々のために、主に勇気の恵みを願いましょう。普通の、一般的な、日々の状況においても、極限の状況においても、わたしたちのキリスト者としての生活において前進する勇気を」。
(Traducción del italiano: Raúl Cabrera- Radio Vaticano)

2013年11月28日木曜日

『福音の喜び』の翻訳の試み

せっかくの教皇の使徒的勧告、翻訳をはやく読みたくても、まだまだ先のことになるでしょう。
そこで、ちょこっとずつ、スペイン語から日本語に訳していってみよう、と思い立ち、
この文書の試験的翻訳のブログを立ち上げてみました。

こちらです→http://hukuinnoyorokobi.blogspot.jp/

2013年11月27日水曜日

「福音を宣べ伝える喜びが奪われないようにしましょう!」 最初の使徒的勧告「福音の喜び」


 「希望が奪われないようにしましょう!」教皇の言葉を思い出しながら、聖座新宣教推進委員会の議長であるフィジケッラ卿はこう付けくわえた。「この使徒的勧告から聞こえるのは、はっきりとした、直接の、修辞も口実もない言葉づかいです」。パパ・フランシスコの最初の使徒的勧告は計画と勧めに満ちた文書で、その中心は、普遍的性格を伴う、境界なき宣教の性質であると司教団シノドスの総秘書は強調した。聖座ソーシャル・コミュニケーション委員会の議長は、教皇着座以来行われてきているその穏やかで心のこもった、直接的な言葉づかいが「いつもあった真理を、これがいつでもニュースであることに注意を払うことを可能にする言葉づかいで表現される」ように励ましていることを強調した。

 「福音の喜びは心を満たし、イエスと出会った人々のいのち全体を満たします」。このように使徒的勧告『エヴァンジェリイ・ガウディウム(福音の喜び)』 は始まる。そこでパパ・フランシスコは、2012年10月7日から28日までの間に催された「信仰伝達のための新しい福音宣教」にささげられたシノドスの作業の豊かさを拾い上げている。

 フランシスコは書く。「キリストに従う信者の皆さんにことばを向け、その喜びによって刻まれた福音宣教の新しい段階に招き、これからの数年の間に教会が更新して行くための道を示したいと思います」(1)。洗礼を受けたすべての人に対する強烈な呼びかけであるが、改めて燃える心で、ダイナミックに、「宣教の状態を持続させながら」(25)他の人たちにイエスの愛を運び、「今の世の中の大きな危険」つまり「個人主義に走った悲しみ」に落ち込むという危険に打ち勝つようにと強く呼びかけているのである。

 パパ・フランシスコの最初の使徒的勧告の紹介は、この火曜日の朝11時半にローマ聖庁報道事務局で行われたのだが、そこで聖座新宣教推進委員会議長のリノ・フィジケッラ卿と、司教シノドス総秘書のロレンツォ・バルディッセーリ卿、聖座ソーシャル・コミュニケーション委員会議長のクラウディオ・マリア・チェッリ卿への記者会見が行われた。「福音宣教の喜びが奪われないようにしましょう!」(83)。フィジケッラ卿はこのパパ・フランシスコのことばを思い返し、加えて「この使徒的勧告から聞こえるのは、はっきりとした、直接の、修辞も口実もない言葉づかいです。パパ・フランシスコは現代の人間が体験している諸問題の中核に行き、教会に関しては、ただそこにいるということよりもずっと多くを強く求めています。教会には勤勉で計画だった活動と新しい宣教活動をもってその献身を表明するような、新たにされた司牧実践が求められています。福音はあらゆるタイプの疎外なく、すべての人々に届かなければなりません。そうは言っても、特に重宝される人たちもいます。勘違いを避けるために、パパ・フランシスコはその指導のことばでこう提示します。『お金持ちの友達や近所の仲間というよりも、むしろ特に貧しい人たち、病気の人たち、しばしば軽視されている人たち、忘れ去られている人たちです。このあまりにはっきりしているメッセージが弱まるような説明を支持するような余地はありません』(48)と」。

 聖座ソーシャル・コミュニケーション委員会議長の指摘によれば、パパ・フランシスコがコミュニケーションの局面について語る部分で、使徒的勧告は、教皇に特徴的な司牧的深みを伴うそのスタイルと話し言葉を保っている。その穏やかで心のこもった、直接的な言葉づかいが、教皇自身が書いているように、「いつもあった真理を、これがいつでもニュースであることに注意を払うことを可能にする言葉づかいで表現される」ように励ましている。また「各小教区がその福音宣教の努めにおいて、過去の財産の続きとして、しかしまた新しい『たとえ話の言い回し』で信仰を伝えるために、現代の広大な多種多様な表現の中でも、様々な芸術表現を用いるように励ますことが望ましい」とも指摘している。

 司教シノドス総秘書のロレンツォ・バルディッセーリ卿は、教皇の最初の使徒的勧告に見られるシノドス的な局面を強調し、ローマ司教がシノドスに参加した司教たちの様々な提案を独自の仕方で取り組みなおし、こうして計画と勧告に満ちた文書を書いたことを取り上げた。 その中心は普遍的性格を伴う境界なき宣教の性質である。教皇はこの使徒的勧告の中でシノドスの諸提案を27回引用しているが、その中で「喜び」という単語を書いている回数は59回に上る。

 司教シノドス総秘書は、パパの招きは存在の中心から外れたところに行くことにあること、ブエノス・アイレスの大司教としての体験、またアパレシーダ文書の編纂における個人的な体験を強調している。ラテン・アメリカやカリブでは司教たちが「民間神秘主義」とも名づけている民間信仰によって豊かにされる司牧体験である。

 ロレンツォ・バルディッセーリ卿によって引き合いに出されたポイントの中には、パパ・フランシスコが取り上げている、福音宣教の社会的側面の世界規模での緊急性もある。それはこの文書に一貫した部分を成しているが、本文にこう読まれる。「続いて、この歴史の時点でわたしには根本的と思われる二つの多いな問題に意識を集中させようと思います。これをかなり広範にわたって発展させようと思うのですが、それは、これが人類の未来を決定するだろうと考えているからです。まず、貧しい人たちの社会への取り込み、次いで、平和と社会的対話です」
(CdM - RV)

使徒的勧告『福音の喜び』のおいしいところ

導入(福音の喜び)から 
“福音の喜びは心を満たし、イエスに出会う人のいのち全体を満たします”(1番、冒頭文)
 
“福音を伝える人は、いつも葬式の時の顔をもち続けているようではいけません。
熱意を取り戻し、これを育みましょう”.(10番)

第一章(教会の宣教的変容)から 
“わたしはすべてのものを変化させることのできる宣教という選択肢を夢見ています。
そうして習慣や生活スタイル、時間割、言葉づかい、教会の全構造が、
自己保存のためというよりも、
今の世界での福音宣教のためのふさわしい流れとなるように”.(27番) 

第二章(共同体的献身の危機において)から
 “今日、わたしたちは疎外と不平等の経済に対して非を唱えなければなりません。
そのような経済は人殺しです”.(53番)

第三章(福音を告げること)から 
“教会は無償のあわれみの場でなければなりません。
そこで誰もが歓迎され、愛され、赦され、
福音のよい生き方に従って生きるように励まされるのを
感じることができる場でなければ。” .(114番) 

第四章(福音宣教の社会的側面)から 
“誰もわたしたちに、宗教を、社会生活や国での生活において何の影響もない、
分り合っている人同士の秘密に格下げするよう強要することはできません。
ほんものの信仰にはいつも、世界を変えるという深い願いが伴います”.(183番)

 第五章(心のこもった福音宣教者)から 
“民の心臓部での宣教は、わたし(あなた)から取り去ることのできるような、
わたし(あなた)の人生の一部、あるいは一つの飾りなどではありません。
それはなにかわたし(あなた)が自分を破壊しようとしない限り、
自分の存在から抜き取ることのできないものなのです。
わたし(あなた)はこの地上で一つの宣教の使命であり、
そのためにわたし(あなた)はこの世にいるのです”.(273番)


2013年11月26日火曜日

(翻訳進行中)使徒的勧告『Evangelii Gaudium (福音の喜び)』、今日発布!!!


 今朝、使徒的勧告『福音の喜び』が公開されました。そこでパパ・フランシスコは現代世界に福音を告げるというテーマを発展させています。扉の開かれた預言的教会の、喜びと刷新、対話と出会いによって特徴づけられた、福音を伝え行く新しい段階です。

 パパは「新しいいくつもの道」と「創造的ないくつもの方法」を見つけながら、「福音にもともとある爽やかさを回復する」ように、わたしたちの「つまらない枠組み」にイエスを閉じ込めないように、と招きます。「ものごとを今あるままにしておかない、司牧的また宣教的な回心」が必要です。『(教会の)全構造がより宣教的」になるための教会の「構造改革」が。教皇はまた「教皇の座の回心」についても考えています。「イエス・キリストが教皇に与えようと望んだ意義により忠実」であるためです。そして枢機卿との企画グループの導入は「完全には実現されなかった」とはっきり述べています。パパは「健康的な地方分権化」が必要であるといいます。この刷新において、教会の様々な習慣をチェックするのを恐れてはならないと強調しているのです。

 神さまが人を受け入れていることのしるしは「あらゆるところに開かれた扉の聖堂をもつ」ことです。探し求める人々すべてが「閉ざされた扉の冷たさに」出会わないためです。パパは、イエスの友情なく「多くの兄弟が生きている教会よりも、道に出て傷つけられ汚される」教会の法がいい、と繰り返します。フランシスコは「一番の脅威は教会の日常生活にある灰色のプラグマティズム(実用主義)で、表面的にはすべてのことが普通に進められるけれど、実際には信仰が擦り減っていくこと」にあると指摘します。「温もりによる革命」を実行に移しながら「不毛な悲観主義」によって打ち負かされないように、と勧めます。「いい暮らしの霊性」を避け、「主の栄光を求める代わりに人間的な栄光を求める」という「霊的な世俗性」に打ち勝つことが必要です。

 教皇は教会共同体に呼びかけ、「神の民の中で、また様々な共同体の間で」やっかみにも妬みにも陥らないようにと投げかけています。信徒たちの応答責任が育つようにしていく必要性を強調しています。「教会においてより鋭さをもった、女性たちの居場所を拡げる必要がある」とはっきりと述べています。青年たちが「一番の主役に」ならなければならないと指摘しています。いくつかの場所で見られる召命の不足を前に、「どうでもいい動機の人を神学生にして神学校を埋めるわけにはいかない」とはっきり述べています。インカルチュレーションのテーマを扱いながら、「キリスト教にはたった一つの文化様式しかないということはない」ということ、教会の面持ちは「多元的な形」をもっていることを思い返しています。そしてその意味で民間信仰にみられる「実際的に福音宣教をしていく力」を再確認しています。

 教皇は「説教において見られるある種の細かいこだわり」に留まります。「(説教は)短くあるべきで、講演や授業のように見えることを避けなければならず」、「道徳的なことや教義のことしか言わないお説教」になるのを避け、「心を燃やすようにする」べきであると言っています。準備の大切さを強調しています。「準備をしない説教者は『霊的』ではありません。その人は不正直で無責任です」と。


 現代世界の挑戦について語りながら、パパは今の経済体系を、「その根っこから不正である」として退けています。「その経済は殺します」なぜなら「より強い者の法(弱肉強食の法)」が支配しているからです。今の「使い捨て」の文化は「何か新しいもの」を作ってきました。「疎外されている人々は『搾取されている』のではなく、廃棄物、余りの物である」というのです。わたしたちは「新たな目に見えない、しばしば仮想現実の専制」のうちに生きています。

Vivimos en una “nueva tiranía invisible, a veces virtual”, de un “mercado divinizado” donde imperan la “especulación financiera”, “una corrupción ramificada y una evasión fiscal egoísta”. Denuncia los “ataques a la libertad religiosa” y “las nuevas situaciones de persecución a los cristianos. “La familia -prosigue el Papa- atraviesa una crisis cultural profunda”. Insistiendo en “el aporte indispensable del matrimonio a la sociedad”, subraya que “el individualismo posmoderno y globalizado favorece un estilo de vida que...desnaturaliza los vínculos familiares”.

El Papa Francisco reafirma “la íntima conexión que existe entre evangelización y promoción humana” y el derecho de los pastores “a emitir opiniones sobre todo aquello que afecte a la vida de las personas”. “Para la Iglesia la opción por los pobres es una categoría teológica” antes que sociológica. “Por eso -dice- quiero una Iglesia pobre para los pobres. Ellos tienen mucho que enseñarnos”. “Mientras no se resuelvan radicalmente los problemas de los pobres... no se resolverán los problemas del mundo”.

El Papa invita a cuidar a los más débiles: “los sin techo, los toxicodependientes, los refugiados, los pueblos indígenas, los ancianos cada vez más solos y abandonados” y los migrantes, por los que exhorta a los países “a una generosa apertura”. Habla de las víctimas de la trata de personas y de nuevas formas de esclavitud...y de los “doblemente más pobres: las mujeres, los niños y los más débiles. “Los niños por nacer, son los más indefensos e inocentes de todos, a quienes hoy se les quiere negar su dignidad humana”. “No debe esperarse que la Iglesia cambie su postura sobre esta cuestión. El Papa a continuación hace un llamamiento al respeto de todo lo creado.

Por cuanto respecta al tema de la paz, el Papa afirma que “es necesaria una voz profética” cuando se quiere construir una reconciliación falsa que “silencie” a los más pobres mientras “algunos no quieren renunciar a sus privilegios”. Para la construcción de una sociedad “en paz, justicia y fraternidad” apunta el Papa hay que “trabajar a largo plazo, que “la unidad prevalezca sobre el conflicto y evitar que la política y la fe se reduzcan a la retórica”.

“La evangelización -continúa el Papa- también implica un camino de diálogo” que abre a la Iglesia para colaborar con todas las realidades políticas, sociales, religiosas y culturales. El ecumenismo es “un camino ineludible de la evangelización”. Es importante el enriquecimiento recíproco “en el diálogo con los hermanos ortodoxos. “El diálogo y la amistad con los hijos de Israel son parte de la vida de los discípulos de Jesús”; “el diálogo interreligioso, especialmente con el Islam, es una condición necesaria para la paz en el mundo”. El Papa implora “humildemente” para que los países de tradición islámica aseguren la libertad religiosa a los cristianos, también “¡teniendo en cuenta la libertad que los creyentes del Islam gozan en los países occidentales!”. Reitera de este modo la importancia del diálogo y de la alianza entre creyentes y no creyentes.

El último capítulo está dedicado a los “evangelizadores con Espíritu”, que son aquellos que “se abren sin temor a la acción del Espíritu Santo” que “infunde la fuerza para anunciar la novedad del Evangelio con audacia (parresía), en voz alta y en todo tiempo y lugar, incluso a contracorriente”. “Jesús quiere que toquemos la miseria humana, que toquemos la carne sufriente de los demás”. “Sólo puede ser misionero -añade- alguien que se sienta bien buscando el bien de los demás. La Exhortación concluye con una oración a María “Madre del Evangelio”.

ER RV

11月26日(火)、朝ミサ説教:瞬間瞬間は人のもの、時はそれを希望を持って照らす神のもの

(訳者注:訳語の違いの説明によれば、moment/momentoは「時間のほんの一部、あるいは、瞬間」「比較的短い期間」。つまりtime/tiempoという大きな流れの中の切りとられた一部分がmoment/momentoと言われるので、ここではmomentoを「瞬間瞬間」、time/tempoを「時(とき)」と訳させていただきます。日本語ではどちらも区別せずに「時間」とも言われています。)  
 人は自らを瞬間瞬間の主権者と思いこむこともあるが、ただキリストのみが時の主人なのです。パパ・フランシスコは聖マルタの家の小聖堂で祝われた朝ミサの説教中にこう語った。教皇は祈りにおいて人生の瞬間瞬間を識別する徳と、イエスへの希望のうちに時の終わりまでを見るための徳について説明した。

 現在という間を理解し時の終わりに備えるために、二つの助言があるという。祈りと希望である。祈りは、識別と共に、人生の様々な瞬間瞬間を解読し、神に向けるのを助ける。希望は日々の最終目的を照らし、終末論的な意味で、時の終わりの最終目的を照らすともし火である。

 パパ・フランシスコはその日の福音について考えを巡らした。そこではイエスが信者たちに神殿で人類の終わりの前に怒らなければならないことを説明し、最悪の悲劇ですら神に信頼する人には絶望をもたらすことはありえないという事実について説明して落ち着かせている。

 「このわたしたちの歩みの終点に向かう一人ひとりの道、また全人類の道で、主はわたしたちの二つの助言をしています。二つのことは異なります。この二つはどのようにわたしたちが生きるかによって異なるものです。なぜなら瞬間瞬間を生きるというのと、時を生きるというのは違うからです。

 「そしてキリスト者は瞬間瞬間を生きることを知っていながら時を生きることを知っている男性、あるいは女性なのです。瞬間瞬間とは今この手のうちに収めているものです。けれどこれは時ではありません。過ぎゆくのです!おそらくわたしたちは自分を瞬間瞬間の主人であると感じることもあるでしょう。けれど嘘偽りなのはわたしたちが自分を時の主人であると思いこむことです。時はわたしたちのものではありません。時は神のものなのです!瞬間瞬間はわたしたちの手の内にあり、どのようにこの瞬間瞬間を手にするかについての自由の内にもあります。もっとあります。わたしたちは瞬間瞬間の主権者になるにいたることはあるかもしれませんが、時の主権者はたった一人です。たった一人の主、イエス・キリストです」。

 パパは、イエスの言葉を引用しながら、「瞬間瞬間においてだまされ」たままであってはならない、なぜならまるでキリストであるかのように自らを示すための混乱を悪用する人がいるであろうから。「キリスト者は、瞬間瞬間に属する人ですが、瞬間瞬間を生きるために、そうした二つの徳、二つの態度を持たなければなりません。祈りと識別です」。

 「そして本当のしるしを知るため、この瞬間瞬間において撮らなければならない道を知るためには、識別の賜物と祈りとが必要なのです。しかもこれをしっかりすることができるようにという祈りです。一方、主人であるイエス・キリスト、つまり主だけに属する時を見るためには、わたしたちは一切の人間的な徳を持つことができません。時を見るための徳は、主から与えられたもの、プレゼントしてもらったものでなければなりません。それが希望なのです!祈りと識別は瞬間瞬間のため、希望は時のため」

 「そのように、キリスト者はこの道で動きます。瞬間に次ぐ瞬間、祈りと識別をもって。でも時を希望を与えられるようにします」。

 「キリスト者はどの瞬間にも主を待つことを知ります。でも主において時の終わりを待ち望むのです。瞬間瞬間と時の男女、祈りと識別、希望の男女。主がわたしたちに、これもまた主のものですが、知恵をもって歩む恵みを下さいますように。その知恵は瞬間瞬間においてわたしたちを祈り識別するようにと導きます。そして神の伝令である時において、わたしたちが希望をもって生きられるようにしてくださいますように」。
(María Fernanda Bernasconi – RV).

2013年11月25日月曜日

11月22日(金)、朝ミサ説教:わたしたちの聖堂は、礼拝の場になっていますか?


 聖堂は聖なる場所ですが、そこで一番大切なのは儀式を綺麗に行うことよりも、「主を礼拝すること」なのです。とパパ・フランシスコは聖マルタの家での朝ミサの説教の間に語った。パパは人が「聖霊の神殿」であり、自分の内側で神に耳を傾け、ゆるしを願い、神に従うようにと呼ばれている、ということを黙想した。

 聖堂は神の前で民が自分の魂を見守る石造りの家である。しかし聖堂はまた、個々人の体でもある。その中で神が語り、心が耳を傾けるところである。教皇はキリスト者の生活で並行して流れているこの二つの次元を中心にその説教を進めた。そのきっかけは典礼で読まれた旧約聖書の朗読個所にある。そこでユダ・マカバイが戦争によって破壊された神殿を聖別しに戻ってくる。「神殿は、共同体に関する論点の出発点のようなものです。そこは神の民に関わる場所なのです」そこに向かうのには様々な理由があるが、その中で他のものにまさるものが一つある、と説明した。

「神殿は、共同体がそこに行って祈り、主を賛美し、感謝をする場所ですが、なによりも礼拝する場所です。神殿で主が礼拝されるのです。そしてこれが一番大切なポイントです。同様に、これは典礼の式典にとっても通用します。この典礼祭儀で、何が一番大切なのでしょう?歌、式分、どれも美しいですね?でも礼拝が一番大切なのです。集まった全共同体は犠牲が祝われる祭壇を見て、礼拝するのです。でも、わたしが思うに、謙虚に言いますが、多分わたしたちキリスト者たちは、すこし礼拝の感覚を失ってきた気がします。そしてこう考える。聖堂に行こう。兄弟たちと集まろう。それはよいことです。素晴らしいことですよ!でも中心はあちらに、神がいるところにあるのです。そしてわたしたちは神を礼拝するのです」。

 この前提から直接の問いが湧き出る。『わたしたちの聖堂は、礼拝の場となり、礼拝にふさわしくなっているでしょうか?わたしたちの祭儀は礼拝をしやすくしていますか?イエスは、神殿を礼拝の代わりに取引の場として占めていた商人たちを追い出します。でも他の「神殿」があるのです。そして信仰生活において考慮する別の聖性があるのです。

 「聖パウロはわたしたちは聖霊の神殿であると言っています。わたしが聖堂なのです。神の霊がわたしと共にいるのです。そしてこうも言っています。「あなたたちの中にいる主の霊を悲しませてはなりません!」そしてここでも、おそらく礼拝の前のように話すことはできず、自分の中に主の霊を求め、自分の中に神がいることを知っていて、その中に聖霊がいる、そうした心である礼拝の運について語られます。これに耳を傾け、これに従いなさい」。

 きっと神から帰結されるものは、継続的な清めをあらかじめ予測しています。「なぜなら誰もが罪びとだからです」とパパは繰り返し、次のように強調した。「祈り、償い、ゆるしの秘跡、エウカリスティアをもって自らを清めること。そうして「この二つの聖堂には二つの場所があります。物質的な聖堂と礼拝の場です。霊的な聖堂は自分の内側にあり、そこに聖霊がス回っています。この二つの聖堂において、わたしたちの態度は礼拝し耳を傾け、祈り、ゆるしを願い、主をたたえる試合でなくてはなりません」

 「そして神殿の喜びについて語られる時、次のようなことで語られているのです。

 「礼拝や祈り、感謝、賛美のうちにある全共同体」。わたしは祈りにおいて、自分が『聖堂』なのだから自分のうちにいる主と共にいます。人に耳を語る時、心構えのうちにある時に…。主がわたしたちにこの神殿の本当の意味をわたしたちに教え、わたしたちの礼拝の祈り、神の言葉の礼拝と傾聴のわたしたちのいのちにおいて前進できるのです。 

 (Traducción del italiano: Raúl Cabrera-Radio Vaticano)

「五本指の祈り」

 教皇フランシスコが、まだアルゼンチンの司教だった時に人を祈りに招くのに用いたものです。


それぞれの指で一つ祈りをささげましょう。
 
 1.親指:親指は自分に一番近い指ですね。だからまず自分の側にいる人たちのために祈ることから始めましょう。いちばん簡単に思い出せる人たちのためです。

 2.人差し指:次の指は人差し指ですね。人に教える人たち、人を指導する人たち、人を治療する人たちのために祈りましょう。先生や、お医者さん、大学の教授などが含まれます。彼らは他の人たちに正しい方向を指し示すために、支えと知恵を必要としています。あなたが祈る時、いつもこの人たちのことを思い出してお祈りしてください。
 
 3.中指:次の指は一番背の高い指です。中指と呼ばれている指です。この指を見ると、指導者たちのことを思い出します。首相のため、国会議員たちのため、会社の上司たちのため、経営者たちのために祈ってください。こうした人たちはわたしたちの国の先行きを決め、世論を導くからです。彼らには神の導きが必要です。

 4.薬指:四つ目の指は、結婚指輪の指です。聞いてびっくりする人も多いかもしれませんが、これは一番弱い指です。たくさんの問題に囲まれている、あるいは病気で寝たきりになっているといった、一番弱い人々のために祈ることを忘れないでください。この方々は皆さんの祈りを昼も夜も必要としています。この方々のためにどれほど祈っても祈り過ぎにはなりません。
 また、結婚生活を送っている人たちのために祈ることにもわたしたちを招きます。この指に結婚の契約の指輪を付けているのですから。

 5.小指:最後は小指です。すべての指の中で一番小さいものです。これは神さまの前で、そして他者の前で自分をどのように見なければならないかを教えます。聖書が言っているように、「後の者が先になる」あなたの小指を看る時、自分のために祈ることを思い出して下さい。他の四つのグループの人々のために祈った後ではじめて、正しい物の見方で自分に何が必要かを見ることができのです。そうして自分のためにより良い仕方で祈ることができるでしょう。

2013年11月24日日曜日

11月23日(土)、洗礼志願者たちへの要理:わたしたちは一つの共通のものを持っています。それは神の望みです。


 この土曜日の午後、バチカン大聖堂でパパ・フランシスコは洗礼志願者の入門式を司式した。5大陸の47カ国から500人の洗礼志願者が来てその要理担当者たちと共にこの集いに参加した。この午後のイベントは、翌日24日(日)に閉じられる、信仰年の一環として特別に組み込まれたものである。そしてこれはベネディクト十六世によって呼びかけられて始まった一年は終るが、むしろ一人ひとりのキリスト者が、自分の弟子となるように招き、福音を宣べ伝え、その生き方で信仰の喜びの証しをするために世に遣わす主イエスに日々応える努力を続けなければならない、ということのしるしとなってほしいという意図で組み込まれたのである。この午後、ローマ司教はキリストにおける新しいいのちの意味と弟子であることについての要理を発した。

洗礼志願者への教皇の要理全文(イベントのラジオ同時通訳より)
 愛する洗礼志願者の皆さん、この信仰年を閉じようとしている時に、皆さんの要理担当者たち、家族たちと共に、また全世界の様々なところで今、皆さんと同じような信仰の歩みを果たしている多くの男女の代表者として皆さんはここに集まっています。

 みなさんは様々な多くの国、文化伝統、異なる経験のあるところからやって来ました。それにもかかわらず、この午後、わたしたちの間では多くの共通のことを感じています。何よりも、一つのことがあります。それは神の望みです。

 この望みは、詩篇作者のことばによって思い返されます。「谷川の水を求める鹿のように、わたしの魂はあなたを探し求めます、わが神よ。わたしの魂は神に渇きます。生ける神に。いつわたしはやって来て、神の顔を見ることになるのでしょう?」 この望み、主に出会い主に関する体験をし、その愛の体験をし、そのあわれみの体験をしたいという切望を活き活きと保つことは、どれほど大切なことでしょう!もし生きる神への渇きが不足し始めたら、信仰はマンネリ化する危険に走り、火おこしのされない炎のように、消えゆく危険に走ります。悪臭を放ち始め、無意味になっていく危険に走るのです

 福音書のヨハネ1章35-42という個所がわたしたちに示したのは、洗礼者ヨハネがその弟子たちにイエスを神の小羊として指し示す場面です。このうちの二人は師について行き、その後、他の人たちが主に出会い、主を知り、主に従うことができるようにする「仲介者」になっていきます。

 この個所には、洗礼志願者の体験に訴えかける三つの時があります。まず第一に、「耳を傾けること」があります。二人の弟子たちは洗礼者の証しに耳を傾けました。愛する洗礼志願者の皆さん、皆さんも、イエスについて語ってくれた人々、皆さんに、洗礼を通してイエスの弟子となりながらイエスに従うようにと提案してくれた人々に耳を傾けてきました。わたしたちの周りや自分自身の内側でこだまする様々な声のざわめきの中で、皆さんはイエスをわたしたちの人生に完全な意味を与えることのできる唯一の方として指し示す声に耳を傾け、この声を受け入れたのです。

 二つ目の時は、「出会い」です。二人の弟子たちは師に出会い、彼のもとに共に留まります。師に出会った後で、すぐに自分の心の中で新しい何かが訴えかけているのを感じ取ります。その喜びを他の人たちにも伝えなければならないような強い力です。その人たちも主に出会うことができるように、と。

 アンデレは、実際、その兄弟シモンに会い、イエスのところに連れて行きます。この情景を思い浮かべることはどれほどわたしたちのためになることでしょう!この情景を思い浮かべると、神が、わたしたちが一人きりでいるため、わたしたち自身の中に閉じこもっているためにわたしたちを創ったのではなく、イエスに出会うことができるため、また他者との出会いにわたしたち自身を開くためにつくられたのだということを思い出すことができます。神はまず、わたしたち一人ひとりに向かって来ます。これは素晴らしいことです。イエスがわたしたちとの出会いを求めてくるのです!
 聖書では神さまはいつも人との出会いのきっかけを作るような存在として現れます。神さまの方が人を探すのです。一般的には、まさに人が神さまを裏切ることで、辛く悲劇の体験をし、神さまから逃げている間に、神さまはその人を探します。神は人を探しに出て行くのに時を待ちません。すぐに探すのです。
 わたしたちの父は忍耐強い探究家なのです!神さまはわたしたちに先立ち、いつだってわたしたちを待ちます。わたしたちを待ち飽きません。わたしたちから離れることなく、わたしたち一人一人との出会いのためにふさわしい時を待てる忍耐があります。そして出会いが生じる時、それは決して いそいそとした出会いではありません。なぜなら神は長い時間わたしたちと共に留まり、わたしたちを支え、わたしたちを慰め、わたしたちに喜びを与えようと望むからです。

 神さまはわたしたちに出会うためには大急ぎですが、わたしたちから離れるのに急ぐことは決してありません。わたしたちのもとに残られるのです。わたしたちが神さまを切望し、神さまを望むように、神さまもわたしたちのもとにいたいと望まれるのです。なぜならわたしたちは神さまに属し、わたしたちは神さま「のもの」であり、神さまによって創られたものだからです。神さまも、わたしたちとの出会いに渇きを覚える、という言い方をしても過言ではないでしょう。わたしたちの神さまわたしたちに渇ききった神なのです。これが神の心です…。このことを感じるのは素晴らしいことです!

 この個所の最後の部分は「歩むこと」です。二人の弟子たちはイエスに向かって歩み、その後でイエスと共なる歩みの道のりをなします。これはわたしたちすべてにとって大切な教えです。信仰はイエスとの歩みなのです…。いつもこのことを思い出しなさい、信仰とはイエスとの歩みのことです。そしてそれは全生涯続く歩みです。そして最終的にいるでしょう。
 当然、この歩みの中には疲れたり混乱したりする時もあるでしょう。けれど信仰はわたしたちにあらゆる状況において、それも最も痛みのある時や理解に困難な状況においても、イエス様が休むことなくそこにいてくださっているということを確かなものとしてくれるのです。わたしたちは、自分たちをはるかに超え、落ち着きと希望を持って生きられるようにしてくれる神の愛の神秘のますます奥深くに入っていくようにと呼ばれているのです。

 愛する洗礼志願者の皆さん、今日皆さんは洗礼志願者としての歩みを始めます。喜びをもって、全幅の信頼を持って皆さんを見守る全教会の支えにおいて確実に、これを歩み通すようにとわたしは望んでいます。
 マリアさまは、完璧な弟子でしたが、皆さんと共に歩んでくれます。マリアを信仰におけるわたしたちの母として感じることができるのは素晴らしいことです!皆さんが信仰の光に目を開かせた最初の時期の熱意を守るようにと、わたしは皆さんを招きます。
 愛される弟子として、イエスと初めて留まった日時を思い返すと、彼らは皆さんの上に注がれるその眼差しを感じたのです。このイエスの眼差しを決して忘れてはなりません。あなたの上に、あなたの上に、あなたの上に注がれた、この眼差しを…。その眼差しを決して忘れてはなりません、それは愛の眼差しなのです!そしてこのように、皆さんは主の忠実な愛のおかげでいつもしっかりとしていられるようになります。主は忠実ですから、しっかりとしていなさい!主が皆さんを裏切るようなことは決してありません!
(Traducción del italiano: Griselda Mutual y Mariana Puebla – Radio Vaticano)

11月24日(日)、信仰年閉幕ミサ説教:神さまの子どもであること、教会における兄弟であることの素晴らしさを感じさせてくれた信仰年


 「一人ひとりにそれぞれの歩みがあり、それぞれの罪があります。その幸せな時があり、闇の時があります。この集いの日は、わたしたちの歩みについてよく考え、心の中で、沈黙のうちに『わたしのことを思い出して下さい、主よ。イエスよ、わたしのことを思い出して下さい。善い人間になりたいけれど力が足りないのです、罪深いのです。けれどイエスよ、わたしのことを思い出して下さい。あなたはわたしのことを思い出すことができる方です。なぜならあなたはすべてのことの中心にいる方だからです』。素晴らしいですね、この語りかけを、今日しましょう、一人ひとり、自分の心の中で」。パパ・フランシスコは、先ほど祝われた信仰年閉幕ミサ、宇宙万物の王であるわたしたちの主イエス・キリストの祭日ミサの中でこう語った。
 東方西方合わせて枢機卿、総主教、大司教、司祭たちの数は1200人に上った。事実、この荘厳なセレモニーには、東方教会省の総会に参加していたカトリック東方教会の指導者たちも列席した。祭壇の横にペトロの聖遺物が展示された。銅の箱に、いくつかの骨片が収められていた。
 祭儀の終わりのところで、ローマ司教は象徴的に、18の異なる国々から訪れた「神の民」の代表者36人に使徒的勧告『エヴァンジェリイ・ガウンディウム(福音の喜び)』を渡した。この使徒的勧告は福音化に関するもので、2012年10月の司教シノドスの内容を改めて取り上げており、来る火曜日に発表交付される予定である。
 ミサの前にフィリピンの人々のための献金が実施された。

教皇の説教全文(ラジオ同時通訳より)

 宇宙万物の王であるキリストの祭日は、典礼歴の頂点にあり、
信仰年の結びともなっています。この信仰年は、今情愛をもって、またわたしたちに下さったこの恵みをかみしめながら思い出している教皇ベネディクト十六世によって呼びかけられたものです。(温かい拍手)
 この摂理に満ちた呼びかけをもって、わたしたちを神の子らとし教会における兄弟とした、洗礼の日に始まったその信仰の歩みの美しさを見出す機会がわたしたちに与えられました。それは神との完全な出会いを最終目標とし、わたしたちの心がしきりに求めている幸せへとわたしたちを導き入れるために、わたしたちを清め、高め、聖化する聖霊のうちにある歩みです。

 わたしはまた、心を込め、兄弟としての想いで、ここにおいでのカトリック東方教会の総主教の皆さん、大司教の皆さんに挨拶いたします。わたしたちが相互に与えあう平和のあいさつは特に、しばしば高価な代償を払いながら模範的な忠誠をもってキリストの名を告白してきたこの諸共同体に、ローマ司教の敬意を表明しようとするものです。

 同様に、皆さんを介して、整地やシリア、全東方に住んでいるキリスト教徒の皆さんに言葉を向け、皆さんが平和と調和の恵みを得られるようにと望みます。

 朗読された聖書個所には、その縦糸として、『キリストが中心にいるということ』があります。キリストが中心です。キリストが被造物の中心、民の中心、歴史の中心にいるのです。

1.使徒パウロは、コロサイ人への手紙からとられた第二朗読の中で、イエスが中心であるということのとても深い洞察をわたしたちに提供しています。イエスを全被造物の長子として紹介しているのです。イエスの中で、イエスを通して、イエスの見守る中、すべてのものごとが造られた、と。イエスはすべての中心であり、発端です。イエス・キリストといえば、主なのです。神はイエスに充全性、全体性を与えました。そうしてイエスのうちにすべてのものごとが和解するためです(コロ1章12-20節参照)。創造の主であり、和解の主なのです。

 このイメージは、イエスが被造物の中心であることを理解させてくれます。そうして信者に求められる態度は、そのようにあることをもとめること、人生の中で、この想い、言葉、行いにおいてイエス・キリストを中心とすることを認め受け入れる、ということです。そのようにして、わたしたちの考えはキリスト者の考え、つまりキリストの考えになります。わたしたちの行いはキリスト者の行い、つまりキリストの行いになります。わたしたちの言葉はキリスト者の言葉、キリストの言葉になるのです。一方、どれでも他のことを代わりにすることでこの中心を失うことは、わたしたちを取り巻く環境と同様その人自身にも危害を呼び覚ますだけです。

 被造物の中心である上に、和解の中心でもあります。キリストは「神の民の中心」なのです。そしてまさに今日ここに、わたしたちの中心におられるのです。今ここにいます。み言葉のうちに、そしてあとで、わたしたちその民のただ中で、生きて、現存して、祭壇の上におられることになります。第一朗読はこのことを、イスラエルの諸部族がダビドに近づき主の前で全イスラエルを統べる王として油を注いだ非のことが語られる場面で、わたしたちに示します(サム下5,1―3節)。王の理想的なモデルを探して、この人々は神自身を探していました。近くにいてくださるような神、歩みにおいて人と共に歩む区とを受け入れてくれる神、その人々の兄弟となってくれるような神を。

 キリストは、ダビデ王の子孫であり、まだに自分の命を払ってその民、つまりわたしたち全員の面倒を看る、「民を成すものの周囲で『兄弟』」なのです。キリストと共に、わたしたちは一つの歩みに加わり、一つの終着点に向かいます。わたしたちが民としてのアイデンティティを持つのは、キリストにおいてのみ、中心としてのキリストにおいてのみなのです。

3.最後に、キリストは「人類の歴史の中心であり、すべての人の歩みの中心でもあります」。わたしたちの人生を織りなす喜びや希望、悲しみや悩みを、キリストに照らすことができます。イエスが中心である時、わたしたちの存在の最も暗い時が輝き、今日の福音におけるよい強盗に起こったように、わたしたちに希望を与えるのです

 他のすべての人々がイエスに軽蔑しながら「もしおまえがキリストであり、王であるメシアならば、自分自身を救って十字架から降りてみよ」というような言葉を向けるのに対して、もう一人は、人生において間違ったけれど後悔して、十字架のイエスを捕まえて『あなたがみ国に到達する時にはわたしのことを思い出して下さい』とすがるのです(ルカ23章42節)。そしてイエスは彼に『今日、あなたは渡したと共に楽園にいるだろう』(43節)、とその国を約束します。
 イエスはゆるしのことばのみを口にします。有罪判決のことばではありません。そして人が子のゆるしを求める勇気を見出す時、主はそのような願いごとの相手をしないなどということは決してありえません。わたしたち一人ひとりにはそれぞれの歩みがあります。わたしたち一人ひとりにはそれぞれの過ち、それぞれの罪、それぞれの幸せな時、それぞれの闇の時もあります。この集いの日に、自分の歩みについて考え、イエスを見つめ、心から何度も、でも心から、沈黙のうちに、わたしたちの一人ひとり、「主よ、わたしのことを思い出して下さい、今はあなたはみ国においでなのですから!」と繰り返すことはわたしたちのためになります。イエスよ、わたしのことを思い出して下さい。というのはわたしはよい人になる気はあるのに、わたしはよい女性になる気はあるのに、力がないのです。わたしにはできません。わたしは罪びとなのです、わたしは罪びとなのです!でもわたしのことを思い出して下さい。あなたに派わたしのことを思い出すことができます。なぜならあなたは中心にいるからです。あなたは甘さにみ国におられるのですから!なんとすばらしいことでしょう!今日みなさん、それぞれ自分の心の中で、何度も、何度も「主よ、わたしのことを思い出して下さい。あなたは中心にいるのだから、あなたはみ国におられるのですから!」と語りかけましょう。
 イエスのよい強盗への約束はわたしたちに素晴らしく大いなる希望をもたらします。神の恵みはいつも求めた祈りよりもずっと豊かであると言われています。主はいつも願ったものよりも大きなものを下さいます。主はあまりに寛大で、願ったことよりも多くのことをいつも与えるのです。イエスは、まさにわたしたちの喜びと救いの望みの中心にいます。皆一緒にこの歩みを進みましょう。

2013年11月22日金曜日

11月24日用、信仰年を締めくくるミサの式の流れ

こちらのスペイン語ページからの翻訳です。




ミサの前か後に、祭壇の近くにふさわしい仕方で聖人の聖遺物を顕示することが勧められる(特にその場所の守護聖人)。諸聖人の連ガンを唱える、あるいはキリスト教共同体のための生きた信仰と、信仰宣言をするための力を求める似たような祈りを唱える。もしふさわしいと思われるならば、司祭は聖遺物を手にして最後の祝福をし、閉祭を迎えることができる。
入祭の儀
ミサの前に、信者に蝋燭を配り、復活のろうそくを灯す。復活のろうそくは、復活節のように、祭壇の側になければならない。
入祭唱
ほふられた神の小羊は力と富と知恵に満ち、栄光と賛美を受けるにふさわしい方。栄光と力が世々限りなくありますように (黙示録 512; 16).
十字を切ってはじめのあいさつをした後で、司祭は次のような言葉、あるいは似たような別の言葉で信者に言葉をかける。
ローマで今日信仰年を閉じる教皇フランシスコとの一致のうちに、わたしたちも個人的、あるいは共同体として体験し、果たしてきた歩みを思い起こしましょう。主がこの刷新の時を与えてくださったことに感謝しましょう。世界に広がる教会との一致のうちに、この恵みの時をどのように生きてきたか、またわたしたちの信仰のささげは新たにされたかどうかを考えましょう。宇宙の王であるイエス・キリストの祭日はわたしたちの回想の延長であり、主がわたしたちになさった約束、裏切ることのない希望をもってわたしたちが胸に抱き続ける約束への信仰の確信を認めるように招いています。
回心の祈り
聖水を振りかけながら、痛悔の祈りが続く(信仰の歩みを始める洗礼を思い起こしながら)。
司祭は、初めのあいさつの後、セディリャに立ったまま、聖水器の水を祝福するために、信者たちを次のような言葉、あるいは別の似たような言葉で祈りに招く。
愛する兄弟姉妹の皆さん、わたしたちの父である神に、へりくだって祈りましょう。わたしたちの洗礼を思い出すために降りかけられるこの水を祝福してくださいますように。主がわたしたちの命を新たにし、わたしたちがいつも聖霊の賜物に忠実であることができますように。
短い沈黙の間の後、司祭は、手を合わせて、続ける。
父よ、あなたは十字架上で屠られた小羊からいのちの水の泉を湧きださせて下さいます。
全員:あなたの教会を祝福し、清めてください。

キリスト、あなたはいのちのことばと共に水の浸しのうちに教会を若返らせて下さいます。
全員:あなたの教会を祝福し、清めてください。

聖霊、あなたは新しい人類の初穂として、洗礼の水からわたしたちを新たに生まれさせてくださいます。
全員:あなたの教会を祝福し、清めてください。

全能永遠の神よ、
あなたは水によってその子らを永遠の命に聖化することを望まれました。
この水を(+)祝福し、この聖別された日に、
あなたの守りのしるしとしてください。
父よ、わたしたちの中で恵みの生きた泉を新たにし
すべての悪からわたしたちを守り
清い心であなたと顔を合わせることができるようにしてください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。
全員:アーメン

祝福の祈りの後で、司祭は聖水器を手に死、自分と奉仕者たちに水を振りかけ、そのあとふさわしいと考えられるならば司祭と会衆の間を、 教会の中央の通路を通って水を振りかけて回る。その間、ふさわしい歌を歌う。
引き続き、司祭はセディリャに戻る。
歌が終ったところで、司祭は会衆に向き直り、手を合わせて言う。
全能の神がわたしたちの罪を清め
この祭儀を通してわたしたちを
世々にみ国の食卓に与るにふさわしいものとしてくださいますように。
全員:アーメン

栄光の賛歌
ここで栄光の賛歌を歌う、あるいは唱える
入祭唱
司祭
祈りましょう。
父である神よ、
あなたは十字架につけられた一人子イエスを、
すべての人の救い主として示して下さいました。
キリストこそ、世界に平和をもたらし、
人類を一つにする主であることを、
きょう、深く心に留めることができますように。
聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に
生き、支配しておられる御子、
わたしたちの主イエス・キリストによって。
全員:アーメン。



言葉の典礼
第一朗読
ダビデにイスラエルの王として油が注がれる
サムエル記(サムエル下513
 その日、イスラエルの 全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。
答唱詩篇
Sal 121, 1-2. 4-5
答唱:わたしたちは神の民 そのまきばの群れ
「神の家に行こう」と言われて
わたしの心は喜びに弾んだ。
エルサレムよ、わたしたちは今、
お前の門のうちに立っている。

しげく連なる町、エルサレム、
すべての民の都。
そこにはイスラエルの部族、
神の民がのぼってくる。

イスラエルの掟に従い、
神に感謝をささげるために。
そこにはさばきの座、
ダビデの家の座が据えられている。

第二朗読
わたしたちはその愛する御子の国に移された
使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ 112-20節)
兄弟の皆さん、
わたしたちは、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝しています。御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
アレルヤ唱
Mc 11, 9b-10a
アレルヤ、アレルヤ
主の名によって来られる方に賛美
わたしたちの父ダビドの国に祝福がありますように
アレルヤ、アレルヤ
福音朗読
主よ、み国においでになるときには、わたしを思い出して下さい。
主は皆さんと共に
全員:また司祭と共に

ルカによる福音(ルカ 23 35-43節)
全員:主に栄光

そのとき、議員たちはイエスをあざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
キリストに賛美!
全員:キリストに賛美!

説教
テーマによさそうなもの
      イエスキリストは本当に自分の生活と自分の家族にとって王だろうか?
      わたしは王であるキリストの言葉に自分の決断を従わせているだろうか?
      信仰年の締めくくりについて語り、この日のために提案されている補助金について言及する。
      洗礼の時になされた信仰宣言が求める務めを強調する。
      自分たちの生活の様々な状況の中でどのように信仰を表明することができるだろうか?
      洗礼において「あなたがたは行って、教えなさい!」という使命を受けている。その自分の実りはどうだろう?
      自分は信仰を表明しているだろうか?
信仰宣言
説教の後、司祭は次のような言葉、あるいは他の言葉で信仰宣言の導入を行う。
一年前、信仰年が始まる時に、シンボルのテキストをもらいました。わたしたちの務めは信仰宣言の定式を暗記することだけではありません。聖アウグスティヌスはこう言います。「この短い定式は『その人々に、信じながら、神に従い、神に従いながらまっすぐに生き、まっすぐに生きながらその心を清め、一度心を清めたら、信じている内容を理解するように』ということが提案されているのです」。
 今日、信仰宣言を再び渡します。わたしたちの信仰の歩みの始まりを刻み、洗礼の思い出に、ろうそくに火を灯します。そしてこのわたしたちが受けた信仰を兄弟たちに伝える使命に意識的に携わりながら、信者の共同体である教会の中で荘厳に、父である神と御子と聖霊へのわたしたちの委ねを宣言したいと思います。
復活のろうそくから火を受けてろうそくに火を灯す
キリストの光を受けなさい。
非のついたろうそくを手にして、司祭は唱える。
洗礼において、キリストのおかげで、皆さんは光になりました。
いつも光の子として歩みなさい。
信じ続けながら
天のみ国にいるすべての聖人と共に
やがて来られる主との出会いに赴くことができますように。
引き続き、全共同体は信仰宣言を荘厳に歌う、あるいは唱える。また洗礼の約束の更新を行うこともできる。
最後に、司祭は信者のために次の祈りを唱える。
わたしたちの父である神よ、
洗礼の信仰を共に宣言するあなたの子らに耳を傾けてください。
あなたの恵みの助けをいつも与え
日々信仰の光で照らして下さい。
この世の歩みを続ける彼らを聖霊で導き、
兄弟たちとの出会いに向かわせ
あなたが強く望んでいるように救いの福音を知らせることのできる
福音宣教者にしてください。
そうしてすべての人々がたったひとつの群れに集まり、
ただ一人の牧者、あなたの子イエス・キリストに導かれ
喜びの遺産と約束された安らぎを受けますように。
彼らが神であり世々に行き支配しておられる
あなたに導かれますように。
全員:アーメン

共同祈願

司祭:
御父と共にすべてを治められる主に信頼して祈りましょう。
(それぞれの祈りに次のように答える)
全員:キリストは王としてすべてを治めておられる。
すべてを導かれる神よ、あなたは御子をすべての人のまことの王として遣わされました。キリストに従うわたしたちが、希望のうちに、み国の完成のために働くことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。




感謝の典礼
奉納祈願
恵み深い神よ主キリストと共にいる喜びを深く味わわせて下さい。一つの食卓を囲むわたしたちが、神の国をあかしする者となりますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
叙唱
王であるキリスト
主は皆さんと共に…               聖なるかな・・・
第三奉献文
交わりの儀
Antífona de comunión 
拝領唱:主はとこしえに王座に就き、民に力を授け、平和の祝福を与えてくださる。 (詩篇 2910-11).
拝領祈願
限りない愛を注いでくださる神よ、キリストのうちにすべての人を一つにしてください。神の国の完成を待ち望む教会が、あなたの愛と平和の道具となることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

11月21日(木)、禁域修道院共同体にて:マリアは出産を待つ女性、弱まることのない希望の女性です


 「マリアは希望の母であり、彼女から希望をもって未来を見つめる教えが生まれました」。これはこの木曜日の午後、ローマのアヴェンティーノのカマルドリ・ベネディクト修道院のシスターたちに、全禁域共同体にささげられた禁域修道会の日に、聖アントニオ・アバッド修道院への訪問の際にパパ・フランシスコから向けられた言葉である。

 修道院長のソル・ミケラ・ポルチェラトが歓迎をし、その後で教皇は共同体と共に晩課を唱えた。

 フランシスコは、修道女たちに向かい、キリスト者の希望のモデルであり、他のどんな被造物にもありえない仕方でイエスを知り、イエスを愛し、イエスとの親子の絆を作り、しかも出産の前からその関係を生きたおとめマリアを祝った。

  「天使の言葉を受け入れる時にわが子の弟子であり母となり、こう言いました。『ここに主の女奴隷がいます。わたしのうちに、あなたの言葉通りのことが行われますように』。この『わたしのうちに行われますように』というのはただの受容に留まらず、未来への開きでもあります。それは希望なのです!この『わたしのうちに行われますように』は希望なのです!」

 マリアは希望の母です。パパは耳を傾けているすべてのシスターたちと大修道院長に、マリアの人生におけるあらゆる「はい」という返事を思い出させた。お告げの時からである。それはまさに「キリスト者の希望の最も表現に富んだ模範像」である。

 「マリアはどうすれば母に萎えれるか知りませんでしたが、果たされようとしていた神秘に全く信頼し、出産を待つ女性、希望の女性となったのです」。

 パパはイエスの誕生を待つベツレヘムのマリアを思い起こす。神殿での奉献のためにエルサレムにいるマリア。マリアは、どのようにして師でありメシアとなったあの御子の使命とアイデンティティがマリアの母であるということを越え、同時にシメオンのことばとその痛みの預言のように怖れを生み出しうるかをよく意識していた。「にもかかわらず、こうしたあらゆる困難と神の計画の驚きを前に、おとめの希望は決して弱まりません」とパパは言った。

 「これはわたしたちに、希望は傾聴、観想、忍耐から栄養を与えられ、こうして主の時が熟すのだ、と語っています」。

 しかもマリアが十字架のもとで痛みに満ちた女性となった時でさえ、その希望は譲らず、「果たされるべきであった痛みよりも大きな神秘のめざめた希望」において支えられるのである、とフランシスコは語った。

 「あらゆることが本当に終わってしまったかのように見えました。どのような希望であってもこれで消えてしまったと言いそうなところでした。彼女も、その時、お告げの時の約束を思い出さなかったら、『こんなことはありえない!わたしはだまされた!』と言い得たかもしれません。けれどそうしませんでした」。

 マリアは信じた。その信仰は彼女を神の未来への希望をもって待つことができるようにした。教皇によれば、現代の人間には手に入れることのできない希望である。

 「しばしばわたしはこう考えるのです。『神の明日を待つことができるだろうか?それともわたしたちは今日、今日、今日と望んでしまうのでしょうか?』。神の未来は彼女にとって日々の曙でした。観想において母と子の抱擁を考えるのは益になります」。

 むすびとして、あの「母の希望である」「イエスの墓の中で灯っていたランプ」に考えを向けながら、その時にも「謙虚な希望」があった。そしてパパは問いかけた。

 「・・・修道院の内部に、このランプはまだ灯されていますか?諸修道院では、神の未来が待ち望まれていますか?」

 「マリアは、こうして、救いの歴史のどの瞬間にもいる、希望の確かな証しなのです」。

 「希望の母である彼女は、闇の時、困難の時、落胆の時、表面的な崩壊の時、人間的な本当の崩壊の時ににわたしたちを支えます。わたしたちの希望であるマリアが、わたしたちの人生を天の父に喜ばれる捧げもの、わたしたちの兄弟たちにとっての喜ばしいプレゼント、未来をいつも眺めるような態度にしてくださいますように。

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