2020年12月30日水曜日

使徒的書簡『父親の心で』 4.歓迎する父親



 ヨセフは前提条件をつけることなくマリアを迎え入れました。天使の言葉に信頼しました。「ヨセフはその心の貴さをもって、律法において学んだことを愛徳の下に従属させました。そして今日、女性に対する心理的暴力、言葉の暴力、身体的な暴力が明らかなこの世界の中で、ヨセフはまだあらゆる情報がないうちに、マリアの名誉、尊厳、生命によって決断する、尊重と繊細さを兼ね揃えた男性像として現れます。そして、よりよくするにはどうすればいいかとういうその疑いの中で、神は彼の判断を照らしながら選択の助けとなりました」[1]

 人生の中ではしばしば、意味が理解できないような出来事が起こります。わたしたちの最初の反応と言えば、しばしば落胆や反抗です。生じたことに対して歩を進めるために自分の理性判断を脇にやり、どれほど神秘に満ちているように思えても、これを受け入れ、責任を引き受け、自らの歴史と折り合いをつけます。もしわたしたちが自分たち自身の歴史と折り合いをつけられないなら、次の一歩に踏み出すこともできないでしょう。なぜならそのままではいつもわたしたち自身が思い描いた期待と、この結果もたらされる幻滅の囚人となってしまうでしょうから。

 ヨセフの霊的生活は、わたしたちに説明の方法ではなく、歓迎の方法を示します。この歓迎、この和解(折り合い)に端を発してのみ、より大いなる歴史、より深い意義をも感じ取ることがでるのです。どうやらヨブが、生じたあらゆる災厄に対して反抗するようにとの妻の招きを前に答えとして発した情熱的な言葉をこだまさせているかのようです。「わたしたちは、神から良いもの(幸福)をいただいたのだから、悪いもの(不幸)もいただこうではないか(Jb 2,10)

 ヨセフは、受動的に仕方なくあきらめる人ではありません。ヨセフは勇気と力に満ちた主人です。歓迎とは、聖霊からわたしたちにもたらされる剛毅の賜物がわたしたちの生活の中で示される一つの方法です。主のみがわたしたちに、人生をありのままに受け入れ、その矛盾的で予期せぬ、存在の失望の部分にも場を与える力をくださることがおできになる方なのです。

 わたしたちの間へのイエスの到来は、御父からのプレゼントであり、そうして一人一人が、すべてのことについて理解せずとも、自分自身の歴史の肉(本質)の部分と折り合いをつけることができるようにしてくれます。

 それは、神がわたしたちの見ている聖人に向かって言っていることと同じです「ヨセフ、ダビデの子、恐れることはない」(Mt 1,20)という言葉は、わたしたちにも繰り返されているかのようです。「皆さん、恐れることはありません!」と。わたしたちの怒りや失望を脇にやり、この世的な諦めなしに、希望に満ちた力をもって、自分たちが選んだわけではないけれどそこにあるものに対して場を与えなければなりません。このような形で人生を歓迎することは、私たちを隠された意義との出会いへと導きます。わたしたち一人一人の人生は、もし福音がわたしたちに語るようにそれを生きるための勇気を見出すならば、奇跡的に新たに始められるものになるのです。そしてたとば今すべてが誤った道を選んできてしまったかのように見えたり、ある問いが不可逆的に見えたとしても、それは重要ではありません。神は花を岩の間に芽生えさせることができるお方なのです。自分の良心が何かについてわたしたちを咎める時ですら、「神は、わたしたちの良心(心)よりも大きく、すべてをご存じだからです」(1 Jn 3,20)

 存在するものを一切拒まないキリスト教の現実主義が今一度回復します。現実とは、決して簡略化されうることのない複雑さのうちに、その光と闇をそなえた存在の意義を持つものです。それゆえ使徒パウロはこう断言しています。「神を愛する者たち…には、万事が益となるように貢献するということを、わたしたちは知っています」(Rm 8,28)。そして聖アウグスティヌスはこう付け加えています。「たとえ悪とわたしたちが読んでいるものですら(etiam illud quod malum dicitur)[2]。この一般的なものの見方において信仰は、幸福でも悲しくても、一つ一つの出来事に意味を与えます。

 そこで、信じるよりも考えることが良いとは、慰めるよりも簡単な解決を見出すほうが大切だということを意味しているというようなもののとらえ方は、わたしたちから遠くにあってほしいものです。他方、キリストがわたしたちに教えてくださった信仰は、聖ヨセフのうちにわたしたちが見ている信仰であり、これによってヨセフは近道を探すことなく、「目をよく見開いて」自分に生じたことに向き合い、第一人称でその責任を引き受けたのです。

 ヨセフにある歓迎の姿勢は、他の人々を、例外なく、ありのままに、弱者への優先性を持って歓迎するようにわたしたちを招いています。なぜなら、神は弱い者を選び(cf. 1 Co 1,27)、「みなしごの父となり、やもめの訴えを取り上げてくださる」方であり、他国から来た人を愛するようにと命じる方だからです[3]。わたしは、イエスがヨセフの態度を、放蕩息子といつくしみ深い父親のたとえ話のためのモデルとしたのではないかとイメージしたのではないかと思いたくなってしまいます(cf. Lc 15,11-32)



[1] Homilía en la Santa Misa con beatificaciones, Villavicencio – Colombia (8 septiembre 2017): AAS 109 (2017), 1061.

[2] Enchiridion de fide, spe et caritate, 3.11: PL 40, 236.

[3] Cf. Dt 10,19; Ex 22,20-22; Lc 10,29-37.


使徒的書簡『父親の心で』 3.聴き従う父親

 


 神はご自分の救いの計画をマリアに示した時と同様に、ヨセフにもそのご計画を啓示し、あらゆる古代の諸民族におけると同様、聖書において神が自らの意志を表明する時に使った方法の一つと考えられていた、夢見を通してこれを行いました[1]

 ヨセフはマリアの理解不能な妊娠によって大変苦悩していました。「マリアのことを表ざたにするのを」望まず、「ひそかに縁を切ろうと」決心しました(Mt 1,19)[2]。最初の夢の中で、天使は彼の重大なジレンマを解決する手助けをしました。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアに宿っている胎の子は聖霊からのものだからです(新共同訳:マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである)。マリアは男の子を産む。その子をイエス(主は救うという意味)と名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(Mt 1,20-21)。ヨセフの答えは即座になされました。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたにした」のです(Mt 1,24)。聞き従うことによってその劇的な出来事を乗り越え、マリアを救ったのです。

 二つ目の夢では、天使はヨセフにこう命じました。「起きて、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」(Mt 2,13)。ヨセフは立ち向かうことになるであろう困難について問うこともせず、疑わずに聞き従いました。「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた」(Mt 2,14-15)

 エジプトで、ヨセフは自国に戻るために天使によって約束された連絡を信頼と忍耐のうちに待ちました。そして第三の夢の中で神の使いは、幼子を殺そうとしていた者たちは死んだということを伝えた後で、起きて幼子とその母親を連れて、イスラエルの地に戻るようにと命じ(cf. Mt 2,19-20)、ヨセフは今回も、動揺せずに聞き従いました。「ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に入った(新共同訳:イスラエルの地へ帰ってきた)」。けれど帰りの旅の間に、「アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので―そしてこれが四度目の出来事でしたが―、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ」(Mt 2,22-23)

 他方、ルカ福音記者は、ヨセフが自分の出身地で登録をするために、皇帝セサル・アウグストゥスの住民調査の法律に従って、ナザレからベトレヘムへの長く快適ではない旅に取り組んだことを記述しました。そしてまさにこのような状況下でイエスは生まれ、他のすべての子どもたちと同様に、帝国に住民登録されたのでした(cf. Lc 2,1-7)

 聖ルカは、特別な仕方で、イエスの両親が律法の定めをすべて守っていたことを強調することに気を回しました。イエスの割礼の儀式と、産後のマリアの浄めの儀式、神に長子を捧げる儀式についての記述です(cf. 2,21-24)[3]

 ヨセフは、人生のあらゆる状況の中で、お告げの時のマリアやゲッセマニでのイエスのように、自分の「fiat(なれかし)」を口にすることができました。

 ヨセフは、家長という役割の中で、神の戒め(十戒)に従って、両親に対して従順であるようにとイエスに教えたことでしょう(cf. Ex 20,12)

 ナザレでの目立たない生活の中で、ヨセフの導きの下、イエスは御父のみ旨を行うことを学びました。そのみ旨はイエスの日々の糧と変容していきました(cf. Jn 4,34)。しかもその人生で最も困難だった瞬間、つまりゲッセマニにおけるその時間に、自分の気持ちよりも御父のみ旨を行うことを好み[4]、「十字架の死に至るまで…従順」になりました(Flp 2,8)。そのため、ヘブライ人への手紙の著者は、イエスが「多くの苦しみによって従順を学ばれました」(5,8)と結んでいます。

 こうしたすべての出来事は、ヨセフが「その父性の実践を通してイエスの人柄と使命に直接奉仕するために神から呼ばれた」ということを示しています。このような形でヨセフは時が満ちると、贖いの大いなる神秘に協力しますし、そして本当にヨセフは「救いの奉仕者」なのです[5]



[1] Cf. Gn 20,3; 28,12; 31,11.24; 40,8; 41,1-32; Nm 12,6; 1 Sam 3,3-10; Dn 2; 4; Jb 33,15.

[2] この場合、石打の刑に処せられることになっていた (cf. Dt 22,20-21).

[3] Cf. Lv 12,1-8; Ex 13,2.

[4] Cf. Mt 26,39; Mc 14,36; Lc 22,42.

[5] S. Juan Pablo II, Exhort. ap. Redemptoris custos (15 agosto 1989), 8: AAS 82 (1990), 14.

使徒的書簡『父親の心で』 2.やさしい父親


 

 ヨセフはイエスが「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛され」(Lc 2,52)日々成長していくのを見ました。主がイスラエルに対してなさったように、ヨセフはイエスに「歩くことを教え、腕に抱き、彼にとって子どもを自分の頬の高さまで抱き上げ、食べさせるためにみをかがめる父親のようであった」のです(cf. Os 11,3-4)

 イエスは神のやさしさをヨセフのうちに見ました。「父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる」(Sal 103,13)

 会堂(シナゴーグ)での詩編の祈りの間、ヨセフはきっと、イスラエルの神がやさしさの神であり、すべての人にとって善い方であり[1]、「そのやさしさは造られたすべてのものに及びます(新共同訳:造られたすべてのものを憐れんでくださいます)」(Sal 145,9)という声がこだまするのを聞き取ったことでしょう。

 救いの歴史はわたしたちの弱さを通して「希望するすべもない時に」(Rm 4,18)信じることで成就します。しばしばわたしたちは、神は良い部分、私たちの勝者の部分にのみ基づいていると考えがちですが、実際はそのご計画のほとんどは、私たちの弱さを通し、私たちの弱さにもかかわらず実現されるのです。これこそが聖パウロに次のように言わせることになるのです。「そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である!。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました」(2 Co 12,7-9)

 もしこれが救いの仕組み(経綸)の展望であるならば、わたしたちは、自分の弱さを、強く濃く深い優しさをもって受け止めることを学ばなければならないのです[2]

 悪はわたしたちの脆弱さをネガティブな判断で見させるのですが、他方、聖霊はこれをやさしさをもって光の下に持ってくるのです。わたしたちの中にある脆弱な部分に触れるための一番の触れ方は、やさしさです。他の人について指摘する指や批判は、しばしば自分自身の弱さや脆さを受け入れる能力不足のしるしです。「告発者」のわざからわたしたちを救えるのはやさしさだけです(cf. Ap 12,10)。このようなわけで、神の慈しみに出会うことは重要です。特に和解の秘跡の中で、真理とやさしさの体験をしながら。皮肉も、悪もわたしたちに真理を告げることができますが、その場合、それはわたしたちを罪に定めるためです。しかしながら、神からくる「真理」は、わたしたちを罪に定めることなく、わたしたちを受け入れ、抱きしめ、支え、ゆるすということを私たちは知っています。「真理」はいつもたとえ話のいつくしみ深い父親のように示されます(cf. Lc 15,11-32)。わたしたちに会うために出て来て、わたしたちの尊厳を回復し、わたしたちを改めて自分の足で立たせるようにし、わたしたちと共に祝います。なぜなら「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(v. 24)からです。

 ヨセフの苦悩を通しても、神のみ旨やその歴史、そのご計画が届きます。このようにして、神を信仰するということには、神がわたしたちの恐れや脆さ、弱さをとおしても行動することがお出来になることを信じることも含まれると、ヨセフはわたしたちに教えています。そして人生の嵐のさなかで、恐れずに神にわたしたちの舟のかじをゆずるべきであるということをも教えています。時々、わたしたちはすべて


[1] Cf. Dt 4,31; Sal 69,17; 78,38; 86,5; 111,4; 116,5; Jr 31,20.

[2] Cf. Exhort. ap. Evangelii gaudium (24 noviembre 2013), 88, 288: AAS 105 (2013), 1057, 1136-1137.


使徒的書簡『父親の心で』 1.愛された父親



 聖ヨセフの偉大さは、マリアの夫、イエスの父親であったという事実にあります。そのようなわけで、聖ヨハネ・クリゾストモが言っているように、「(ヨセフは)受肉の仕組みすべてに奉仕する形で携わるようになりました」[1]

 聖パウロ6世は、ヨセフの父性は、具体的に「その人生を、奉仕そのものにし、受肉の神秘と、それと一つになっている贖いの使命に捧げた時、聖家族の中で彼に帰する法的な権威を、自分自身や自分の生活、自分の仕事を完全な賜物とするのに利用した時、自らの人間としての家庭内の愛という召命を、自分自身とその心、自分の家に生まれた救い主に奉仕することに置かれた愛におけるあらゆる能力を超自然的な捧げものにした時に示されました」[2]

 その救いの歴史における役割があって、聖ヨセフは父親としてキリスト教国でいつも愛され続けてきました。それは全世界における数多くの教会堂がヨセフに捧げられているという事実や、多くの修道会や兄弟的共同体、教会グループがその霊性からインスピレーションを受け、その名を掲げている事実、何世紀も前から様々な聖なる催しがヨセフをたたえて祝われているという事実に示されています。多くの聖人聖女がヨセフに対して大いなる信心を抱いていました。その中でもアヴィラの聖テレサは、ヨセフを弁護者、取次手としてとらえ、ヨセフに多くのことを委ね、ヨセフにお願いしたあらゆる恵みを受けました。その経験に励まされて、聖女はほかの人々にもヨセフに対する信心を持つように説得したものでした[3]

 あらゆる祈りの本に、聖ヨセフに対する何らかの祈りが載せられています。水曜日ごとにヨセフに向けられた具体的な祈り、特に3月いっぱいの、伝統的にヨセフに捧げられた祈りがあります[4]

 聖ヨセフに対する人々の信頼は、「ヨセフのところに行きなさい」という表現にまとめられます。これは、エジプトを飢饉が襲ったときに、人々がファラオにパンを求め、彼が「ヨセフのもとに行って、ヨセフの言うとおりにせよ」(Gn 41,55)と答えたことに関連しています。このヨセフというのは、ヤコブ(イスラエル)の息子ヨセフのことです。妬みのために兄弟たちが売りに出そうとし(cf. Gn 37,11-28)、聖書の話によれば、後にエジプトの大臣になったあのヨセフです(cf. Gn 41,41-44)

 ダビデの子孫として(cf. Mt 1,16.20)、預言者ナタンによってダビデになされた約束に従えばその根(末裔)からイエスが芽を出すことになっていたわけですが(cf. 2 Sam 7)、ナザレのマリアの夫として、聖ヨセフは旧約と新約のつなぎの部品のような役割を果たしているのです。



[1] In Matth. Hom, V, 3: PG 57, 58.

[2] Homilía (19 marzo 1966): Insegnamenti di Paolo VI, IV (1966), 110.

[3] Cf. Libro de la vida, 6, 6-8.

[4] 毎日、40年以上、朝の祈りの後で、私はイエスとマリアの修道女会の、19世紀のフランスの信心本からとられた、ヨセフに対する信心や信頼、そしてある種の挑戦を表現する、次のような聖ヨセフへの祈りを唱えています。「栄光ある父祖聖ヨセフ、あなたの力によって不可能なことを可能にすることができます。この苦悩と困難の時に、私を助けに来てください。あなたに信頼するこれほどまでに重大で困難な状況をあなたの保護のもとで受け留め、よい解決をもたらしてください。私の愛するお義父さん、私はあなたに全幅の信頼を寄せます。誰にも、あなたに呼びかけるのが無駄であったと言わせないようにしてください。あなたがイエスやマリアに対してすべてのことを行うことができるのと同様に、私に、あなたの善意があなたの力のように偉大であることを示してください。アーメン。」

使徒的書簡『父親の心で』序文

 

教皇フランシスコ使徒的書簡『父親の心で』

― 聖ヨセフを普遍(カトリック)教会の保護者として宣言してから150周年を記念して



 

 父親の心で:このようにヨセフは、四つの福音書でも「ヨセフの子」と呼ばれているイエスを愛しました[1]

 その人物像を証言した二人の福音記者、マタイとルカは、少しだけれど、どのようなタイプの父親であったか、そして「摂理」が彼に託した使命(ミッション)を理解するには十分なほど言及しています。

 質素な大工であったこと(cf. Mt 13,55)、マリアと婚約していたこと(cf. Mt 1,18; Lc 1,27)、「正しい人」(Mt 1,19)、いつも神の律法に表された神のみ旨 (cf. Lc 2,22.27.39)や四つの夢見を通して示された神のみ旨(cf. Mt 1,20; 2,13.19.22)を行う心構えがある人であったことを私たちは知っています。ナザレからベトレヘムへの長く厳しい旅の後で、ほかの場所には「彼らのために場所がなかった」(Lc 2,7)ために馬小屋で救い主が生まれるのを見ました。それぞれイスラエルの民と異邦人の民の代表ともいえる羊飼いたち(cf. Lc 2,8-20)や占星術師たち(cf. Mt 2,1-12)の礼拝の場面に立ち会いました。

 イエスの法的な意味での父親となることを勇気をもって引き受け、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(Mt 1,21)と天使が示した通りの名をつけました。周知のとおり、古代の人々の習慣では、人やものに名前を付けるということは、創世記の物語の中でアダムが行ったように(cf. 2,19-20)、所有権を得ることを意味していました。

 誕生後40日たって、神殿の中で、ヨセフは、母親と共に、幼子を主のもとに連れて行き、イエスとマリアについてシメオンが口にした預言を驚きつつ耳にしました(cf. Lc 2,22-35)。イエスをヘロデ王から守るために、外国人としてエジプトにとどまりました(cf. Mt 2,13-18)。地元に帰ると、生まれ故郷のベトレヘムからも、神殿のあったエルサレムからも遠い、「預言者が一人も出たことがなく」「良いものなど何一つ出ることのできない」(cf. Jn 7,52; 1,46)ガリラヤ地方のナザレという小さく無名の村でひっそりと暮らしました。エルサレムに巡礼を行っていた時に、12歳のイエスを見失い、ヨセフとマリアは心配しながらイエスを探し、律法の専門家たちと議論をしていた最中のイエスを神殿で見つけました(cf. Lc 2,41-50)

 教皇教導職の中で、神の母マリアに次いで、その夫であるヨセフほど重要な場を占める聖人はいません。私の先任者たちは、救いの歴史の中でのヨセフが持つ中心的役割を取り上げるために、福音書を通して伝えられたわずかなデータの中に含まれているメッセージについて深く吟味しました。たとえば福者ピオ9世はヨセフを「カトリック教会の保護者」と宣言し[2]、尊者ピオ十二世は「労働者の保護者」[3]、聖ヨハネ・パウロ二世は「贖い主の庇護者」[4]と紹介しました。大衆は「良き臨終の保護者」としてヨセフに呼びかけます[5]

 そのため、福者ピオ9世が1870128日にヨセフをカトリック教科の保護者として宣言してから150年を迎えるにあたり、私は、イエスもおっしゃったとおり、「口が心にあふれていることを語る」(cf. Mt 12,34)ような形で、わたしたちの人間的な状況にこれほどまでに近い、このものすごくすばらしい人物像についての個人的な回想をいくつかみなさんと分かち合いたいと思います。この願いはこの世界規模の感染症を生きる数か月の中で育ってきました。私たちに打撃を与えている危機のさなかで、次のようなことを体験することができました。「私たちのいのちはふつうの人たち―流れの中で忘れられる人たち―によって編まれ支えられています。彼らは新聞や雑誌の一面を飾ることもなく、最新のビッグショーのランウェイに出てくることもないけれど、疑う余地なく、今日、わたしたちの歴史の決定的な出来事を書きつづっています。医者、看護士、スーパーの棚に商品を並べ直す担当者たち、清掃員、物品管理者、物品運送者、警察などの社会保安隊、ボランティア、司祭、修道者、ひとりで救われる人は誰もいないと理解した多くの、しかし実に多くの他の人々…。パニックの種をまかないように気を付け、むしろ共同責任感の種を植えるよう意識しつつ、日々忍耐を示し、希望を促す人々が実に多くいらっしゃいます。お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、先生たちで、わたしたちの子どもたちに、日々の小さなしぐさで、新しい生活習慣に適応しつつ、まなざしを上げ、祈りを促しながら、危機にどのように立ち向かいこれを乗り越えていくのかを示している人は、実にたくさんいらっしゃいますよね。実に多くの方々、すべての人の善を願って祈り、身を尽くし、取り次いでおられます」[6]。このすべての皆さんに、聖ヨセフの中で出会うことができます。目立たずに過ごす人、つつましく隠れた日々にそこにいてくれる人、困難の時の取次ぎ手、支え手、導き手。聖ヨセフは、一見隠れ、あるいは「第二線」にいるすべての人々に、救いの歴史の中で唯一無二の重要な役割があることを思い出させてくれます。そのすべての皆さんのことを、わたしは思い起こし、感謝をささげて言葉を向けたいと思います。



[1] Lc 4,22; Jn 6,42; cf. Mt 13,55; Mc 6,3.

[2] S. Rituum Congreg., Quemadmodum Deus (8 diciembre 1870): ASS 6 (1870-71), 194.

[3] Cf. Discurso a las Asociaciones cristianas de Trabajadores italianos con motivo de la Solemnidad de san José obrero (1 mayo 1955): AAS 47 (1955), 406.

[4] Exhort. ap. Redemptoris custos (15 agosto 1989): AAS 82 (1990), 5-34.

[5] Catecismo de la Iglesia Católica, 1014.

[6] Meditación en tiempos de pandemia (27 marzo 2020): L’Osservatore Romano, ed. semanal en lengua española (3 abril 2020), p. 3.

2020年2月3日月曜日

2019年2月2日(奉献生活の日)説教


今日の典礼はその民に会いに来るイエスを示します。これは出会いのパーティ、祭典です。赤子の新鮮さと神殿の伝統が出会い、約束はその成就を見いだし、青年マリアとヨセフは老人シメオンとアンナに出会う。すべてが、イエスが到着すると、決定的に出会います。

これが言わんとすることは?まず、わたしたちも、出会いに来るイエスを出迎えるように呼ばれていることです。主に出会うこと。命の神には、わたしたちの存在の続く毎日で合わなければなりません。時々じゃなくて毎日です。イエスに従うって、一度決めたらずっと確定、というんでなくて、毎日の選択なんですね。主にはバーチャルに出会うんでなくて、直接、生活、生活の具体的なことのなかで見いだすんです。でなければ、イエスは過去のすてきな思い出に留まる。でも彼を命の主、すべての中心、何にもましてドキドキの止まらない心として受け止める時、主はわたしたちの中で生き、もういちど生きる。神殿で起きたことと同じことがわたしたちにも。イエスの周りですべてが出会い、生活はハーモニーに満たされる。イエスと共に前進し続けるやる気としっかりする力を見いだすんです。主との出会いは泉です。だから、源泉回帰は大切です。わたしたちがかつてイエスと交わした決定的な出会いの記憶に戻ること。初恋の感覚を再体験すること、きっと主との愛のストーリーを文字に起こすのは良いでしょう。わたしたちの奉献生活に役立つはずです。わたしたちが過ぎゆく時になってしまわず、出会いの時、場になるために。

もしわたしたちの主との決定的な出会いを思い出すなら、それが神とわたしたちだけのプライベートなものとして生じたものではないことに気付きます。信じる民の中、多くの兄弟姉妹のただなか、指摘できる時と場所の中で生じたのです。福音は、この出会いが神の民のなかで、その具体的な歴史のなかで、生きた伝統の中にあることを示しています。神殿で、律法に従い、預言の雰囲気の中で、青年と老人が一緒に。同じことは奉献生活にも言える。これは教会の中で芽吹き、花開く。もし別々にしたら、花が散る。青年と老人が一緒に歩くとき成熟するんです。青年がその起源を見いだし、老人がその実りを受ける時です。それができないと、つまり独り歩きし、生き残るために過去にこだわったり、先に急ぐと行き詰まるのです。今日は、出会いの祭典なので、信じる民の中に生きる主を再発見し、受けたカリスマが今日の恵みを見いだせりように恵みを願いましょう。

福音はまた、神とその民との出会いには始まりと目的があると言います。神殿への招きに始まり、神殿での展望にいたります。呼びかけは二重です。最初の呼びかけは「律法に従った」ものです。ヨセフとマリアへの呼びかけで、神殿に行って、律法に記されたとおりのことを果たそうとします。歌の折り返しのように、四回も書かれています。堅苦しいものではない。イエスの両親は無理やりとか、ただ外面的に言われたことをこなしに行くのではありません。神の呼びかけに応えようとして行くのです。二つ目の呼びかけは、聖霊に従うようにという呼びかけです。シメオンとアンナがこれを体験します。これも何度も強調されます。シメオンに関しては聖霊について語られるのが3回、そして女預言者アンナも、神をたたえるためにインスピレーション、霊感を受けます。二人の青年たちが律法の呼びかけに応え、二人の老人が聖霊によって動かされて神殿に急ぎます。ダブルの呼びかけです。立法と聖霊からの呼びかけ。わたしたちの霊的生活や奉献生活にはこれは何を教えているのでしょう。わたしたちは皆、二重の従順に呼ばれているということです。律法は、つまり、生活のためのよい秩序という意味ですが、これと、聖霊、生活の中ですべてを新しくするものです。主との出会いはこうやって始まるのです。聖霊は隠されていた主を示しますが、主を受け入れるためには、日々のたゆまぬ忠実さが必要なのです。秩序ある生活なしには、どんなに大きなカリスマがあっても実りが期待できません。一方で、すばらしい規律も、聖霊の新しさが無ければ不十分です。規律と聖霊はともにあります。

今日イエスの生活の最初の日々に、つまり神殿に見る呼びかけをよりよく理解するために、イエスの公的奉仕の始まりに目を向けることができます。カナです。そこでイエスは水をワインに買えました。そこにも従順への呼びかけがあります。マリアが「この人の言う通りにしてくださいね」という時です。イエスが言うことを、です。そこでイエスは変わったことを頼みます。急に珍しいことをするのではなく、何もない所から足りないワインを生み出すのではなくて、たぶんできたかもしれませんが、具体的で大変なことを求めます。律法を思い起こさせる、清めの儀式に用いられる石のカメ、六つを満たすように言うのです。つまり、井戸から600リットルくらいの水を汲み出すことを意味します。時間も労力もかかる上に、無駄なことをしているかに見える。足りないのは水ではなく、ワインなのですから。けれど、まさにそのカメがしっかり満たされると、「ふちまで」満たされると、イエスは新しいワインを酌み出します。わたしたちにも同じことが起きます。神は具体的なことへの忠実さを通して主に出会うようにとわたしたちに呼びかけます。神というのは、いつも具体的なことの中で出会えるのです。日々の祈り、ミサ、赦しの秘跡、ほんものの愛徳、日々のみことばの黙想、心でも実際にも、助けを必要とする人の近くに行くこと。こういったことが、奉献生活では上長や規律への従順と同様に具体的なことです。もしこうした決まりが愛をもって、愛を持ってですよ、実行に移されたなら、聖霊はやってきて、神の驚くべきわざをもたらします。あの神殿や、あのカナで行われたように。日々の生活という水が、そこで新しさというワインに変化します。そして型にはめられたと感じられていた命は、実際にはもっとも自由に満ちたものになります。今、この瞬間、わたしの脳裏には一人のシスターのことが浮かんでいます。謙虚で、司祭や神学生のそばにいるカリスマを持っていた人でした。一昨日、彼女の列福のための調査がこのローマ教区で始まりました。シンプルなシスターで、目立つことも無く、けれど従順という知恵、忠実さという知恵があり、新しいことにも物おじしませんでした。主に、このベルナルデッタというシスターを通して、この道を続けられる恵みを求めましょう。

呼びかけから生まれる出会いは、展望で頂点に達します。シメオンは言います。「わたしの目は救い主を見た」。赤子を見て、救いを見るのです。奇跡を行う救済主を見るのではなく、小さな赤子を見るのです。特異なものは何も見ず、神殿に山鳩か家鳩ひとつがい、つまりつつましやかな奉納物を持って歩く両親と共にいるイエスを見るのです。シメオンは神のシンプルさを見て、その現存を受け入れます。それ以上求めず、たのみ、それ以上何も求めません。赤子を見て腕に抱くだけでいいのです。「今こそ、行かせてくださって結構です」。彼には、神はこのようなもので十分です。この神の中に人生の最終的な意味を見いだすのです。これが奉献生活の展望です。神を目の前に据え、その腕に抱かれ、それ以上求めない謙遜の中で、シンプルで預言に満ちた展望です。命は主にあり、希望も主、実りも主。奉献生活は教会におけるこの預言的な展望なのです。多くの人は気づかなくても、世におられる神を見る眼差しなのです。「神で十分、他のものは過ぎ去る」と語る声なのです。女預言者が示すように、何事があっても生み出される賛美なのです。アンナはとても高齢の女性でした。何十年もやもめとして生活していましたが、暗かったり、過去の思い出に浸ってアンニュイになったり、自分の世界に閉じこもったりする人ではありませんでした。その反対で、やってきて、神をたたえ、ひたすら神について語るのです。わたしはこの女性が「いいつぶやき」を持っていたと考えるのが好きです。悪いつぶやきではなくて。これは、わたしたちの改心のためのよい守護聖人です。なぜなら、他の人にひたすら「あの人ですよ、あの赤ちゃんですよ、行って、見てきなさい!」とのみ言っているからです。わたしは地元のおばさんのような、彼女のそういう所を見るのが好きです。

これが奉献生活です。神の民に喜びをもたらす賛美、重要なものは何かを示す預言的展望。奉献生活がそのようなものであるとき、花開き、すべての人にとって、中途半端や、霊的生活の低下、神を手玉に取ろうとしたりどうせゆるしてもらえるから、という態度をとる誘惑、居心地よく、世俗的な生活の導入、嘆きや不満やため息、神を納得させないフレーズである「できることならしますけどね」「いつもこうだった」と言う習慣、に対する訴えに変わります。奉献生活は生き残り作戦ではありません。「よい死に方のアート」を準備するものではないのです。これは召命減少を前に現在見られる誘惑です。違います、生き残り作戦ではなく、新しく生きることなのですよ。「でも、わたしたち少ないですし・・・」いえいえ、新しく生きることです。主と民との生きた出会いです。日々の忠実な従順への呼びかけです。聖霊の予期せぬ驚きへの呼びかけです。喜びを手に入れるために胸に抱くことを重要視する展望です。その喜びは、イエスです。

2019年11月15日金曜日

Pope in Japan 2019 青年との集い

 11月25日の月曜日、東京のカテドラルで午前中から昼にかけて教皇を迎える青年たちのイベントがあります。
 参加される青年の皆さん、集いの最中歌われる「主は水辺に立った」と、教皇歓迎テーマソングの「Protect All Life」、そしてパパ様退堂後におまけでやりたい「Walk in the Light」を、元気に歌えるようにして来ていただけると幸いです。
 カテドラルでの演奏版でカットや歌い方など考慮して録音した、11月17日の練習版を添付します。ちょっと音のバランスに偏りがありますし、リズムもまだ練習中というのが伝わると思いますが、雰囲気をつかんでいただければ幸いです。

https://www.youtube.com/watch?v=Awgixci1kNw
https://www.youtube.com/watch?v=4FtJZQFmYWg
https://www.youtube.com/watch?v=7PhCwMzXy40