2013年4月18日木曜日

教皇、メッシ(アルゼンチン出身サッカー選手)のサイン入りシャツをもらう

バチカン4月17日10時40分(ACI/EWTNニュース)
 
教皇フランシスコ、リオネル・メッシのシャツをもらっているところ。写真提供: News.va

 一般謁見の間、司祭団の一つが教皇フランシスコにスペインのバルセロナサッカークラブのリオネル・メッシの名が入り、本人のサインのついたサッカーシャツを渡した。

 これは教皇がもらう三つ目のサッカーシャツである。一つ目はフランシスコがファンである、アルゼンチンのチーム、アルマグロのサン・ロレンソのものである。

 その後、スペイン政府の代表であるマリアノ・ラホイ氏によって渡された、スペイン代表の全選手のサイン入りシャツをもらった。

 同様に、リオネル・メッシのシャツの贈り物は、ホルヘ・ベルゴリオ枢機卿の教皇選出を公的に祝したこのアルゼンチン人選手がバルセロナのスタジアムであるカンプ・ノウでのサッカーの試合に招いた後になされた。

教皇、イランとパキスタンの地震の犠牲者たちのために祈る

バチカン4月17日10時30分(ACI/EWTNニュース)
一般謁見の終わりに、教皇フランシスコは昨日イランとパキスタンを襲い、70名近くの死者を出した震度7,8の地震のニュースに悲しみを表明し、この地震のせいで苦しんでいるすべての人に自らの寄り添いを表明した。

  わたしは、イランとパキスタンの民を襲い、死者と苦難、崩壊を引き起こした激しい地震のニュースを聞いて悲しんでいます。犠牲者と苦しんでいるすべての皆 さんのために神に祈っています。そしてイランとパキスタンの人々にわたしの寄り添いを示したいと思います」と要理の終わりに教皇は表明した。

 地震はイランの南東にある、パキスタンとアフガニスタンとの国境近くの山岳砂漠地帯のシスタン・バルチスタン州を襲った。

 しかしながら、インドでも揺れを感じた。カタルとドゥバイ(アラブ首長国連邦)でもビルから非難せざるを得なかったほどである。

一般謁見4月17日:キリストは常に悪からわたしたちを守る弁護者

謁見の要理メッセージ全文はこちら


バチカン4月17日10時00分(ACI/EWTNニュース)
水曜日の一般謁見の最中に、教皇フランシスコはキリストの昇天についての話をカバーし、サン・ピエトロ広場に集まった5万人の信者に、悪の攻撃を前にし、イエスにより頼むように、なぜならイエスこそ「いつもわたしたちを守る」弁護者であるから、と招いた。

 「昇天の間、イエスは祭司の祝福の仕草を全うします」と教皇は思い出させた。「これは最初の要点です。イエスは唯一永遠の司祭であり、その受難をもって死と墓所とを通りぬけ、復活し、天に昇って父である神と共にあり、いつまでもわたしたちの望みのために取り次いでいるのです。ヨハネがその第一の手紙で書いているように、彼は弁護者であり、父の前にあってわたしたちの代弁者なのです」と付け加えた。

 「このような言葉を聞くのは何と美しいことでしょう!裁判官が人を呼び出すとき、あるいは訴訟があった時、最初にすることは、その人を守るために弁護士を探すことです。わたしたちにはいつもわたしたちを守ってくれる人がいます。その人はわたしたちを悪の攻撃や、わたしたち自身の罪から守ってくれるのです……。この方にゆるしと祝福、あわれみを求めるためにより頼むのを恐れないようにしましょう。彼はいつでもわたしたちをゆるします。彼はわたしたちの弁護士です。わたしたちをいつでも守ってくださるのです。皆さん、このことを決して忘れないでください」と表現した。

 キリストは「登山隊の隊長のようなものです。頂上に来ると、わたしたちを引っ張って神に届くように導くのです。もしわたしたちの人生をキリストに委ねるなら、もしキリストに導かれるがままに任せるなら、うまくいくのは目に見えています」とフランシスコは確言した。

 その意味で、 イエスは「父の栄光に帰る道を」知っており、「十字架を通り、人類への愛のための神の計画への従順を通って行きます」と教皇は説明した。そして「わたしたちも、神の栄光に入るということは犠牲を伴ったとしても、わたしたちの立てたプログラムの変更を強いられたとしても、神のみ旨に日々忠実であることを条件とする神の栄光に入ることを学ぶ、ということでもあるのです」と指摘した。

 要理の間、教皇は昇天の後、使徒たちがエルサレムに「大喜びして」帰って行ったことはおかしくないと言った。 というのは信仰の目というのは「目で見ずとも理解することを理解する」からであると述べた。イエスは彼らといつまでも共に留まり、彼らを見捨てることなく、父の栄光のうちに彼らを支え、彼らを導きそのためにとりなしをするのです」と言った。

 同様に、ルカが使徒言行録の冒頭を飾るとき説明し、「この出来事は、イエスの地上での生活と教会の生活をひっかけるように結び付け、一つにする輪のようなものであることを強調したほうがいいでしょう』と述べた。

 さらに、白い衣を着た二人の男性が訪れたと述べた上で、、そこに動けないままでいるのをやめて、イエスが天に昇ったのと同様に戻ってくるだろうという確信をもって その人生と証しに糧を与えることを切望する白衣の人々について触れた。

 イエスの主権の観想からの招きについて扱っているが、イエスから、何の変哲もない毎日の福音の証しを立てるための力をいただくのである。観想し実践する、ということを。

 最後に、フランシスコは「わたしたちを待ち、わたしたちを守り」わたしたちを導く弁護士であるキリストに信頼を置くよう繰り返し呼び掛けた。そして「わたしたちと共に家庭生活や仕事の生活のなかで日々の信仰をその問題や困難、喜びや希望をもって生き、わたしたちと共に、わたしたちの弁護者であり天に昇られた、復活のキリストのうちに、神の愛の主権を世に運ぶ兄弟姉妹がたくさんいます」と述べた。

 謁見の最後に、教皇はイギリスとウェールズの司教たち、イエズス会司祭で殉教者となったポーランドの守護者であるヴァルソヴィアの聖アンドレス・ボボラの列聖75年記念のためにローマにあるその聖人の聖地巡礼をしていたポーランド人たちに挨拶をした。「彼は平和と、兄弟の和解、教会の一致のために命を捧げました。その神の前での取り次ぎが、教会に一致と平和の賜物をもたらしますように」と教皇は声を張り上げた。

こちら、謁見の終わりの挨拶の場面→http://www.youtube.com/watch?v=5efQGYsYL8w

2013年4月17日水曜日

教皇、ボストンでのテロ行為の犠牲者のためにその痛みを示し、祈る

バチカン4月16日9時42分(ACI/EWTNニュース)
Papa Francisco. Foto: ACI Prensa
 教皇フランシスコは、ボストン(合衆国)の大司教であるシーン・オマリー枢機卿に対して、昨日のボストン (マサチューセッツ)のマラソンの最中に3人(その内の一人は8歳の子供)を殺し140人にけがを負わせたテロ行為に対して悲しみを示し、犠牲者とその家 族のために神の平和と慰めを祈った。

 「昨日の午後、ボストンで遂行された暴力行為によって生じたいのちの消失と重傷のニュースを聞いて深く悲しみながら、教皇フランシスコは祈りにおける情愛と身近さを約束しています」と国務省長官のタルシシオ・ベルトーネ枢機卿が送った電報に記されている。

 電報では、「この愚かな悲劇を受けて、教皇はなくなられた方々のために神の平和を願い、苦しむ人々に慰めを、救急の仕事に参与しているすべての人に力を求めて神に祈っています」と指摘している。

 「今、この喪の時に、教皇は全ボストン市民が、悪に打ち負かされることなく、未来の世代のためにより一層正しく自由で安全な社会を建設するために力を合わせ、善によって悪と戦うようにとの決断のために一致するようにと祈っています。

 ニューヨークタイムスの情報によれば、一人の20歳のサウディ市民が容疑者として捉えられ、マサチューセツの病院で保護されているであろうとのことである。

16日朝ミサ:聖霊が第二バチカン公会議で求めたことを果たすように

朗読個所  : 使徒7・51~8・1a
           ヨハネ6・30-35

:http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31802407.html?type=folderlist


バチカン4月16日10時57分(ACI/EWTNニュース)

聖マルタの家の小聖堂で捧げられたミサの最中に、教皇フランシスコは第二バチカン公会議において聖霊が求めたことの全てはまだ果されていない、なぜなら公会議教父に神が与えた霊感に従うことよりも、大半が快適さの誘惑に身を任せることの方を好んだからである、と注意を促した。

 その説教のなかで、教皇は、聖霊はいつも「わたしたちを動かし、わたしたちを歩かせ、教会が前に向かってゆくように後押しをします」と思いださせた。しかしながら「わたしたちはご変容のときに『ここに、皆一緒にいるのは何と素晴らしいことでしょう』と言っていたペトロのようです」。

 「わたしたちの邪魔をしないでくれ。聖霊がうつらうつら眠っている方がいいんだ。聖霊を「飼いならし」たいんだ。というようなことにはどうにもなりません。なぜなら聖霊は神であり、どこから吹いてきてどこに吹いて行くか分らない風のようなものだからです。聖霊は神の力です。聖霊はわたしたちに慰めを与え、前に進み続けられるインパルス(内なる推進力)です。でも・・・でも・・・(と言わず)、前に進むのです!これがうんざりの原因です。快適な方がいいからです」と表現した。

 News.vaの情報によれば、フランシスコは今日この頃、それが続いていることを中止した。というのはたとえ聖霊の現存のおかげで「全員が満足している」ように見えても、「それは本当ではない」からである。

 「この誘惑はまだ現在進行形です。一つだけ例を挙げましょう。公会議について考えてみましょう。公会議は聖霊の美しい働きでした。教皇ヨハネ23世のことを考えてください。普通のいい主任司祭のように見えただけですが、聖霊に対して従順で、公会議を召集しました。けれど50年たって、どうでしょうか? 公会議で聖霊が語ったことすべてを行ってきたでしょうか? 公会議に見られた教会の成長の延長線上にいるでしょうか? 否ですね」。

 「この50周年記念を祝おう。大切な時としよう、けれど邪魔はしないで。わたしたちは変わりたくない。さらには、後退したがる声までが聞こえています。こういったことを頑固だ、というのです。それを、聖霊を飼い慣らそうとすること、と呼ぶのです。それを『物分かりが悪く心が鈍」くなる、と呼ぶのです」と忠告した。

 教皇は個人的な生活でも同じことが起こると指摘した。「聖霊はより福音的な道を巡り歩くようにわたしたちの後押しをします」。しかし、わたしたちが抵抗するのである。

 フランシスコは、「聖霊に反抗しないように。聖霊こそが、そのイエスの自由をもって、その神の子らであるということの自由をもって、わたしたちを解放してくださる方なのです!」

 「これこそが主にわたしたちすべてが求めるようにとわたしが望んでいる恵みです。聖霊への素直さを求めましょう。わたしたちのもとに来て、わたしたちが聖性の道を前進できるようにしてくれる聖霊を、その教会のこれほどまでに美しい聖性の道を。聖霊への従順の恵みを」と教皇は表現した。

15日朝ミサ:中傷は神のわざを阻み、憎しみから出る!教皇からの忠告

朗読個所  : 使徒言行録6・8-15
           ヨハネ6・22-29: 

http://blogs.yahoo.co.jp/therese1897/31796053.html?type=folderlist



バチカン4月15日11時53分(ACI/EWTNニュース)
教皇フランシスコは今朝の、聖マルタの家の説教のなかで、中傷の破壊的力について考えをめぐらした。教皇はこれをただの罪「よりも何かもっとひどいもの」であると捉えた。それは憎しみから生まれ神のわざを破壊することを求めているからである。

 教皇は今日の朗読個所に触れ、教会の最初の殉教者であり、福音の証しのために最高法院に連れられて行った聖ステファノの話を語りなおした。

 教皇はステファノは中傷の犠牲者であったと説明した。「偽証」をもって彼は糾弾され、「善意の人々の間での正しい戦い」は影を潜めている。なぜならその敵対者たちは汚い試合の道、「誹謗中傷の道」を取ったからである。

 誹謗中傷は罪よりもひどい、サタンの直接的な表現である、と付け加えた。「わたしたちは皆罪びとです。皆、罪を犯してしまいます。けれど中傷は種類が違います。当然それも罪ですが、罪よりもひどいものです。中傷は神のわざを破壊することを目的としており、とても悪いものから出ています。憎しみから生まれているのです。憎しみはサタンのわざです。中傷は人柄のなかで、その魂のなかで神のわざを破壊するのです」。

 「中傷のあるところには、サタンそのものがいます」と加えた。

 聖書の話に触れながら、教皇は、ステファノは自分のいのちを守るために嘘をつくようなことはしなかったことを思わせた。「ステファノは主を見、律法に従いました」と。そして教皇は、これは教会の歴史をもって起こる出来事であると捉えた。 なぜなら最初の殉教者から今日に至るまで、福音の勇気ある証しの数知れない模範が見出されるからである。

 「けれど殉教者の時代は終わっていません。実際むしろ今日、教会は今最初の数世紀よりももっと多くの殉教者に満ちているということができます。教会には多くの男女で、中傷によって名誉棄損を被った人々、迫害されている人々、イエスへの憎しみのために殺された人々、信仰への憎しみのために殺された人々がいます。要理を教えるために殺された人もいれば、十字架を使っているという理由で殺された人もいます。今日も、多くの国々で、名誉棄損を被り、迫害されています。彼らはこの殉教者の時代において今日苦しんでいるわたしたちの兄弟姉妹です」と確言した。

 教皇にとって、これは「霊性の大いなる混乱の時代」であるが、ロシアの古いイコンで聖母マリアがそのマントをもって神の民を覆っている様子を描いたイコンを思い出した。

 「わたしたちを守ってくださる聖母に願いましょう。霊的に曖昧な時代にあって、最も安全な場所は、聖母のマントのもとなのです。マリアは教会を守る母です。そしてこの殉教者の時代にあって、マリアは主役です。守護の主役なのです。マリアは母です。信仰をもって言いましょう。お母さん、教会はあなたの守護のもとにあります。教会を守ってください」。

2013年4月16日火曜日

4月14日復活節第三主日説教:神は日々の生活での証しをもって告げ知らせるようにと望まれる

朗読個所  :  使徒言行録5・27b-32、
                  40b-41
           黙示録5・11-14
           ヨハネ21・1-19
:http://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycleC/c_pasqua03sun.php#first


バチカン4月15日11時10分(ACI/EWTNニュース)
 教皇城壁外聖パウロ大聖堂にて写真提供: News.va
 教皇はローマの司教として初めて城壁外の聖パウロ大聖堂を訪れたが、その復活節第三主日ミサの説教において、教皇フランシスコは「わたしたちの日々の生活のことばと証しで」神を告げ知らせるようにと望んでおられることを信徒に対して指摘した。
 教皇は「主はわたしたちを毎日、自分に勇気と忠誠をもってついて行くようにと呼びかけます。 わたしたちに大いなる賜物を下さいました。それはわたしたちを自分の弟子として選ばれたという賜物です。復活者のように喜びをもって神を告げ知らせるようにとわたしたちを招きますが、それを日々のわたしたちの生活のことばと証しをもって行うようにと望まれます」と指摘した。

 「主は唯一です。わたしたちの人生の唯一の神なのです。そしてわたしたちが実に多くの偶像を捨て去り、ただ主のみを拝むようにとわたしたちを招きます。告げ知らせ、証しをし、拝むようにと」と教皇は強調した。

 自分の城壁外聖パウロ大聖堂への訪問に触れながら、フランシスコは「わたしたちはパウロの墓の上にいます。パウロと言えば主の大いなる使徒で、言葉をもって主を告げ知らせ、殉教をもって主の証しをし、心の限りを尽くして主を拝みました」と指摘した。

 教皇は「ペトロと使徒たちは力強く精密に、自分たちが受けたこと、イエスの福音を告げ知らせました。ではわたしたちは生活環境に神の言葉を運んでいくのにふさわしいでしょうか? わたしたちの日々の生活の一部である家族において、わたしたちに示されたキリストについて語るすべを知っているでしょうか?
 「信仰は聞くことによって生まれ、宣べ伝えることによって改めて強められるのです」と強調した。さらに教皇は、「ペトロと使徒たちのした宣言は、言葉だけによるものではなく、キリストへの忠誠がその生活に入るようにし、わたしたちが変えられるようにし、新たな指示を仰ぎ、まさにキリストについての宣言と信仰の証しをするその生き方によるものでした」と再確認した。

 イエスからペトロになされたその羊の群れを牧するようにという三回にわたる願いと「年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」という宣言は「わたしたち、司牧者に」向けられている、と教皇は言った。

 「もし神のみ旨によって連れて行かれること、しかも行きたくないところに連れて行かれることまで受け入れられないなら、またもし出し惜しみも、打算もなく、しばしばわたしたちのいのちを危機にさらしてまでの、わたしたちの献身をもってキリストの証しをする心構えがないならば、神の群れを牧することはできません」。

 教皇は「これは誰にも言えることです。福音は告げ知らされ、証しされなければなりません」と強調した。「一人一人が自問しなければなりません。自分はどのように自分の信仰をもってキリストの証しをしているだろうか?神に素直に従いながら、キリスト者としてペトロや使徒たちのように考え、決断し、生きる勇気があるだろうか?と」。

 「大きな城壁に様々な色や形の石があるように、信仰の証しが多様なのは事実ですが、どれも、目立たない者までもが重要なのです」。

 教皇は「日々の聖人というのがいます。「隠れた」聖人たちです。フランス人の作家が言っていたように、ある種「聖性の中産階級」とも言えるでしょうか。その「聖性の中産階級」にわたしたちは誰でも加わることができるのです」と指摘した。

  「けれども、世の様々な場所で、ペトロや使徒たちのように、福音が理由で苦しむ人もいます。血の値で染められた証しをもって、キリストに忠実であり続けながら、自らのいのちを捧げる人もいます」。

 教皇はまた「信徒や司牧者の、言っていることとやっていることの間のずれ、言行不一致は、教会の信ぴょう性を脅かす地雷のようなものです」と忠告した。

 神のことを告げ、証しするということは、教皇が指摘するところによると、「イエスを認識して」初めて可能になる。「なぜならイエスこそがわたしたちを呼び、わたしたちをその歩みに従って巡り歩くように招き、わたしたちを選んだ方だからです」。

 フランシスコは「イエスとの密度の高い関係、対話の成り立つ近さ、いのちの通い合う近さを生きることで、イエスを『主(主人)』であると認識することができるようになること」の必要性を説いた。

 教皇はさらに、「そこのあなたも、わたしも、皆、自問しましょう。主を礼拝していますか?願いごとをしたり感謝をしたりするためだけに神を呼び求めるのでしょうか?それとも神を礼拝するためにも神に向かっているでしょうか?」

 「しかし、では、神を礼拝するとは、何のことでしょうか?それは神と共にいることを意味します。神の現存こそが何よりも真で、善く、重要であると感じながら彼と対話をするために足を止めることを意味するのです。

 教皇は「主を礼拝するとは、主にふさわしい場を主に与えるということです。主を礼拝するということは、ただ主のみがわたしたちの人生を本当に導いておられるということを、言葉だけではなく認め、信じることです。主を礼拝するとは、主が唯一の神、わたしたちの人生の神、わたしたちの持つ歴史の神であるということを、主の前で納得することです」と説明した。
神を礼拝することには、「わたしたちの人生における結果があります。多くの偶像を自分から取り去ることです。偶像には小さいものから大きいものまであります。それはわたしたちが持っているものです。それはわたしたちが逃げ場としていること、わたしたちが求めていること、そしてしばしばわたしたちの安定をそこに求めているものです」と指摘した。

 こうした種々の偶像は、しばしばほぼわからないほどに上手に隠れ潜んでおり、「たとえば野望や、肩書きを並べること、成功の味わい、自己中心的に物事を据えること、他のあらゆるものの上にいたがる傾向、この人生の唯一の主人が自分であると振舞うこと、執着して離れられずにいる罪など、他にも多々あります」と言った。

 「この昼下がりに、一人一人その心のなかで一つの問いがこだまし、その問いに素直な心で応えられますように。『主を礼拝するのを阻む自分の生活に隠れ潜む偶像について考えたことがあるだろうか?』と。礼拝するとは、わたしたちの偶像を、最も奥深くに隠れた偶像まで合わせて手放すことであり、主を、わたしたちの人生の教えの道として中心に招くことにあります」。


【説教全文】


Queridos Hermanos y Hermanas:
Me alegra celebrar la Eucaristía con ustedes en esta Basílica. Saludo al Arcipreste, el Cardenal James Harvey, y le agradezco las palabras que me ha dirigido; junto a él, saludo y doy las gracias a las diversas instituciones que forman parte de esta Basílica, y a todos vosotros. Estamos sobre la tumba de san Pablo, un humilde y gran Apóstol del Señor, que lo ha anunciado con la palabra, ha dado testimonio de él con el martirio y lo ha adorado con todo el corazón. Estos son precisamente los tres verbos sobre los que quisiera reflexionar a la luz de la Palabra de Dios que hemos escuchado: anunciar, dar testimonio, adorar.
1. En la Primera Lectura llama la atención la fuerza de Pedro y los demás Apóstoles. Al mandato de permanecer en silencio, de no seguir enseñando en el nombre de Jesús, de no anunciar más su mensaje, ellos responden claramente: «Hay que obedecer a Dios antes que a los hombres». Y no los detiene ni siquiera el ser azotados, ultrajados y encarcelados. Pedro y los Apóstoles anuncian con audacia, con parresia, aquello que han recibido, el Evangelio de Jesús.Y nosotros, ¿somos capaces de llevar la Palabra de Dios a nuestros ambientes de vida? ¿Sabemos hablar de Cristo, de lo que representa para nosotros, en familia, con los que forman parte de nuestra vida cotidiana? La fe nace de la escucha, y se refuerza con el anuncio.
2. Pero demos un paso más: el anuncio de Pedro y de los Apóstoles no consiste sólo en palabras, sino que la fidelidad a Cristo entra en su vida, que queda transformada, recibe una nueva dirección, y es precisamente con su vida con la que dan testimonio de la fe y del anuncio de Cristo. En el Evangelio, Jesús pide a Pedro por tres veces que apaciente su grey, y que la apaciente con su amor, y le anuncia: «Cuando seas viejo, extenderás las manos, otro te ceñirá y te llevará adonde no quieras» (Jn 21,18). Esta es una palabra dirigida a nosotros, los Pastores: no se puede apacentar el rebaño de Dios si no se acepta ser llevados por la voluntad de Dios incluso donde no queremos, si no hay disponibilidad para dar testimonio de Cristo con la entrega de nosotros mismos, sin reservas, sin cálculos, a veces a costa incluso de nuestra vida. Pero esto vale para todos: el Evangelio ha de ser anunciado y testimoniado. Cada uno debería preguntarse: ¿Cómo doy yo testimonio de Cristo con mi fe? ¿Tengo el valor de Pedro y los otros Apóstoles de pensar, decidir y vivir como cristiano, obedeciendo a Dios? Es verdad que el testimonio de la fe tiene muchas formas, como en un gran mural hay variedad de colores y de matices; pero todos son importantes, incluso los que no destacan. En el gran designio de Dios, cada detalle es importante, también el pequeño y humilde testimonio tuyo y mío, también ese escondido de quien vive con sencillez su fe en lo cotidiano de las relaciones de familia, de trabajo, de amistad. Hay santos del cada día, los santos «ocultos», una especie de «clase media de la santidad», como decía un escritor francés, esa «clase media de la santidad» de la que todos podemos formar parte. Pero en diversas partes del mundo hay también quien sufre, como Pedro y los Apóstoles, a causa del Evangelio; hay quien entrega la propia vida por permanecer fiel a Cristo, con un testimonio marcado con el precio de su sangre. Recordémoslo bien todos: no se puede anunciar el Evangelio de Jesús sin el testimonio concreto de la vida. Quien nos escucha y nos ve, debe poder leer en nuestros actos eso mismo que oye en nuestros labios, y dar gloria a Dios. Me viene ahora a la memoria un consejo que San Francisco de Asís daba a sus hermanos: predicad el Evangelio y, si fuese necesario, también con las palabras. Predicar con la vida: el testimonio. La incoherencia de los fieles y los Pastores entre lo que dicen y lo que hacen, entre la palabra y el modo de vivir, mina la credibilidad de la Iglesia.
3. Pero todo esto solamente es posible si reconocemos a Jesucristo, porque es él quien nos ha llamado, nos ha invitado a recorrer su camino, nos ha elegido. Anunciar y dar testimonio es posible únicamente si estamos junto a él, justamente como Pedro, Juan y los otros discípulos estaban en torno a Jesús resucitado, como dice el pasaje del Evangelio de hoy; hay una cercanía cotidiana con él, y ellos saben muy bien quién es, lo conocen. El Evangelista subraya que «ninguno de los discípulos se atrevía a preguntarle quién era, porque sabían bien que era el Señor» (Jn 21,12). Y esto es un punto importante para nosotros: vivir una relación intensa con Jesús, una intimidad de diálogo y de vida, de tal manera que lo reconozcamos como «el Señor». ¡Adorarlo! El pasaje del Apocalipsis que hemos escuchado nos habla de la adoración: miríadas de ángeles, todas las creaturas, los vivientes, los ancianos, se postran en adoración ante el Trono de Dios y el Cordero inmolado, que es Cristo, a quien se debe alabanza, honor y gloria (cf. Ap 5,11-14). Quisiera que nos hiciéramos todos una pregunta: Tú, yo, ¿adoramos al Señor? ¿Acudimos a Dios sólo para pedir, para agradecer, o nos dirigimos a él también para adorarlo? Pero, entonces, ¿qué quiere decir adorar a Dios? Significa aprender a estar con él, a pararse a dialogar con él, sintiendo que su presencia es la más verdadera, la más buena, la más importante de todas. Cada uno de nosotros, en la propia vida, de manera consciente y tal vez a veces sin darse cuenta, tiene un orden muy preciso de las cosas consideradas más o menos importantes. Adorar al Señor quiere decir darle a él el lugar que le corresponde; adorar al Señor quiere decir afirmar, creer – pero no simplemente de palabra – que únicamente él guía verdaderamente nuestra vida; adorar al Señor quiere decir que estamos convencidos ante él de que es el único Dios, el Dios de nuestra vida, el Dios de nuestra historia.
Esto tiene una consecuencia en nuestra vida: despojarnos de tantos ídolos, pequeños o grandes, que tenemos, y en los cuales nos refugiamos, en los cuales buscamos y tantas veces ponemos nuestra seguridad. Son ídolos que a menudo mantenemos bien escondidos; pueden ser la ambición, el carrerismo, el gusto del éxito, el poner en el centro a uno mismo, la tendencia a estar por encima de los otros, la pretensión de ser los únicos amos de nuestra vida, algún pecado al que estamos apegados, y muchos otros. Esta tarde quisiera que resonase una pregunta en el corazón de cada uno, y que respondiéramos a ella con sinceridad: ¿He pensado en qué ídolo oculto tengo en mi vida que me impide adorar al Señor? Adorar es despojarse de nuestros ídolos, también de esos más recónditos, y escoger al Señor como centro, como vía maestra de nuestra vida.
Queridos hermanos y hermanas, el Señor nos llama cada día a seguirlo con valentía y fidelidad; nos ha concedido el gran don de elegirnos como discípulos suyos; nos invita a proclamarlo con gozo como el Resucitado, pero nos pide que lo hagamos con la palabra y el testimonio de nuestra vida en lo cotidiano. El Señor es el único, el único Dios de nuestra vida, y nos invita a despojarnos de tantos ídolos y a adorarle sólo a él. Anunciar, dar testimonio, adorar. Que la Santísima Virgen María y el Apóstol Pablo nos ayuden en este camino, e intercedan por nosotros.
Así sea.