2014年6月23日月曜日

6月12日(木)、朝ミサ説教:イエスはわたしたちに憎しみにブレーキをかけるよう意見を合わせるように勇気を求めている


 イエスはわたしたちの間での対立を乗り越えるための三つの基準を与えます。現実主義、言行一致、神の子であることです。聖マルタの家の小聖堂の今朝のミサで、パパ・フランシスコはこう語った。その中心には、イエスは弟子たちに教えていた兄弟愛がすえられた。「イエスにとって、わたしたちの間での愛はどうなければならないのでしょうか?」パパ・フランシスコは兄弟愛について主と弟子たちの間でなされた対話について語る今日の福音の箇所を中心にその説教を進めた。「イエスは、隣人を愛さなければならないけれど、言行が一致しておらず、イデオロギー主義者であった、多くのアイデアでものごとをあいまいにしていたファリサイ人のようにではなく愛さなければならない、とわたしたちに語りました。その態度は、「愛ではありませんでした」。それは「隣人に対する無関心」でした。イエスは、「三つの判断基準を与えます」。

「まず、現実主義という判断基準です。健康的な現実主義です。もしあなたに何らかの無関心があるなら、他の人に対立する何かがあってどうにも整えたり、解決を見つけたりできない時、少なくとも、協定を結んでください。まだ歩みを続けている間に、対立している相手と協定してください。理想的なことではないかもしれないけれど、協定を結ぶことはすでによいことです。これが〈現実的である〉ことです」。

 「協定する努力」など、「あまりに俗っぽいことだ」と考える人もいます。けれど実際、色々なことを乗り切るには、「協定を結ばなければならないのです。一方が一歩進み、相手方がもう一歩進み、そうやって少なくとも一種の平和があるのです。その場しのぎの平和かもしれませんが、協定のもとにある平和です」。イエスは、次のようにも言っています。「わたしたちの間で、協定を結び、ファリサイ人や律法学者やこうした人々の言う正義の基準を乗り越える能力」を身につけましょう。「人間的状況で、歩んでいるうちに、協定を結ぶような状況はたくさんあります」。「そうして憎しみやわたしたちの間でのいさかいにブレーキをかけるのです」。

 イエスがわたしたちに与える二つ目の判断基準は、「心理の判断基準です」。「人の後ろで陰口をたたくことは、人を殺すことです。なぜならその根底には同じ憎しみがあるからです」。「別の仕方で殺すのです。悪口や、誹謗、中傷で殺すのです」。そしてイエスはわたしたちに忠告しています。「人のことを『バカ』と言う人は、兄弟を殺しているのだ。その根っこには憎しみがあるからだ」と。

「そして今日、兄弟を殺害しないことがその人を殺さないことだと考えますが、そうではないのです。その人を殺さないということは、その人を侮辱しないことなのです。侮辱は犯罪と同じ根から来ています。同じ根なのです。憎しみです。もし憎まないなら、あなたは敵対者も、兄弟も殺しません。だから侮辱もしてはなりません。けれど侮辱しようとすることは、わたしたちのあいだでとても普通のことになっています。他の人に対する憎しみを表現するために、侮辱の言葉を作る能力にたけている人がいます。侮辱の花束とでも言いましょうか、それにしてもすごい才能です!けれどそれは痛いものです。言い争うこと。侮辱すること…。だめです。現実的でありましょう。現実主義の判断基準。言行一致の判断基準。殺さないこと、侮辱しないこと」。

 イエスがわたしたちに向ける三つめの判断基準は、「神の子であるという判断基準」です。「もしあなたが、もしわたしたちが、兄弟を殺さないなら、それはその兄弟とともに、同じ父を持っているからです。わたしは自分の兄弟との平和のうちにいないなら父のいるところには行けません」。「あなたの兄弟と平和のうちにいないなら、少なくとも協定を結んでいないなら、父と語るものではありません」。

「兄弟と平和のうちにいることなしに父と語らないこと。現実主義であるという判断基準、言行一致、つまり殺さず、しかし侮辱もせずにいること。なぜなら人を侮辱する人は、殺し、殺害するからです。そして神の子であるという判断基準です。兄弟と話せないのに父とは話せません。そしてこれは正義を乗り越えること、律法学者やファリサイ派の人々を超えることです。このプログラムは簡単ではありません、でしょう?けれどこれはイエスが、わたしたちの間での平和のうちに前進し続けるために指摘する歩みなのです。協定を結ぶことであっても、いつも言行一致を保ち、神の子であるという精神をもって」。 (MZ,ER – RV)

6月12日(木)、ビデオメッセージ:スポーツは平和の学び舎


 「このスポーツの祭典が、民と民の間での連帯になりますように」ブラジルでのワールドカップに合わせて、教皇はブラジルのテレビ局『Globo』のためにビデオメッセージを送り、報道された。

ビデオメッセージの教皇のことば

 愛する友達の皆さん、
 とても大きな喜びをもってこのブラジルにおける2014年ワールドカップを始めるにあたって、フットボール(サッカー)ファンの皆さん全員に言葉を向けます。企画側の皆さんと参加者、選手とファン、スタジアムとテレビやラジオ、インターネットを通して、この言語や文化、国籍の境を超えていくのを楽しみにしている皆さんに愛をこめて挨拶を送りたいと思います。
 わたしは、スポーツの祭典である以上に、このワールド企画が民と民との間の連帯の祭典となることができるようにと希望しています。このことは、しかしながら、フットボールの試合が、本質的にそうであるところのものであると捉えられることを推定しています。それは、ゲームであると同時に、対話、理解、互いに人間的に豊かにする機会である、ということです。スポーツはエンターテイメントの一形態であるだけでなく、わたしに言わせれば何よりも、人間の善を推進し、より平和で兄弟愛に満ちた社会を建設するのを助ける価値観を伝え合うための道具なのです。誠実さ、持続力、愛情、分かちあい、連帯について考えましょう。まさに、フィールドだkではなく、人生のあらゆる局面、さらに突き詰めれば平和建設において重要であることを示した多くの価値観や態度を呼び覚まします。スポーツは平和の学び舎です。わたしたちに平和を見瀬宇することを教えるのです。この意味で、わたしはスポーツの実践の三つの教えを取り上げたいと思います。「練習する」ことの必要性、「清いプレイ」、相手チームとの間での尊敬です。まず、スポーツは、勝つためには練習しなければならないことをわたしたちに教えます。このスポーツの実践は、人生の一つの類比として見ることができます。人生において、戦わなければならず、「練習し」、意味のある結果を得るために努力するべきなのです。スポーツの精神は、このようにして、人の性格を建設する諸徳において育つために必要な犠牲のイメージをわたしたちに送ります。もし一人の人がよりよくなるには厳しく継続的な「訓練」を必要とするならば、個々人と民と民とが「よりよく」対話と平和に至るために注がなければならない献身はより大きなものとなります。たくさん練習しなければならないのです…。
 フットボールは民と民との間で調和と平和に導く「出会いの文化」を作るための学び舎となりうるし、そうならなければならないのです。ここで、スポーツの二つ目の教えがわたしたちを助けてくれるでしょう。フットボールにおける「清いプレイ」がわたしたちに教えうるものを学びましょう。チームでプレイするためには、まず、自分自身のためではなく、グループの善について考えなければならないのです。勝つためには、個人主義や利己主義、あらゆる形での人種差別、不寛容と人間の道具化を乗り越えなければならないのです。そういうわけで、フットボールで「個人プレイ」に走るのは、チームの成功にとって妨げとなるのです。けれどもし人生においてわたしたちが「個人プレイ」に走ってわたしたちを取り巻く人々を無視するなら、社会全体に悪影響を及ぼすのです。
 平和建設のためにスポーツがわたしたちに教えてくれるもう一つの教えは、相手チームへの尊重の義務です。フィールド上での勝利の秘訣は、人生においてもそうですが、相手チームのメンバーも、仲間のチームのメンバーも尊重できることにあります。だれも一人で勝利するわけではありません、フィールド上でも、人生においても!だれも孤立したり除外されたりすることがないように!たとえこのワールドカップの最後にたった一つの国のチームだけが勝利者としてカップを掲げるにしても、スポーツがわたしたちに教えることを学びながら、わたしたちを結びつける絆によって強められて、全員が勝利者になるのです。
 愛する友達の皆さん、こうした言葉を皆さんに向ける機会を与えてくれてありがとうございます。特にジウマ・ルッセッフ大統領に感謝します。そして皆さん全員に満ち溢れるほどの天の祝福があるようにとわたしは祈ります。このワールドカップがたった一つの家族のメンバーとして自分を認める男女の間での相互尊重、連帯と兄弟愛からいつも、平穏と落ち着きをもって催されますように。ありがとう!
 

ER - RV

6月11日(水)、一般謁見:主への畏敬の賜物

6月8日(日)、イスラエルとパレスチナの大統領たちとの祈り




 パパ・フランシスコはこの主日にバチカンでイスラエル大統領のシモン・ペレスとパレスチナ大統領のマハモウド・アッバスと歴史的な祈りのために集うことを達成していた。フランシスコはイスラエル人たちとパレスチナ人たちに、「敵意の壁を浮き壊し、対話の道を選ぶために」「対話に対して『はい』と言い、暴力に対して『ダメ』と言える勇気」を求めた。そして近東で対立に陥った子らの記憶を訴え、新たな努力を願った。「平和を手に入れるには、戦争をするための勇気よりも、もっとずっと多くの勇気が必要です」。
 ペレスもアッバスも、自分のところの民が「熱意をもって」平和を求めるようにということで一致した見解を示した。イスラエルの大統領は「同じ者同士の間での平和」を語り、パレスチナの大統領は「わたしたちとわたしたちの隣国の人々のための平和」を訴えた。これは出会いの行為と平和をともに呼び掛けて祈るだけのことであったかもしれないが、教皇は「この出会いが、わけ隔てるものを乗り越え、一致を求める新しい歩みの初めであってほしいと望みます」と期待を示した。

教皇フランシスコの終わりの祈り

「何度も何年も、わたしたちの力を注ぎ、また武器をも使って対立を解決しようと試みてきました。敵意と闇の時がどれほど多いことでしょう。どれほどの血が流されてきたでしょう。どれほどの人生がギタギタにされてきたでしょう。どれほどの希望が摘み取られてきたことでしょう。けれどわたしたちの努力はむなしかったようです。今、主よ、あなたこそ、わたしたちを助けてください。あなたこそわたしたちに平和をお与えください。あなたこそわたしたちに平和とは何かを教えてください。わたしたちの耳を開き、わたしたちの心を開いてください。そしてわたしたちに「二度と戦争をしません!」と言う勇気を与えてください。「戦争があると、すべてが破壊される」という勇気を。平和を建設するための具体的な行為を実現させる勇気をわたしたちの心に注ぎ込んでください。主よ、アブラハムと預言者たちの神よ、わたしたちを作り、わたしたちを兄弟として生きるように呼ばれる愛の神よ、平和の製作者として日々生きるための力をお与えください。寛大さをもってこの歩みにおいて出会うすべての兄弟を見ることができるようにしてください。わたしたちの武器を平和の道具と取って代わらせ、わたしたちの恐れを信頼に変え、わたしたちの緊張をゆるしに変えるようにとわたしたちに求める市民の叫びに耳を傾けるための心構えを持てるようにしてください。わたしたちの中で、ついには平和が勝利するために対話と和解の選択肢を忍耐強い継続力をもって選び続けるための希望の炎が燃え続けるようにしてください。分裂、憎しみ、戦争といった言葉がすべての人の心から追放されますように。主よ、舌を解き、閉じた手を開かせ、心と考えを新たにし、わたしたちを人と出会わせる言葉が、いつも「兄弟」という呼びかけとなり、わたしたちの生活様式がシャローム、平和、サラームとなりますように。アーメン」
ER RV

2014年6月20日金曜日

6月9日(月)、朝ミサ説教:イエスがわたしたちに教える真福八端はキリスト者にとっての運転免許証



 聖マルタの家の小聖堂でささげられた朝ミサの説教で、教皇はイエスが真福八端においてわたしたちに教えること、空腹な者に食べさせ、のどの渇いている人に飲ませるということを強調した。この月曜日は、バチカンの庭園で祝われた「平和のための呼びかけ」という歴史的な発意の翌日である。そこで、「世間で習慣的に行われる」ことの流れに逆らっていく、いのちのプログラム、キリスト者のアイデンティティをイエスが指摘していることを示しながら。貧しい人々は幸福、幸いである。いま一度、パパは心が満たされていると、あまりに満足すぎて神のことばのための場がもはやなくなることを思い出させた。泣く人は幸い、慰められるから。

「けれど世間はわたしたちに言います。喜びとか、幸福、娯楽、それこそが生きていて素敵なことだ、と。そして家族に病気の問題や痛みの問題があるとき、無視し、そっぽを向くのです。世間は泣きたがらず、痛みのある状況を無視し、これを覆い隠すことを好むのです。物事をあるがままに見、その心で泣く人だけが幸せなのです。なぜなら慰められるからです。イエスの慰めであって、世の慰めではありません。最初から戦争の世、あらゆるところで 喧嘩が起こり、あらゆるところに憎しみのあるこの世界で柔和な人々は幸いです。そしてイエスは言います。戦争はいらない。憎しみはいらない。平和と柔和が必要なのだ、と」。

 もし自分が人生において柔和であるなら、人々は自分のことを愚かだと思うでしょう。思いたいように思わせておけばいいのです。柔和な人は血を受け継ぐのです。正義に関する飢えと渇きのある人は幸いです。なぜなら満たされるからです。不正が、本当に多くの不正があります。それは汚職の産物です。それは汚職の親友、何にもまして取引を優先させる政治の親友なのです。そしてイエスはこうした不正に対抗する人々は幸いであると思い起こさせるのです。あわれみ深い人々は幸いです。他の人々の過ちに理解を示す人々のことです。イエスは復讐する人が幸せだとはわたしたちには言いません。

「ゆるす人、あわれみ深い人たちは幸いです。なぜならわたしたちは皆、ゆるされたものの軍団だからです!そのためそのゆるしの道を行く人は幸いなのです。清く、シンプルな心、悪いなく清い心、それほどまで美しいその清さをもって愛することのできる心を持った人々は幸いです。平和のために働く人々は幸いである。それにしてもわたしたちの間で、戦争のために働く人々、あるいは少なくとも勘違いのために働く人々はあまりに普通になっています!このことで何か聞いたら、自分は出かけ、尾ひれのついた形でこれを言う…。噂話の世界です。こうしたうわさ好きの人々は平和のために働きません。平和の敵なのです。彼らは幸いな人ではないのです」。

 イエスは真福八端をわたしたちに示し、またわたしたちに他の指示も与えます。それは福音書の25章に見出すものです。「わたしがおなかがすいていた時、あなたたちはわたしに食べさせてくれた。のどが渇いていた時に、飲ませてくれた。とおりすがったとき、私を止めてくれた。裸の時、わたしに着せてくれた。病気の時、わたしを訪れてくれた。刑務所に捕えられていた時、わたしを見に来てくれた」。

「言葉数を少なくし、シンプルだけれどすべての人に実践的な言葉を。なぜならキリスト教は実践的な宗教だからです。言葉について考えるためではなく、実践するための宗教なのです。今日、もし家で少し時間があるなら、福音書を手にし、マタイ福音書を開き、こうした真福八端の冒頭である第五章ともう一つ第25章を開いてみてください。これを、一回、二回、三回、と読むことは皆さんの益になるでしょう。主がわたしたちにこの主のメッセージを理解する恵みをくださいますように!」

(CdM - RV)

6月8日(月)、聖霊降臨祭説教:聖霊はわたしたちに教え、思い出させ、語らせる


「一同は聖霊に満たされた」(使徒言行録2章4節)

 最後の晩餐のときに使徒たちに語りながら、イエスは、この世から離れた後、父からの賜物、つまり聖霊を彼らに送ると語りました(ヨハネ15章26節参照)。この約束は五旬祭の日に、晩餐の部屋に集まっていた弟子たちの上に聖霊が降ったとき、力強く実現されます。 あの曽々木は、尋常ならざるものではありましたが、その時だけに限られたものにはとどまらず、改めて生じたイベントとなり、まだ刷新されます。父の右で栄光に挙げられたキリストは、その約束を実現し続けており、教会に人や物を活かす聖霊を送り、わたしたちを教え、わたしたちに思い出させ、わたしたちに語らせます。

 聖霊はわたしたちに教える。聖霊は内なる教師です。わたしたちを、人生の様々な状況を通して正しい道に導くのです。聖霊はわたしたちに道を教えます。教会の最初期には、キリスト教は「道」と呼ばれていました(使徒言行録9章2節参照)。そしてイエスご自身が道なのです。聖霊はわたしたちにイエスに従い、その足跡の上を歩むように教えます。聖霊は、教義に関する教師よりも偉大です。いのちの教師なのです。そして確かにいのちにおいては知ること、知り合うこともその一部をなします。けれどキリスト教の存在のより広くより調和に満ちた地平の中でです。

 聖霊はわたしたちに思い出させる。イエスが仰せになったことをすべてわたしたちに思い出させてくれます。聖霊は教会の生きた記憶なのです。そしてわたしたちに思い出させながら、わたしたちが主のみことばを理解できるようにしてくれるのです。


 この聖霊において、聖霊のおかげで思い出すということは、単なる思い出程度のものに狭められるものではなりません。これはわたしたちと教会におけるキリストの現存の本質的局面です。真理と愛徳の霊はキリストがおっしゃったことすべてを思い出させ、その言葉の意味のうちにわたしたちがますますより完全に入って行けるようにしてくれるのです。わたしたちはだれもがその体験を持っています。ある瞬間、ある状況で、ある考えがやってきて、これが一つになり、聖書のある部分と関連付けられるのです。これが教会の生きた記憶の道なのです。このことはわたしたちに一つの応答を求めます。わたしたちの応答が寛大であればあるほど、わたしたちのなかでイエスの言葉は態度になり、選択になり、仕草になり、あかしになりしながら生きたものとなっていくのです。本質において、聖霊はわたしたちに愛の掟を思い出させ、わたしたちがその愛を生きるようにと呼び掛けるのです。


 記憶のないキリスト者はほんもののキリスト者ではありません。それは道の半ばにあるキリスト者であり、その歴史を宝として蓄えることもなく、救いの歴史としてこれを読み、生きることも知らない、瞬間の捕虜となった男女なのです。一方、聖霊の助けによって、うちなるインスピレーションと人生の出来事をイエスの言葉に照らして解釈することができるのです。そのようにして、わたしたちの中で、聖霊の賜物である記憶の知恵、心の知恵が育つのです。聖霊がわたしたち全員の中でキリスト者の記憶を再燃させてくれますように!

 あの日、使徒たちとともに、記憶をとどめていた女性がいました。最初の時からそうしたことをすべてその心に思いめぐらしていた人です。その母マリアにこの記憶の歩みにおいてわたしたちを助けてくれるように祈り求めましょう。

 聖霊はわたしたちに教え、わたしたちに思い出させますが、もう一つの局面があります。わたしたちに語らせるのです。神と、人々と語らせるのです。口のきけないキリスト者はいないのですよ、いいですか! そういう場所はないのです。祈りにおいてわたしたちを神と語らせます。祈りは無償でいただいた賜物です。祈りは、わたしたちの中で祈り、わたしたちが神のことを御父のことをパパ、アッバと呼びながら神に向かうことを許してくれる聖霊のうちに(ローマ8章15節、ガラテヤ4章4節参照)、イエスとなされる対話です。そしてこれは単なる「言い方」ではなく、現実なのです。わたしたちは本当に神の子なのです。「神の霊によって導かれるものは皆、神の子なのです」(ローマ8章14節)。

 聖霊はわたしたちに信仰の行為において語らせます。今日聞いたように、聖霊なしにはイエスを主であるということはだれにもできないのです。

 聖霊はわたしたちが兄弟愛に満ちた対話のうちに人々と語るようにします。他者を兄弟姉妹であると認めながら、友情をもって、やさしさをもって、その苦悩や希望、悲しみや喜びを理解しながら、わたしたちが彼らと語るのを助けてくれます。

 けれどまだあります。聖霊はわたしたちが人びとに預言において語るようにするのです。つまり、わたしたちを神のことばの謙虚で素直な「管」にしながら語るようにするのです。預言は矛盾と不正を公に示すために包み隠さず、しかし素直さと建設的な意向をもってなされるものです。愛の霊が浸透して、わたしたちは愛し、奉仕し、いのちを与える神のしるしと道具となることができるのです。

 まとめましょう。聖霊は道を教えます。わたしたちにイエスの言葉を思い出させ、説明します。わたしたちが祈れるようにし、神を父と呼ぶようにします。わたしたちに兄弟愛に満ちた対話と預言のうちに人々に語らせます。

 五旬祭の日に、弟子たちが「霊に満たされ」た時、それは教会の洗礼の時でした。そこで「出向いて行く」教会、よい知らせをすべての人に告げ知らせる「出発する」教会が生まれたのです。イエスは使徒たちに遅延を許しませんでした。時を移さず出発したわたしたちの母を思い出しましょう。母なる教会と母マリアです。二人のおとめ、二人の母、二人の婦人たちを。

 イエスは使徒たちに遅延を許しませんでした。高みから聖霊の力を受けるまではエルサレムから離れてはなりませんでした(使徒言行録1章4節、8節)。聖霊がいなければ宣教の使命は存在せず、福音化は存在しません。

 このため全教会とともに、わたしたちの母なる教会とともに、全員で、呼び掛けましょう。来てください、聖霊!

(Traducción de Raúl Cabrera - RV).

2014年6月6日金曜日

6月6日(金)朝ミサ説教:司祭たちがイエスが「初恋」のようなものの相手であることを忘れないようにことを


 牧者たちが、勉強家である以前に、自分の「初恋の相手」であるキリストのことを決して忘れないように。そしてその後をついていくことにいつも留まるように。聖マルタの家の小聖堂での朝ミサ中パパ・フランシスコの説教の概要である。

 「初恋はどうなっているでしょうか?」つまり、自分は最初の日のようにあなたにほれ込んでいるだろうか?じぶんはあなたと一緒にいて幸せか、それともあなたのことを無視しているのか?これは頻繁にしなければならない誰にでも必要な問いです。そして結婚相手同志だけではなく、司祭たちや司教たちもイエスに対してしなければならない問いです。なぜならそれはある日ペトロになされたような問いだからです。「シモン、ヨハネの子よ、わたしを愛しているか?」まさに教皇はその説教をこの福音に紹介されている対話から始めた。そこではキリストが第一の使徒に三回問いかけている。他の人々よりも自分のことを愛しているか、と。そして教皇はこれは「初恋、初心」に彼を連れ帰る方法であると語った。

「こうした問いを自分に対して、またわたしの兄弟である司教たちと司祭たちに対してします。今日の愛はどうなっているだろうか。イエスの愛はどうか、でしょう?それは初心と同じでしょうか?最初の日のようにイエスに惚れ込んでいるでしょうか?それとも仕事や、心配事の数々が自分の目を他ごとに向けさせ、少し愛を忘れさせているでしょうか?いやしかし夫婦の喧嘩すること。よくケンカします。そしてそれは普通なのです。けれど愛がなければ喧嘩をしません。崩壊するのです」。

 「絶対に最初の愛を忘れてはいけません。絶対に」。パパ・フランシスコはこう確認してから、司祭とイエスとの対話関係において留意しなければならない他の三つの局面を取り上げた。なによりも、哲学や神学、教父学の知性は、まさにイエスがペトロに「わたしの羊たちを牧しなさい」といった時に願ったように、「牧者」でなければなりません。「残りは、その後についてきます」。

「牧しなさい。神学をもって、哲学をもって、教父学をもって、あなたが勉強することをもって、しかし牧しなさい。牧者でありなさい。なぜなら主はわたしたちをこのために呼んだからです。そしてわたしたちの頭に置かれた司教の両手は牧者になるためだったのです。それは二つ目の問いでしょう?一つ目は『最初の愛はどうなっているだろうか』でしたよね。二つ目はこれです。『わたしは牧者でしょうか、それとも教会と呼ばれるこのNGOの従業員でしょうか?そこには一つの違いがあります。自分は牧者だろうか?わたしがしなければならず、司教たちがしなければならず、司祭たちも、全員しなければならない問いです。牧しなさい。司牧をしなさい。前進しなさい」。イエスにささげられた牧者には「栄光」も「主権」もありません。「ありませんよ、兄弟。ごく普通の仕方で終わるでしょう。何度も、もっと辱められることもあるでしょう。屋根の下で、食べさせてもらったり、着なければならない服があったりするでしょう…。けれど役に立たず、そこで、病気になる…]その先行きは「イエスが終わったように終わることです」。「麦の種のように」死に、「その後で実りが訪れるような愛。けれど自分はそれを見ないでしょう」。結局、四つの局面は「最も強い言葉」です。その言葉でイエスはペトロとのその対話を結ぶのです。「わたしに従いなさい」と。

「もしわたしたちが方向付けを失ったり愛についてどう答えればよいかわからないのなら、この牧者としてあることについてどう答えてよいかもわかりません。どう答えてよいかもわからず、主がわたしたちを、人生の最悪の時期や病気においてですら、わたしたちを一人ぼっちにしないという確信をも持たないでしょう。イエスは言います。『わたしに従いなさい』。これこそがわたしたちの確実さなのです。イエスの足跡の上を生きながら。その歩みの中で。『わたしに従いなさい』」。

 わたしたち、司祭たちも司教たちも全員に、主が「最初の愛、牧者であること、病床をも含め、痴ほう症になったりしても、辱められて終わることを恥としないようにしてくださいますように。そしていつもわたしたちにイエスの後を行き、イエスの足跡の上を行くことができる恵み、イエスに従う恵みを与えてくださいますように」。


(María Fernanda Bernasconi – RV).

6月6日(金):教皇、日本の首相を迎える。


 教皇は今朝、使徒座宮殿の謁見で日本の首相、安倍晋三氏を迎えた。安倍総理はその後で国家間関係のための秘書であるドミニク・マンベルティ卿に伴われたドミニク・マンベルティ大司教と出会った。心のこもった雰囲気の中で続けられた会話の間、教育、社会、医療環境における教会と国との間の理解と協力と同様に日本と成長との間の良い関係を確認した。続けて地域の現実や国際的な現実のテーマ、特に平和を推進するために進められているイニシアティブやアジアの大陸における安定、特にアフリカにおける発展のための協力における日本の努力、自然環境の保護と核の解除についてのテーマが再考された。

(RC-RV)

6月5日(木)朝ミサ説教:教会は、半分そこにいて半分外にいられるような貸家ではない


 教会は「厳格ではなく」、教会は「自由である」。聖マルタの家での朝ミサ中説教でパパ・フランシスコはこう強調した。教皇は自分をキリスト者であると予防とする三種類の人について注意を促した。「画一性」を求める人々、「代用」を求めようとする人々、そして「損得勘定」をする人々である。こうした人々にとって、「教会は自分の家ではなく、貸家」としてとらえられているのである。

 イエスは教会のために祈り、御父に、自分の弟子たちの間に「分裂も喧嘩もないように」求める。パパはこの日の福音から、まさに教会の一致について留まるために霊感を受けた。「自分は教会にいると言っている」けれど「片方の足は中にあって」もう片方の足はまだ外にあるような人が「大勢います」。そうして「両方の場所、中と外にいる可能性を残しておくのです」。「こうした人にとっては、教会は自分の家ではありません。自分のところとは感じられないのです。彼らにとっては教会は貸家なのです」。

 そうして「教会を借りて、自分の家とは考えないグループもある」と確言した。教皇はこうしたキリスト者の三グループを並べ立てた。一つ目は、「教会においてすべての人が全く同じであることを求める人々です」。すこし冗談を交えながら、フランシスコは言った。「イタリア語を少し殉教させるなら、こうした人たちをユニフォームにすると定義できるでしょう」。

「画一性。厳格さ。そうした人たちは厳格です!聖霊が与えるその自由を持っていません。そうして福音においてイエスが継げていたこととその自分の教義、自分の画一の教義との間に混乱を招くのです。けれどイエスは決してその教会がそれほどまで厳格であるようにとは望みませんでした。決して。そしてこうした人たちは、そうした態度によって、教会に入らないのです。キリスト者だとは自称していて、カトリックだと自称しているけれど、その厳格な態度が教会から自分を遠くするのです」。

 他のグループは、いつも自分の独自の考えを持っている人々から成っています。「彼らはそれが教会が言っているようなアイデアを求めず、代用のを持っているのです」。彼らは「とっかえひっかえする人たち」なのです。

「自分は教会に入るけれど、この考えをもって、このイデオロギーをもって入ります。そうしてその教会への帰属は部分的になります。こうした人たちも片足は教会の外にあるのです。こうした人たちにとっても教会は自分の家ではない、自分たちのものではないのです。ある限られた時に教会を借りるのです。福音の宣教活動の初めにこうしたことがありましたよ!使徒ヨハネがあれほど強くたたいている不可知論者たちのことを考えましょう。でしょう?『わたしたちは…そう、そう、わたしたちはカトリックですよ、でも、この考え方においてはですよ』 。代用品として。教会独自のものとしてのその感覚を分かち合わないのです」。

 三つめのグループは「自分はキリスト者だと言っているけれど、心から教会に入らない』人たちのことです。彼らは「損得勘定」の人たちです。「損得を勘定して得を求める」ひとたちは「今日秋に行くけれど、個人的に得になる場合であって、教会で取引をして終わるのです」。

「投機家たち。わたしたちはそういう人たちをよく知っています!けれど初めのころからいたのです。魔術師シモン、アナニア、サフィラのことを考えましょう。こうした人たちは教会を自分の徳になることのために利用していたのです。そして小教区共同体や教区共同体、修道会、教会に貢献した人たちにもわたしたちは見てきています。大勢いますよね!まさに教会に貢献していると代言壮語して、最終的には、テーブルの裏では自分の取引をするのです。そしてこうした人たちも教会を母として、自分のものとしては感じていないのです。イエスはこう言うでしょう。『違う!教会は厳格ではない、教会はたった一つだ、教会は自由な場だ』と。

 教会に、「たくさんのカリスマがあり、多種多様な人々がいて、多種多様な例の賜物があります」。主はわたしたちにこう言います。「教会に入りたいなら、愛のためにしなさい」。「心を尽くして、自分の利益に関する取引をするためではなく入りなさい」。教会は「貸家ではないのです」。教会は「そこで生活するための家」、「自分の母親のようなもの」なのです。

 これは簡単ではありません。なぜなら「誘惑はたくさんあるからです」。けれど教会において一致、「多様性における一致、自由における一致、寛大さにおける一致」をつくり出すのは「ただ聖霊だけなのです」。なぜなら「これがその務めだからです」。聖霊は「教会において調和を生み出します。教会における一致はハーモニー〈調和〉です。わたしたちは皆「多種多様です。みな同じではありません、有難いことに」。そうでなければ「地獄でしょう!」そして「わたしたちのだれもが聖霊に対して従順であるように呼ばれているのです」。まさにこの素直さが「教会において厳格になることや『代用的』になること、『投機家』になることからわたしたちを救ってくれる徳なのです。聖霊に対する素直さです」。そしてまさに「この素直さが教会を貸家から自分の家へと変えるのです」。

「主が、わたしたちに聖霊を送り、わたしたちの共同体、小教区や教区共同体、諸運動の共同体においてこのハーモニーを作ってくれますように。このハーモニーを作ってくれるのは聖霊でありますように。なぜなら教会のある恐怖が言っていたように、聖霊は、それ自身、ハーモニーなのです」。



(María Fernanda Bernasconi – RV).

6月4日(水)一般謁見:孝愛の賜物

6月3日(火)朝ミサ説教:イエスは御父に自分の傷口を見せつつ我々のために祈る


 イエスはわたしたち一人一人のために、自分の傷を御父に見せながら祈る。これが聖マルタの家の小聖堂でささげられた朝ミサの間の説教でパパ・フランシスコが引いた強い箇所の一つである。教皇はイエスがわたしたちを、たとえ悪いことがあっても、多くの罪を犯していたとしてもわたしたちを擁護する弁護者である、と強調した。

 いえすの告別、聖パウロの告別。この日の朗読箇所はパパに取次の祈りについて留まる機会となった。パウロがミレトスを去るとき、みな悲しかった。それはイエスが「ゲッセマニに行って受難の始まりに乗り出す」前の告別説教を口にしたときに弟子たちにも起きたことであった。主は彼らを慰め、「わたしたちに考えさせるイエスの告別の短いフレーズがあります」。イエスは「御父と語りこう言います。『彼らのためにお願いします』。イエスはわたしたちのために祈ります」。ペトロのため、また墓の前でラザロのために祈ったように祈ってくれるのです。イエスはわたしたちに言います。「あなたたちはみな御父のもの。わたしはあなたたちのために御父の前で祈ります」。イエスは世界のためというのではなく、「わたしたちのために祈る、その教会のために祈る」のです。

 使徒ヨハネは、こうしたことを考えながら、そしてあまりに罪びとであるわたしたちについて語りながら言います。「罪を犯してはなりません。しかしもしあなたたちの中で誰かが罪を犯すならば、御父の前に一人の弁護者がいることを知りなさい。わたしたちのために祈り、御父の前でわたしたちを弁護し、わたしたちを義としてくれている一人の人が。思うにわたしたちはこの真理、この現実についてたくさん考えなければならないでしょう。この瞬間に、イエスがわたしのために祈ってくれている、という。わたしは人生において前進して行ける。なぜなら私を擁護してくれる弁護者がいるからで、もしわたしに非があるなら、それにしてもたくさん罪があるんですよ、でしょう!良い擁護者弁護者がいて、この方が、わたしのために御父に話してくれるのです。

 主は最初の弁護者で、その後でパラクリトス(聖霊)を送ります。そしてわたしたちが小教区で、家で、家族で「何かが必要になったら、何かの問題があったら」、イエスにわたしたちのために祈ってくれるように求めなければならないのです。「そして今日、イエスはどのように祈っているでしょう?わたしは御父とあまり話さないのではないかと思います」。

「話しません。愛するのです。けれどイエスが供する一つのことがあります。わたしはそれをしていると確信しています。イエスは御父に自分の傷を見せています。そしてイエスは、その傷をもって、わたしたちのために祈ります。まるで「けれど、父よ、これがこの人々に払った大小です。でしょ?彼らを助けてください。守ってください。彼らはわたしがこれで、救ったあなたの子らです」と御父に言っているかのようです。そうでなければ、なぜイエスが、復活の後、この栄光に満ちた、最高に美しい体を望んだのか、青あざもなく、むち打ちの傷もなく、すべて美しい…しかし…傷跡があった、五つの傷があったその体を望まれたのか。なぜイエスは体にその傷を負い続けることを望んだのか?なぜでしょう?わたしたちのために祈るためです。御父に代価を見せるためです。『これが代価です。今、彼らを一人ぼっちにしないでください。彼らを助けてください」。

 わたしたちはこの信仰を持たなければなりません。イエスが、「この瞬間に、わたしたちのため、わたしたち一人一人のために御父の前で取り次いでいることを信じること」。そしてわたしたちが祈るとき、わたしたちはイエスにわたしたちのために祈ってくれるようにと求めるのを忘れてはならないのです。

「『イエス、わたしのために祈ってください。あなたの傷口を、それはわたしがつけた傷、わたしの罪の傷でもあるのですが、その傷口を御父に見せてください。これはこの瞬間ある私の問題の傷です』。取り次ぎ手であるイエスは、御父にその傷を見せるだけです。そしてこれは今日も、この瞬間にも起こっているのです。イエスがペトロに言った言葉を見ましょう。「ペトロ、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」。

 「イエスがこれをわたしたち一人一人のためにしているのだということに確信を持ちましょう。わたしたちは「御父の前でその傷をもってイエスがしているこの祈りに」信頼を持たなければならないのです。
(María Fernanda Bernasconi – RV).

6月2日(月)朝ミサ説教:キリスト者の婚姻は忠実で、忍耐強く、実りをもたらすもの


 忠実で、根気よく、実りをもたらす、これはイエスがその妻である教会に抱いている愛の三つの特徴である。そしてこれはほんもののキリスト者の婚姻の特徴でもある。パパ・フランシスコは聖マルタの家の小聖堂でささげらえれた朝ミサの説教でこのように語った。

 25周年、50周年、60周年前に婚姻と家族のそれぞれのストーリーをもって15組くらいの夫婦が目標の到達について神に感謝するために教皇と祭壇前で出会った。信仰の目から、夫婦の愛が保たなければならない三つの柱について思いめぐらす機会を教皇に提供した、聖マルタの家の小聖堂のための珍しい光景である。三つの柱とは、忠実、根気良さ、実りをもたらす力である。

 言及しているモデルは、「イエスの三つの愛です」。御父に対する愛、御母に対する愛、教会に対する愛です。この最後のもの(教会)に対するイエスの愛は「偉大」です。「イエスは愛のために教会と契りを結びました」。教会は「イエスの妻」です。美しく、聖で、罪のある妻ですが、これをイエスは同様に愛するのです」。その教会を愛する愛しかたをもって、イエスはこの愛に三つの特徴を示すのです。

「それは忠実な愛です。それは根気の良い愛です。自分の教会を愛すのに決して疲れません。それは実りをもたらす愛です。それは忠実な愛です!イエスは忠実な方の代名詞です!聖パウロは、その手紙の一つでこう言っています。「イエスを告白するなら、イエスはおんちちの前であなたを告白します。もしキリストを否むなら、キリストもあなたを否まれます。もしあなたがキリストに忠実でないなら、キリストは忠実であり続けます。なぜなら自らを偽ることができないからです!忠実さはまさにイエスの愛の在り方です。そしてイエスの教会における愛は忠実です。この忠実さは婚姻についてまるで光のようなものです。愛の忠実さ。いつも」。

 いつでも忠実、けれどいつもその根気良さにおいて疲れ知らずです。まさにイエスの愛がその妻に対する愛であるように。

「結婚生活は根気がなければなりません。根気良くなければならないのです。なぜならその反対であれば、愛は前進できないからです。美しいときにも、困難な時、問題があるとき、子どもたちとの問題、経済的問題、ここでの問題、あそこでの問題があるときの、愛の根気良さ。けれど愛は家族を救うために粘り、前進し、いつも物事を解決しようとします。根気良さ。男性と女性は毎朝起き上がり、家族を前進させます」。

 三つめの特徴である実りをもたらす力に言及すると、イエスの愛は「新しい子ら、洗礼をもって教会を実りあるものにします。そして教会はこの婚姻の多産力をもって成長します」。婚姻においてこの実りをもたらす力は、子どもたちを授かれなかったり、病気だったりするとき、しばしば試されます。こうした試練において、「イエスを見てイエスがその教会において持っている実りをもたらす力を得るのです」。一方、そうでなければ、「イエスの好まないことがあります」。つまり選択的に婚姻を不毛にしてしまうことです。

「こうした夫婦は子供を求めません。実りをもたらす力なくとどまることを望みます。十年間来の良い暮らしのこの文化はわたしたちを納得させてきました。『子供を持たない方がいい!その方がいい!そうしてあなたは休暇に出かけて世界のことを知り、農地に家を持つことができ、落ち着いていられるのです』・・・けれどおそらく、一匹の子犬と二匹の猫を持った方が、もっと居心地がいい、より良いのです。そしてその愛は二匹の猫と一匹の犬に向かいます。「どうでしょう?これは本当でしょうか、違いますか?皆さんはこれを見てきましたか?最後に、この婚姻は孤独のうちに、悪い孤独の嘆きをもって年寄りになります。不毛になり、イエスがその教会に行うこと、つまりこれを実りをもたらす能力のあるものにすることをしません」。

(María Fernanda Bernasconi – RV).

6月1日(日)アレルヤの祈り:主の昇天

6月1日(日)第48回世界広報の日メッセージ

(未翻訳)5月30日(金)朝ミサ説教:キリスト者の生活はパーティではなく、「希望のうちにある喜び」


 「その悲しみは喜びに変わるだろう」。このイエスの弟子たちに対する約束が、パパ・フランシスコの聖マルタの家の小聖堂でささげられた朝ミサ説教の中心となった。教皇は買うことはできず、ただ主の賜物として受けるしかないキリスト者の喜びへの頌歌のように語った。キリスト者たちの喜びは、「希望における喜びです」。

 聖パウロはとても勇気がありました。なぜなら主の力を持っていたからです。パパ・フランシスコはその説教をこの証明から始めた。キリスト者の喜びに中心を置きながら。確かに、使徒も人々に恐れを抱いたこともありました。「少し恐れを抱くというのは、わたしたちにも生きていると誰にでも起こることです」。

poco de miedo”. Y nos preguntamos – dijo el Papa – si “no sería mejor bajar un poco el nivel y no ser tan cristianos y buscar un compromiso con el mundo”. Pero Pablo – prosiguió – sabía que cuanto “él hacía no les gustaba a los judíos ni a los paganos”, pero no se detiene y por eso debe soportar problemas y persecuciones. Y esto – agregó Francisco – “nos hace pensar en nuestros miedos, en nuestros temores”. A la vez que recordó que también Jesús en el Getsemaní tuvo miedo y angustia. Mientras en su despedida dice claramente a sus discípulos que el “mundo se alegrará” por sus sufrimientos, como sucederá con los primeros mártires en el Coliseo:

“Y nosotros debemos decirnos la verdad: no toda la vida cristiana es una fiesta. ¡No toda! Se llora, tantas veces se llora. Cuando estás enfermo; cuando tienes un problema en tu familia con un hijo, con una hija, la esposa, el marido; cuando ves que el sueldo no alcanza hasta fin de mes y tienes un hijo enfermo; cuando ves que no puedes pagar la cuota del crédito inmobiliario de la casa y se deben ir… Tantos problemas, tantos que nosotros tenemos. Pero Jesús nos dice: ‘¡No tengas miedo!’. ‘Sí, estarán tristes, llorarán y también la gente se alegrará, la gente que está contra ti’”.
“También hay otra tristeza – prosiguió el Papa –: la tristeza que nos llega a todos nosotros cuando vamos por un camino que no es bueno”. Cuando, “por decirlo sencillamente”, “vamos a comprar la alegría, la alegría, esa del mundo, esa del pecado, al final hay un vacío dentro de nosotros, hay tristeza”. Y ésta – reafirmó – “es la tristeza de la mala alegría”. La alegría cristiana, en cambio, “es alegría en esperanza, que llega”:

“Pero en el momento de la prueba nosotros no la vemos. Es una alegría que es purificada por las pruebas y también por las pruebas de todos los días: ‘Su tristeza se cambiará en alegría’. Pero cuando vas a lo de un enfermo o a lo de una enferma que sufre tanto es difícil decir: ‘¡Ánimo! ¡Coraje! ¡Mañana tendrás alegría!’. ¡No, no se puede decir! Debemos hacerla sentir como la hizo sentir Jesús. También nosotros, cuando estamos precisamente en la oscuridad, que no vemos nada: ‘Yo sé, Señor, que esta tristeza se cambiará en alegría. ¡No sé cómo, pero lo sé!’. Un acto de fe en el Señor. ¡Un acto de fe!”
Para comprender la tristeza que se transforma en alegría – dijo más adelante el Papa – Jesús toma el ejemplo de la mujer que da a luz: “Es verdad, en el parto la mujer sufre tanto, pero después, cuando el niño está con ella, se olvida”. Lo que queda, por tanto, es “la alegría de Jesús, una alegría purificada”. Esa es “la alegría que queda”. Una alegría – reconoció Francisco – “escondida en algunos momentos de la vida, que no se siente en los momentos feos, pero que viene después: una alegría en la esperanza”. Éste, por tanto, “es el mensaje de la Iglesia de hoy: ¡no tener miedo!”:

“Ser valeroso en el sufrimiento y pensar que después viene el Señor, después viene la alegría, después de la oscuridad sale el sol. Que el Señor nos de a todos nosotros esta alegría en la esperanza. Y el signo de que nosotros tenemos esta alegría en esperanza es la paz. Cuántos enfermos, que están en el final de la vida, con los dolores, tienen esa paz en el alma… Ésta es la semilla de la alegría, ésta es la alegría en la esperanza, la paz. ‘¿Tú tienes paz en el alma en el momento de la oscuridad, en el momento de las dificultades, en el momento de las persecuciones, cuando todos se alegran por tu mal? ¿Tienes paz? Si tienes paz, tú tienes la semilla de aquella alegría que vendrá después’. Que el Señor nos haga comprender estas cosas”.
(María Fernanda Bernasconi – RV).

5月28日(水)一般謁見:聖地巡礼

5月26日(月)聖地にて:ミサ説教

(未翻訳)5月27日(火)聖地巡礼から戻って記者団と


Papa Francisco: «Los gestos más auténticos son los espontáneos»

(RV).- (Con audio) RealAudioMP3 En el vuelo de regreso a Roma, el Papa, tal como había dicho al emprender su Peregrinación a Tierra Santa, mantuvo un encuentro de cerca de 50 minutos con los periodistas que lo acompañaron en estos tres días tan intensos, del II Viaje Apostólico internacional de su Pontificado. El Papa Francisco fue respondiendo a las preguntas con su característica forma directa, serena, sencilla y espontánea. El Director de la Oficina de Prensa de la Santa Sede y de nuestra emisora, el Padre Federico Lombardi, agradeció al Obispo de Roma su cordial disponibilidad para el encuentro con los medios de comunicación, «después de un viaje matador» - como el mismo Papa había bromeado, citando lo que había leído en algún artículo. Y luego el P Lombardi señaló que los periodistas se habían organizado por grupos lingüísticos y que no había puesto límites a las preguntas, como desea el Santo Padre. Por lo que fueron afrontando diversos temas. La primera pregunta fue la del grupo italiano, presentada por Cristiana Caricato, de TV2000.

Se refirió a los gestos que el Papa Francisco cumplió en estos días y que dieron la vuelta al mundo: su mano en el muro de Belén, la señal de la cruz, el beso a los supervivientes, en el Yad Vashem. Así como el beso en el Santo Sepulcro, ... Bartolomé... y muchos otros. Fueron, gestos pensados, queridos. Y qué piensa el Santo Padre sobre las repercusiones de esos gestos, como el de la invitación a los presidentes israelí y palestino al Vaticano, para rezar por la paz:

«Bueno, los gestos... los que son más auténticos, son los que no se piensan antes, los que vienen espontáneamente ¿no? Pensé, bueno se podría hacer algo... pero el gesto concreto en sí, ninguno de los cumplidos, había sido pensado así. Algunas cosas, por ejemplo la invitación a los dos presidentes a la oración, se había pensado un poco que se hiciera allí, pero había problemas logísticos, tantos, porque ellos deben tener en cuenta también el territorio, en dónde se hace- Y no es fácil ¿no? Se pensaba en una reunión y al final salió lo que espero que venga bien ¿no? Pero no fueron gestos preparados... no sé, cuando pienso hacer algo, me nace de forma espontánea. Pienso, se podría hacer algo..., pero concretamente no me viene. Por ejemplo, en el Yad Vashem, no sabía, pero luego me vino».

(CdM - RV).

Abusos: “Adelante, adelante: tolerancia cero”
(Audio) RealAudioMP3 Frank Rocca, responsable de la Agencia Católica de información de los Obispos estadounidenses preguntó al Papa Francisco:

Usted se ha referido, con palabras muy duras contra el abuso sexual de menores por parte del clero, de sacerdotes. Y ha creado una comisión especial para afrontar mejor este problema desde la Iglesia universal. En sentido práctico, ya sabemos que en todas las Iglesias locales hay normas que imponen una fuerte obligación moral, y con frecuencia legal, a colaborar con las autoridades civiles locales, de un modo o de otro. ¿Qué hará Usted en caso de que haya un obispo que, claramente, no haya honrado, no haya observado estas obligaciones? ¿Se excluye la constricción a dimitirse? ¿Se proveerá a otras sanciones? En sentido práctico, ¿cómo se pude disciplinar esto?

A lo que el Santo Padre respondió:

“En Argentina, a los privilegiados les decimos: “Éste es un hijo de papá”, ¿no? En este problema no habrá hijos de papá. En este momento, hay tres obispos que están siendo investigados: bajo investigación, tres, y uno ya ha sido condenado y se está evaluando la pena que se le debe aplicar. No hay privilegios. Sobre este asunto, abuso contra menores, es un delito horrible, muy feo… Nosotros sabemos que es un problema grave por doquier, pero a mí me interesa la Iglesia. Un sacerdote que hace esto, traiciona el Cuerpo del Señor, porque este sacerdote debe llevar a este niño, a esta niña, a este muchacho, a esta muchacha a la santidad; y este muchacho, esta niña se fía, y éste, en lugar de llevarlos a la santidad, abusa de ellos. ¡Y esto es gravísimo! Es precisamente como… haré sólo una comparación, es como hacer una misa negra, por ejemplo, ¿no? Pero tú debes llevarlo a la santidad y lo llevas a un problema que durará toda la vida…”.
Por último, el Papa Francisco añadió:

“Próximamente habrá una Misa en Santa Marta con seis u ocho personas que han padecido abusos, y después una reunión con ellos: ellos conmigo. Las personas, dos son de Alemania, dos de Inglaterra – o de Irlanda, no sé bien – serán ocho, ¿no? Con el Cardenal O’Malley que es de la Comisión. Pero sobre esto hay que ir adelante, adelante: tolerancia cero”.
(MFB – RV).

Europa, desempleo, la cultura del descarte

(Audio) RealAudioMP3 Sebastien Maillard, redactor francés del periódico La Croix, le preguntó al Papa si estaba preocupado con el crecimiento de los populismos en Europa tras el resultado electoral al Parlamento de la UE.

En estos días, he tenido tiempo de rezar el Padre Nuestro, un poco [ríe], pero no tengo noticias de las elecciones, de verdad. No tengo los datos, no se quienes ganaron, ni quienes no ganaron, ¿no? No estoy informado. ¿Pero en qué sentido usted se refiere al populismo?...

En el sentido de que hoy muchos europeos tienen miedo, piensan que no hay futuro en Europa. Hay mucho desempleo y el partido antieuropeo ha tenido un fuerte crecimiento en estas elecciones...

Este es un argumento del que he oído hablar, ¿no? de Europa, de la confianza o la desconfianza en Europa, ¿no? Incluso con el euro, algunos quieren volver atrás...sobre estas cosas yo no entiendo mucho. Pero usted ha dicho una palabra clave: el desempleo. Esto es grave. Es grave y yo lo interpreto así, simplificando. Formamos parte de un sistema económico global, donde en el centro está el dinero, no la persona humana. Y en un verdadero sistema económico, en el centro debería estar el hombre y la mujer, la persona humana. Y hoy, en el medio está el dinero. Para mantener esto, para equilibrarse, se debe ir adelante con las algunas medidas de "descarte". Y se descartan los niños -el nivel de natalidad en Europa no es muy alto, ¿eh? Creo que Italia es del 1,2%, en Francia, ustedes tienen un 2%, un poco más; en España, menos que en Italia: no sé si llega al 1%... se descarta los niños, se descartan los ancianos: los viejos no sirven; ahora mismo, en algunas circunstancias, van a verlos porque son jubilados y tienen necesitad, pero es una cosa coyuntural. Pero los ancianos se descartan, incluso con situaciones de eutanasia oculta, en muchos países, ¿no es así? Es decir, los medicamentos se administran hasta un cierto punto, ¿no? Y ahora mismo, descartamos también los jóvenes, y esto es muy grave: es muy grave. En Italia, creo que el desempleo juvenil es casi del 40%, no estoy seguro; en España, estoy seguro: es del 50%. Y en Andalucía, en el sur de España, del 60%. ¡Esto significa que hay toda una generación de "ni-ni" no estudian ni trabajan, y esto es muy grave! Se descarta una generación de jóvenes. Para mí, esta cultura del descarte es muy grave ¿no? Pero esto no pasa sólo en Europa: hay un poco en todas partes, pero en Europa se siente más ¿no? Si usted hace la comparación, hace 10 años, con la cultura del bienestar, ¿no? Esto es realmente trágico, ¿no? Es un momento difícil. Un sistema económico inhumano. Yo no he tenido miedo de escribir en la exhortación "Evangelii Gaudium": este sistema económico mata. Y lo repito. No sé si me he acercado un poco "a su inquietud... Gracias.
(ER - RV).

Iglesia Pobre

(Audio) RealAudioMP3 Por su parte, el periodista español del periódico La Vanguardia, Eusebio Val, preguntó:

Gracias, Santo Padre. Desde el primer día de su pontificado, Usted lanzó este fuerte mensaje de una Iglesia pobre, para los pobres, pobres en sencillez y austeridad; pero a veces vemos que hay situaciones, escándalos - por ejemplo, esta situación con el apartamento del cardenal Bertone, o la fiesta, la famosa fiesta en el día de la canonización o regresando al cardenal Bertone, esta confusión sobre el IOR, 15 millones de euros... ¿Qué piensa usted? ¿Qué es lo que piensa hacer porque hay contradicciones en este mensaje de la austeridad? Gracias.

El Señor Jesús dijo una vez a sus discípulos - es en el Evangelio - "Es inevitable que haya escándalos”. Somos humanos, pecadores todos. Y habrá. Habrá. El problema es evitar que haya más, ¿no? En la gestión económica, la honestidad y la transparencia. Las dos comisiones, la que ha estudiado el IOR y la comisión que estudió todo el Vaticano, han hecho sus conclusiones, han hecho planes y ahora, con el ministerio, por así decirlo, con la Secretaría de la economía que dirige el cardenal Pell, se llevarán a cabo las reformas que estas comisiones han recomendado. Pero habrá incongruencias, siempre habrá, ¿no? Porque somos humanos, y la reforma debe ser continua. Los Padres de la Iglesia, decían: "Ecclesia semper reformanda". Tenemos que estar atentos para reformar cada día la Iglesia, porque somos pecadores, somos débiles y habrá problemas.

La administración que esta Secretaría de la economía lleva adelante, ayudará a evitar los escándalos, problemas... Por ejemplo, en el IOR creo que en este momento se han cerrado... pero, la cifra que me viene a mí es 1600, pero más o menos, cuentas, ¿no? de personas que no tenían derecho a tener una cuenta en el IOR. El IOR está para ayudar a la Iglesia, tienen derecho los obispos de las diócesis, los trabajadores del Vaticano, sus viudas, viudos para obtener la pensión... Es una cosa así. Pero no tiene derecho otras personas... las embajadas, mientras dure la embajada, y no más. No es una cosa abierta, ¿no? Y esto es un buen trabajo: cerrar cuentas que no tienen ningún derecho, ¿no?. Me gustaría decir una cosa: la pregunta que usted hizo, mencionó que lo de los 15 millones. Pero, es algo que se está estudiando, ¿eh? No está claro esto. Tal vez sea cierto, pero en este momento no es definitivo. Ese problema se está estudiando, ¿no?, para ser justos, ¿no?
(MZ-RV).


Jerusalén: ciudad de la paz de las tres religiones
(RV).- (Con audio) RealAudioMP3 Ilze Scamparini de la “Rede Globo” brasilera, le preguntó al Santo Padre si estaría de acuerdo con la restitución de Jerusalén a Palestina y en qué manera se puede resolver la “cuestión Jerusalén” para obtener una paz estable y duradera:
Hay tantas propuestas sobre la cuestión de Jerusalén. La Iglesia católica, el Vaticano, digamos, tiene su posición desde el punto de vista religioso: será la ciudad de la paz de las tres religiones. Esto desde el punto de vista religioso. Las medidas concretas para la paz deben salir de la negociación. Se debe negociar. Yo estaré de acuerdo en que, de la negociación, quizás salga esta parte: será capital de un Estado, del otro…pero éstas son hipótesis que ellos deben negociar. De verdad, yo no me siento competente para decir “se haga esto o esto” porque sería una locura de mi parte ¿no? Pero creo que se deba entrar con honestidad, hermandad, mutua confianza en el camino de la negociación. Y allí se negocia todo: todo el territorio, también las relaciones ¿no? Sirve coraje para hacer esto. Yo rezo tanto al Señor para que estos dos dirigentes, estos dos gobiernos tengan el coraje de ir adelante. Éste es el único camino para la paz. Pero, Jerusalén de una forma u otra… solamente digo lo que la Iglesia debe decir y ha siempre dicho: que Jerusalén sea custodiada como capital de las tres religiones, como referencia, como una ciudad de paz – me venía también la palabra “sagrada”, pero no es justa – sino de paz y religiosa.(MCM - RV).

La unidad entre las Iglesias
(Audio) RealAudioMP3 Jan-Christoph Kitzler, de la radio pública alemana, le preguntó al Papa, si en su encuentro con el Patriarca Bartolomé, más allá del signo fuerte de la Declaración común y la oración, hablaron de pasos concretos de acercamiento. En particular, el periodista le preguntó al Santo Padre si quizás la Iglesia católica podrá aprender algo de las Iglesias ortodoxas, refiriéndose en lo específico a los sacerdotes casados, una cuestión que interesa a muchos católicos alemanes.
La Iglesia católica tiene sacerdotes casados, ¿no? Los católicos griegos, los católicos coptos, ¿no? Hay sacerdotes casados en el rito oriental. Porque el celibato no es un dogma de fe: es una regla de vida que yo aprecio tanto y creo que es un don para la Iglesia. No siendo un dogma de fe, está siempre la puerta abierta: en este momento no hemos hablado de esto, como programa, al menos en este tiempo. Tenemos cosas más fuertes que emprender. Con Bartolomé este tema no es tocado, porque, de verdad, es secundario en las relaciones con los ortodoxos, en este sentido. Hemos hablado de la unidad: pero la unidad se realiza en el camino, la unidad es un camino. Nosotros no podemos jamás construir la unidad en un congreso de teología. Y él me dijo que es verdad lo que yo sabía, que Atenágoras le dijo a Pablo VI: “Nosotros vamos juntos, tranquilos y a todos los teólogos los metamos en una isla, para que discutan entre ellos y nosotros caminemos la vida, ¿no? Es verdad, yo pensaba que era…No, no: ¡es verdad! Bartolomé me lo ha dicho en estos días. Caminar juntos, rezar juntos, trabajar juntos en tantas cosas que podemos hacer juntos: ayudarnos juntos. Por ejemplo, con las Iglesias. En Roma y en tantas ciudades, pero aquí en Roma, ¿eh? tantos ortodoxos usan iglesias católicas en un tal horario o en otro, como una ayuda para este caminar juntos, ¿no? Otra cosa de la que hemos hablado y que quizás en el Concilio pan- ortodoxo se haga algo, es la fecha de la Pascua, porque es un poco ridículo: pero dime, ¿tu Cristo cuándo resucita? La próxima semana . El mío ha resucitado la semana pasada. La fecha de la Pascua es un signo de unidad, ¿no? Y con Bartolomé hablamos como hermanos. Nos queremos, hablamos de las dificultades de nuestro gobierno. Y, una cosa de la cual sí hemos hablado bastante es el problema de la ecología: él está muy preocupado – también yo – hemos hablado mucho de hacer juntos un trabajo conjunto sobre esto problema.
(MCM - RV).

Viaje a Corea del Sur. La falta de libertad religiosa en los países vecinos
Luego, fue el turno de Shoko Ueda, del Kyodo News de Japón, que preguntó al Santo sobre su próximo viaje a Corea del Sur ¿Me gustaría saber cuáles son sus planes en favor de las personas que sufren ante la falta de libertad de religión o de la libertad de expresión, en los países vecinos a Corea del Sur, como son Corea del Norte y China?

(Audio) RealAudioMP3 Respecto a Asia, están programados dos viajes: este de Corea del Sur, para el encuentro con los jóvenes asiáticos y, a continuación, en enero del próximo año, un viaje de dos días a Sri Lanka y después a Filipinas, en la zona que sufrió el impacto del tsunami, ¿no? El problema de la falta de libertad para practicar la religión no es sólo un problema de algunos países asiáticos: en algunos, sí, pero también en otros países del mundo. La libertad religiosa es una cosa que no todos los países tienen. Algunos tienen un control más o menos ligero, tranquilo; otros adoptan medidas que acaban en una verdadera persecución de los creyentes, ¿no es así? Hay mártires, ¿eh? Hay mártires también hoy: mártires cristianos, ¿eh? Católicos y no católicos, pero mártires, ¿eh? Y en algunos lugares no puede llevar el crucifijo o no se puede tener una Biblia, ¿no? No se puede enseñar el catecismo a los niños: hoy ¿eh? Y yo creo - y creo no equivocarme, ¿eh? - que actualmente hay más mártires que en los primeros tiempos de la Iglesia. Debemos acercarnos, en algunos lugares con prudencia, para ir a ayudarlos; debemos rezar mucho por estas iglesias que sufren: sufren mucho. E incluso los obispos, y también la Santa Sede trabaja con discreción para ayudar a estos países, a los cristianos de estos países. Pero no es una cosa fácil. Por ejemplo, te digo una cosa. En un país está prohibido rezar juntos, está prohibido. ¡Pero los cristianos que viven allí quieren celebrar la Eucaristía! Y hay un señor, un obrero, que es un sacerdote. Y él se sienta en la mesa con los demás y hacen ver que toman el té y en cambio celebran la Eucaristía. Si llega la policía, esconden rápido los libros y continúan tomando el té. Esto sucede hoy en día. Como ve no es fácil.
(ER - RV).


“Benedicto XVI abrió la puerta de los Papas eméritos”
(Audio) RealAudioMP3 El periodista Fausto Gasparoni de la agencia de noticias Ansa, le preguntó al Papa Francisco:

Santidad, Usted afronta en su pontificado una gran cantidad de compromisos y también lo hace de modo muy conciso, como hemos visto en estos días. Si en un futuro lejano, usted sintiera que no tiene más fuerzas para llevar adelante su ministerio, ¿piensa que haría lo mismo que su Predecesor, es decir, que dejaría el pontificado?

A lo que el Santo Padre respondió:

Yo haré lo que el Señor me diga que haga: rezar, buscar la voluntad de Dios. Pero yo creo que Benedicto XVI no es un caso único. Sucedió que no tenía las fuerzas y, honestamente, siendo un hombre de fe, tan humilde, tomó esta decisión. Creo que él es una institución: hace 70 años, los obispos eméritos casi no existían. Y ahora hay tantos. ¿Qué sucederá con los Papas eméritos? Creo que debemos verlo a él como a una institución. Él ha abierto una puerta, la puerta de los Papas eméritos. Habrá otros, ¿o no? Dios lo sabe. Pero esta puerta está abierta: yo creo que un Obispo de Roma, un Papa que siente que sus fuerzas decaen – porque ahora se vive tanto tiempo, ¿no? – debe hacerse las mismas preguntas que se planteó el Papa Benedicto.
(MFB – RV).


La Causa para beatificar a Pío XII sigue su curso

(RV).- RealAudioMP3 (Con audio) Entre los periodistas de lengua inglesa, que acompañaron al Papa Francisco en su Peregrinación a Tierra Santa, John Allen, recordó el encuentro del Papa Francisco con algunos supervivientes del Holocausto y, en este marco preguntó sobre la causa relacionada con la beatificación y la figura de Pío XII. Después de canonizar a dos Pontífices - Juan XIII y Juan Pablo II - y de beatificar dentro de poco a Pablo VI, ¿tiene intención de seguir adelante con l causa del Papa Pacelli, o de esperar algún desarrollo en el procedimiento, antes de tomar alguna decisión?:

«La causa de Pío XII está abierta. Yo me informé: todavía no hay ningún milagro y si no hay milagros no puede avanzar ¿no? Está parada allí. Debemos esperar la realidad, cómo va la realidad de esa causa y luego pensar en las decisiones. Pero la verdad es ésta: no hay ningún milagro y se necesita por lo menos uno para la beatificación. Ésta es la situación actual de la causa de Pío XII. Y yo no puedo pensar ¿lo beatificaré o no?, porque el proceso es lento».
(CdM – RV).

Comunión para divorciados y encuentro en Vaticano con los presidentes de Israel y Palestina

(Audio) RealAudioMP3 La periodista argentina Elisabetta Piqué le formuló dos preguntas, una sobre el encuentro que se celebrará en el Vaticano después de que el Papa invitara a los presidentes de Palestina e Israel a un encuentro. Y la segunda pregunta hace referencia a la comunión para los católicos divorciados y las personas que se vuelven a casar.

En primer lugar voy a hacer una aclaración sobre este encuentro en el Vaticano: será un encuentro de oración, no será para una mediación o buscar soluciones: no. Nos reuniremos a orar, solamente. Y después cada uno se va a casa. Pero yo creo que la oración es importante y orar juntos sin hacer otras discusiones, esto ayuda, ¿no? Tal vez no he explicado bien esto antes, como sería, ¿no? Será un encuentro de oración: habrá un rabino, habrá un musulmán y yo voy a estar allí. Pregunté, sí, creo que puedo decir, le pregunté al Custodio de Tierra Santa para organizar un poco las cosas prácticas... esto.

En segundo lugar, y gracias por la pregunta de los divorciados. El Sínodo será sobre la familia, sobre los problemas de la familia, y las riquezas de la familia, sobre la situación actual de la familia. La exposición preliminar que hizo el cardenal Kasper tuvo cinco capítulos: cuatro sobre la familia, las cosas buenas de la familia, el fundamento teológico, algunos problemas familiares; y el quinto capítulo, el problema pastoral de la separación , la nulidad del matrimonio, los divorciados ... En este problema entra aquello de la comunión. Y no me gusta que mucha gente - incluso en la Iglesia, ¿eh?, , Sacerdotes - dijeron: "Ah, el Sínodo para dar la comunión a los divorciados", y se quedaron ahí. Me sentí como si todo se redujera a una casuística, ¿no? Y no, la cosa es más amplia, ¿no? Hoy en día todos lo sabemos, la familia está en crisis: es una crisis mundial, ¿eh? Los jóvenes no quieren casarse o no se casan y conviven, el matrimonio está en crisis, y la familia, ¿no? Y yo no querría que cayésemos en esta casuística: se podrá o no se podrá, ¿no? Por esto agradezco tanto esta pregunta , porque me da la oportunidad de aclarar esto. El problema pastoral de la familia es muy, muy amplio, muy amplio. Y se debe estudiar caso por caso, ¿no? Una de las cosas que el Papa Benedicto XVI dijo tres veces sobre los divorciados, me ayuda mucho. Una vez , en Trentino- Alto, otra vez en Milán , y el tercero no recuerdo donde - ¡ah, en el Consistorio, el último consistorio público que ha hecho por la creación de cardenales, porque el último era privado: estudiar el procedimientos de la nulidad del matrimonio, porque algunas son [ ... ] o sólo por pocas personas; el estudio de la fe con la que una persona va a la boda y dejar claro que los divorciados no están excomulgados, y muchas veces son tratados como excomulgado, ¿no? Y este es un asunto serio. Pero, esto es la casuística de este problema. El Sínodo será sobre la familia: las riquezas de la familia, los problemas familiares, las soluciones, la nulidad, todo esto. Y también estará este problema, pero todo junto, ¿no?. Ahora me gustaría decirle el porqué de un sínodo sobre la familia: esto ha estado para mi una experiencia espiritual muy fuerte. En el segundo mes de pontificado se me acercó Mons. Eterovic , secretario - entonces - el Sínodo, con los tres temas que el Consejo post -sinodal que proponía para el próximo Sínodo. El primero era fue muy fuerte, bueno: la contribución de Jesucristo a la gente de hoy. Este era el título. Y en continuación al Sínodo de la evangelización. Le dije que sí, hablamos un poco sobre la reforma de la metodología y al final, me dijo: "Pero, metamos algo más: la contribución de Jesús Cristo al hombre de hoy y a la familia". Pero, está bien. Después en la primera reunión del Consejo post -sinodal, fui y vi que se decía el título todo completo, pero poco a poco, decía: "Sí, sí, la contribución a la familia", "Qué aporta Jesucristo a la familia", ¿no? , y "éste es el Sínodo sobre la familia" y sin darse cuenta, la comisión post- sinodal ha terminado de hablar acerca de la familia. Estoy seguro de que era el Espíritu del Señor que nos guía hasta la elección de este título: Estoy seguro, ¿eh?, porque de verdad que hoy la familia realmente necesita muchas ayudas pastorales, ¿verdad? No sé, Elizabetta, si así he aclarado un poco. Gracias.

(MZ-RV).


Reformas en la Curia: "trabajo lento de persuasión y colaboración"

(RV).- (Audio) RealAudioMP3 El Padre Lombardi llamó por ultimo a Philippine de Saint Pierre, que es la nueva directora general de la televisión de los católicos franceses, a quien aprovechó también para felicitar por su flamante cargo. Ella, a nombre del grupo de los colegas franceses, preguntó a Francisco ¿cuáles son los obstáculos a su reforma de la Curia Romana, y a qué punto nos encontramos hoy?

Francisco
El primer obstáculo soy yo… [ríe] No, nos encontramos en un buen punto, porque creo que… no recuerdo la fecha, pero tres meses… si, … tres meses más o menos después de la elección fue nombrado el Consejo de los ocho Cardenales…
Padre Lombardi
… un mes después de la elección …

Francisco
… un mes después de la elección. Luego, en los primeros días de julio nos hemos reunido por primera vez y desde ese momento se está trabajando. ¿Qué cosa hace el Consejo? El Consejo estudia toda la Constitución Pastor Bonus y la Curia Romana. Ha hecho consultas con todo el mundo, con toda la Curia y comienza a estudiar algunas cosas. “Esto se puede hacer de esta manera, esto de otra…”. Unir algunos dicasterios, por ejemplo, para aligerar un poco la organización… Uno de los puntos clave fue el económico, y el dicastero de la economía ayudará mucho. Debe trabajar junto con la Secretaría de Estado, porque es un conjunto de cosas, están unidos, se hace todo juntos… Ahora tenemos, en julio, cuatro días de trabajo con esta comisión, y luego en septiembre, creo, otros cuatro. Se trabaja, se trabaja bastante. Y aun no se ven todos los resultados, pero la parte económica es aquella que primero vino afuera porque había algunos problemas de los que prensa ha escrito suficiente, y debemos verlos. Los obstáculos son aquellos normales de todo el proceso. Estudiar el camino… La persuasión es muy importante. Un trabajo de persuasión, de ayudar… Hay algunas personas que no ven claro, pero toda reforma comporta estas cosas. Yo estoy contento: de verdad, estoy contento. Se ha trabajado tanto y la contribución de esta comisión nos ayuda mucho. Gracias.
Padre Lombardi
Santidad, vuelvo a intentarlo: es desde hace casi una hora que estamos aquí y dentro de poco empezamos el descenso hacia Roma, por tanto la organización del vuelo me informa que si queremos cenar etc., es mejor que terminemos. Entonces, gracias por Su disponibilidad, me perdone si interrumpo su conversación: Ud. ha sido muy generoso, tanto más después de un viaje extraordinario que nos ha emocionado a todos, no como a Ud., pero casi. Hemos seguido también los momentos de la emoción espiritual que Ud. ha vivido en los Lugares Santos. Lo hemos escuchado y nos ha tocado. Le deseamos continuar bien este viaje y las otras cosas que pone en acción, también en particular el encuentro de oración, que es la continuación natural y el completamiento de este viaje: que pueda tener los frutos que Ud. desea y que, creo, todos deseamos por la paz en el mundo. ¡Gracias, de corazón, Santidad!

Francisco
Les agradezco mucho por la compañía, por la benevolencia… y por favor, les pido rezar por mí. Lo necesito, ¡bastante! Gracias.
(RC-RV)

(未翻訳)5月26日(月)聖地にて:イスラエルと全中東に平和があるように、シャローム!

(RV).- (se actualizó con texto y audio completo del Discurso del Papa) No nos cansemos de trabajar y rezar por la paz, con el rechazo firme de lo se opone al logro de la paz y de una respetuosa convivencia entre judíos, cristianos y musulmanes: el recurso a la violencia y al terrorismo y cualquier tipo de discriminación. «Que Jerusalén sea verdaderamente la Ciudad de la paz, como tesoro para toda la humanidad». En su visita de cortesía al Presidente del Estado de Israel, Shimon Peres, en el palacio presidencial de Jerusalén, concluyendo la intensa mañana de este lunes, último día de su Peregrinación a Tierra Santa, el Papa reiteró su infatigable exhortación y agradeció de corazón la cálida acogida que recibió.
Jerusalén custodia los Lugares Santos apreciados por las tres religiones que adoran al Dios que llamó a Abrahán – y los Lugares Santos no son museos o monumentos para turistas, sino lugares donde los creyentes viven su fe, su cultura, sus obras de caridad, recordó el Obispo de Roma y deseó que resplandezca plenamente la identidad y carácter sagrado, de Jerusalén su valor universal religioso y cultural.
Dirigiéndose con aprecio al Presidente israelí, «conocido como un hombre de paz y artífice de paz», el Papa hizo hincapié en el «respeto a la libertad y a la dignidad de la persona humana, que judíos, cristianos y musulmanes consideran igualmente creada por Dios y destinada a la vida eterna». Y pidió una vez más «que se eviten, por parte de todos, las iniciativas y los actos que contradicen la declarada voluntad de alcanzar un verdadero acuerdo y de que no nos cansemos de perseguir la paz con determinación y coherencia».
Se debe rechazar firmemente asimismo, «cualquier tipo de discriminación por motivos raciales o religiosos, la pretensión de imponer el propio punto de vista en perjuicio de los derechos del otro, el antisemitismo en todas sus formas posibles, así como la violencia o las manifestaciones de intolerancia contra personas o lugares de culto judíos, cristianos y musulmanes».
Sin olvidar que en el Estado de Israel viven y actúan diversas comunidades cristianas, el Papa destacó que participando con pleno derecho como corresponde en la vida civil, política y cultural, los fieles cristianos desean ofrecer, desde su propia identidad, su aportación al bien común y a la construcción de la paz, rechazando todo extremismo y siendo artífices de reconciliación y de concordia.
A la entrada del Palacio Presidencial de Israel el presidente Peres le presentó al Papa algunos niños enfermos de cáncer que querían encontrarse con el Santo Padre.
(CdM – RV)
Antes de pronunciar su discurso, el Papa Francisco improvisó estas palabras:
«Le agradezco, Señor Presidente, por sus palabras y su acogida. Y con mi imaginación y fantasía quisiera inventar una nueva Bienaventuranza, que aplico hoy a mí, en este momento: «Bienaventurado el que entra en la casa de un hombre sabio y bueno». Y no me siento bienaventurado ¡Gracias de corazón!»

Texto y audio completo del Discurso del Papa:
Señor Presidente,
Excelencias,
Señoras y Señores:
Le agradezco, Señor Presidente, la acogida que me ha dispensado y sus amables y sabias palabras de saludo, y me complace poder encontrarme con Usted nuevamente en Jerusalén, ciudad que custodia los Lugares Santos apreciados por las tres religiones que adoran al Dios que llamó a Abrahán. Los Lugares Santos no son museos o monumentos para turistas, sino lugares donde las comunidades de creyentes viven su fe, su cultura, sus obras de caridad. Por eso, se deben salvaguardar para siempre en su sacralidad, tutelando así no sólo el legado del pasado, sino también a las personas que los visitan hoy y que los visitarán en el futuro. Que Jerusalén sea verdaderamente la Ciudad de la paz. Que resplandezca plenamente su identidad y su carácter sagrado, su valor universal religioso y cultural, como tesoro para toda la humanidad. Qué bello que los peregrinos y los residentes puedan acudir libremente a los Lugares Santos y participar en las celebraciones.
Señor Presidente, Usted es conocido como un hombre de paz y artífice de paz. Le manifiesto mi reconocimiento y mi admiración por esta actitud. La construcción de la paz exige sobre todo el respeto a la libertad y a la dignidad de la persona humana, que judíos, cristianos y musulmanes consideran igualmente creada por Dios y destinada a la vida eterna. A partir de este punto de referencia que tenemos en común, es posible proseguir en el empeño por una solución pacífica de las controversias y los conflictos. A este respecto, renuevo el deseo de que se eviten, por parte de todos, las iniciativas y los actos que contradicen la declarada voluntad de alcanzar un verdadero acuerdo y de que no nos cansemos de perseguir la paz con determinación y coherencia.
Se debe rechazar firmemente todo lo que se opone al logro de la paz y de una respetuosa convivencia entre judíos, cristianos y musulmanes: el recurso a la violencia y al terrorismo, cualquier tipo de discriminación por motivos raciales o religiosos, la pretensión de imponer el propio punto de vista en perjuicio de los derechos del otro, el antisemitismo en todas sus formas posibles, así como la violencia o las manifestaciones de intolerancia contra personas o lugares de culto judíos, cristianos y musulmanes.
En el Estado de Israel viven y actúan diversas comunidades cristianas. Son parte integrante de la sociedad y participan como los demás en la vida civil, política y cultural. Los fieles cristianos desean ofrecer, desde su propia identidad, su aportación al bien común y a la construcción de la paz, como ciudadanos de pleno derecho que, rechazando todo extremismo, se esfuerzan por ser artífices de reconciliación y de concordia.
Su presencia y el respeto de sus derechos –como del resto de los derechos de cualquier otra denominación religiosa o minoría- son garantía de un sano pluralismo y prueba de la vitalidad de los valores democráticos, de su arraigo en la praxis y en la vida concreta del Estado.
Señor Presidente, Usted sabe que yo rezo por Usted y yo sé que Usted reza por mí y le aseguro mi oración por las Instituciones y por todos los ciudadanos de Israel. Cuente especialmente con mi constante súplica a Dios por la consecución de la paz y con ella de los bienes inestimables que la acompañan, como la seguridad, la tranquilidad de vida, la prosperidad, - y lo que es más hermoso - la fraternidad. Dirijo finalmente mi pensamiento a todos aquellos que sufren las consecuencias de las crisis aún abiertas en la región medio-oriental, para que lo antes posible sean aliviadas sus penalidades mediante la honrosa resolución de los conflictos. Paz a Israel y a todo Oriente Medio. ¡Shalom!

(未翻訳)5月26日(月)聖地にて:キリスト者として、ユダヤ教徒として互いを結ぶきずなを深めるように呼ばれている

En un discurso ante los dos principales rabinos de Jerusalén, el Gran Rabino Askenazi, Yona Metzger, y el Gran Rabino Sefardita, Shlomo Amar, el pontífice instó a continuar en el camino de amistad iniciado tras el Concilio Vaticano II.
Francisco recordó sus excelentes relaciones con responsables judíos en tiempos de su arzobispado en Buenos Aires y "las provechosas iniciativas de encuentro y diálogo, y con ellos viví también momentos significativos de intercambio en el plano espiritual".
"En los primeros meses de pontificado tuve la ocasión de recibir a diversas organizaciones y representantes del Judaísmo mundial. Estas peticiones de encuentro son numerosas, como ya sucedía con mis predecesores", explicó. "Y, sumadas a las múltiples iniciativas que se desarrollan a escala nacional o local, manifiestan el deseo recíproco de conocernos mejor, de escucharnos, de construir lazos de auténtica fraternidad", agregó.
Francisco, recibido en el Centro Heichal Shlomo, Sede del Gran Rabinato de Israel, subrayó que "este camino de amistad representa uno de los frutos del Concilio Vaticano II, en particular de la Declaración Nostra aetate, que tanta importancia ha tenido y cuyo 50º aniversario recordaremos el próximo año". "Un don de Dios, que, sin embargo, no hubiera podido manifestarse sin el esfuerzo de muchísimas personas entusiastas y generosas, tanto judíos como cristianos.
A este respecto, el pontífice destacó "la importancia que ha adquirido el diálogo entre el Gran Rabinato de Israel y la Comisión de la Santa Sede para las relaciones religiosas con el Judaísmo" durante los últimos doce años. "Me gustaría pensar que, como el Bar Mitzvah de la tradición judía, está ya próximo a la edad adulta: confío en que pueda continuar y tenga un futuro luminoso por delante", afirmó.
"No se trata solamente de establecer, en un plano humano, relaciones de respeto recíproco: estamos llamados, como cristianos y como judíos, a profundizar en el significado espiritual del vínculo que nos une", agregó.
Al hilo de este argumento, Francisco subrayó que la base de este entendimiento es el conocimiento mutuo, y pidió que, al igual que el catolicismo se compromete a valorar el sentido de las raíces judías de nuestra fe, el judaísmo "aumente el interés por el conocimiento del cristianismo, también en esta bendita tierra en la que reconoce sus orígenes". "Juntos podremos dar un gran impulso a la causa de la paz; juntos podremos dar testimonio, en un mundo en rápida transformación, del significado perenne del plan divino de la creación", aseguró Francisco.
"Juntos podremos afrontar con firmeza toda forma de antisemitismo y cualquier otra forma de discriminación. El Señor nos ayude a avanzar con confianza y fortaleza de ánimo en sus caminos. ¡Shalom!", concluyó. Los principales rabinos centraron su discurso en la lucha contra el antisemitismo, y agradecieron al papa sus palabras sobre el atentado que este fin de semana mató a cuatro personas en el museo judío de Bruselas. Ambos le pidieron al pontífice su apoyo en la lucha contra el antisemitismo en el mundo e instaron a que la paz reine desde Jerusalén.

(未翻訳)5月25日(日)聖地でのミサ:ベツレヘムで生まれた幼子イエス、神とその世での現存のしるし、人間の健康を測る「診断」

(RV).- (actualizado con video y audio) En la recoleta plaza del pesebre de Belén, lugar donde nació Jesús, el Niño Dios, el Papa Francisco presidió la santa misa, en la celebración eucarística de este domingo en Palestina.
En su homilía, el Papa Francisco dio las gracias a Dios y también todos los que han preparado la visita y a todos los que se esfuerzan por mantener viva la fe, la esperanza y la caridad en estos territorios. El Niño Jesús, nacido en Belén, indicó el Papa, es la señal dada por Dios a los que esperaban la salvación, y se mantiene como un signo de su presencia en el mundo.
También hoy los niños son un signo de esperanza, de vida, y también un signo "diagnóstico" para entender el estado de salud de una familia, de una sociedad, del mundo entero. “Cuando los niños son amados, protegidos, tutelados, la familia está sana, la sociedad mejora, el mundo es más humano”. En este contexto, el Papa recordó el trabajo que el Instituto Effetà Pablo VI juega en favor de los niños palestinos sordomudos, lo cual “es un signo concreto de la bondad de Dios”,
“Jesús, la Palabra que se hizo carne, venida a cambiar los corazones y las vidas de los hombres, como cada niño es débil y necesita ser ayudado y protegido. También hoy, señaló Francisco, los niños necesitan ser acogidos y protegidos desde el útero materno.
“En nuestro mundo que ha desarrollado las tecnologías más sofisticadas, todavía hay muchos niños en condiciones inhumanas, que viven a los márgenes de la sociedad, en los suburbios de las grandes ciudades o en zonas rurales”. Muchos pequeños son explotados, maltratados, esclavizados, sometidos a la violencia y la trata, subrayó el Santo Padre. O son prófugos, refugiados, y a veces se ahogan en el mar, en las aguas del Mediterráneo. “De todo esto -dijo- nos avergonzamos hoy delante de Dios, Dios que se hizo niño”.
¿Quienes somos -se preguntó Francisco- delante del Niño Jesús, de los niños de hoy? Somos como María y José, que lo cuidaron con amor maternal y paternal? O somos como Herodes, que quiso eliminarlo? ¿Somos como los pastores que, de rodillas, le adoraron y le ofrecieron sus humildes dones? ¿O somos indiferentes, retóricos y pietistas, personas que explotan las imágenes de los niños pobres con fines de lucro? ¿Sabemos escucharlos, mantenerlos, orar por ellos y con ellos? O los descuidamos, para ocuparnos de nuestros intereses?
“También hoy los niños -afirmó el Papa en su homilía-, están llorando porque tienen hambre, tienen frío, porque quieren permanecer en los brazos, y su clamor nos desafía. En un mundo que rechaza todos los días, toneladas de alimentos y medicinas, hay niños que lloran en vano por hambre y por enfermedades fácilmente curables. En un mundo que proclama la protección de los menores, se comercia en armas que terminan en manos de los niños soldados; se comercia con productos elaborados por pequeños trabajadores esclavos".
"El Niño Jesús nació en Belén, cada niño que nace y crece en todas partes del mundo -ha terminado diciendo el Papa Francisco- es signo diagnóstico, que nos permite verificar el estado de salud de nuestra familia, nuestra comunidad, nuestra nación. De este “diagnóstico franco y honesto, puede surgir un nuevo estilo de vida, donde las relaciones ya no sean conflictivas, de opresión, de consumismo, sino que sean relaciones de fraternidad, perdón y reconciliación, de participación y de amor”.
ER - RV

Texto completo de la Homilía del Santo Padre Francisco
«Y aquí tenéis la señal: encontraréis un niño envuelto en pañales y acostado en un pesebre » (Lc 2,12).
Es una gracia muy grande celebrar la Eucaristía en el lugar en que nació Jesús. Doy gracias a Dios y a vosotros que me habéis recibido en mi peregrinación: al Presidente Mahmoud Abbas y a las demás autoridades; al Patriarca Fouad Twal, a los demás Obispos y Ordinarios de Tierra Santa, a los sacerdotes, a los valerosos Franciscanos, las personas consagradas y a cuantos se esfuerzan por tener viva la fe, la esperanza y la caridad en esta tierra; a los representantes de los fieles provenientes de Gaza, Galilea y a los emigrantes de Asia y África. Gracias por vuestra acogida.El Niño Jesús, nacido en Belén, es el signo que Dios dio a los que esperaban la salvación, y permanece para siempre como signo de la ternura de Dios y de su presencia en el mundo. El ángel dijo a los pastores: «Y aquí tenéis la señal: encontraréis un niño…».
También hoy los niños son un signo. Signo de esperanza, signo de vida, pero también signo “diagnóstico” para entender el estado de salud de una familia, de una sociedad, de todo el mundo. Cuando los niños son recibidos, amados, custodiados, tutelados, la familia está sana, la sociedad mejora, el mundo es más humano. Recordemos la labor que realiza el Instituto Effetà Pablo VI en favor de los niños palestinos sordomudos: es un signo concreto de la bondad de Dios. Es un signo concreto de que la sociedad mejora.Dios hoy nos repite también a nosotros, hombres y mujeres del siglo XXI: «Y aquí tenéis la señal», buscad al niño…
El Niño de Belén es frágil, como todos los recién nacidos. No sabe hablar y, sin embargo, es la Palabra que se ha hecho carne, que ha venido a cambiar el corazón y la vida de los hombres. Este Niño, como todo niño, es débil y necesita ayuda y protección. También hoy los niños necesitan ser acogidos y defendidos desde el seno materno.En este mundo, que ha desarrollado las tecnologías más sofisticadas, hay todavía por desgracia tantos niños en condiciones deshumanas, que viven al margen de la sociedad, en las periferias de las grandes ciudades o en las zonas rurales. Todavía hoy muchos niños son explotados, maltratados, esclavizados, objeto de violencia y de tráfico ilícito. Demasiados niños son hoy prófugos, refugiados, a veces ahogados en los mares, especialmente en las aguas del Mediterráneo. De todo esto nos avergonzamos hoy delante de Dios, el Dios que se ha hecho Niño.
Y nos preguntamos: ¿Quién somos nosotros ante Jesús Niño? ¿Quién somos ante los niños de hoy? ¿Somos como María y José, que reciben a Jesús y lo cuidan con amor materno y paterno? ¿O somos como Herodes, que desea eliminarlo? ¿Somos como los pastores, que corren, se arrodillan para adorarlo y le ofrecen sus humildes dones? ¿O somos más bien indiferentes? ¿Somos tal vez retóricos y pietistas, personas que se aprovechan de las imágenes de los niños pobres con fines lucrativos? ¿Somos capaces de estar a su lado, de “perder tiempo” con ellos? ¿Sabemos escucharlos, custodiarlos, rezar por ellos y con ellos? ¿O los descuidamos, para ocuparnos de nuestras cosas?Y aquí tenemos la señal: «encontraréis un niño…». Tal vez ese niño llora. Llora porque tiene hambre, porque tiene frío, porque quiere estar en brazos… También hoy lloran los niños, lloran mucho, y su llanto nos cuestiona. En un mundo que desecha cada día toneladas de alimento y de medicinas, hay niños que lloran en vano por el hambre y por enfermedades fácilmente curables. En una época que proclama la tutela de los menores, se venden armas que terminan en las manos de niños soldados; se comercian productos confeccionados por pequeños trabajadores esclavos. Su llanto es acallado. ¡El llanto de estos niños es acallado! Deben combatir, deben trabajar, no pueden llorar. Pero lloran por ellos sus madres, Raqueles de hoy: lloran por sus hijos, y no quieren ser consoladas (cf. Mt 2, 18).
«Y aquí tenéis la señal»: encontraréis un niño. El Niño Jesús nacido en Belén, todo niño que nace y crece en cualquier parte del mundo, es signo diagnóstico, que nos permite comprobar el estado de salud de nuestra familia, de nuestra comunidad, de nuestra nación. De este diagnóstico franco y honesto, puede brotar un estilo de vida nuevo, en el que las relaciones no sean ya de conflicto, abuso, consumismo, sino relaciones de fraternidad, de perdón y reconciliación, de participación y de amor.
Oh María, Madre de Jesús,tú, que has acogido, enséñanos a acoger;
tú, que has adorado, enséñanos a adorar;tú, que has seguido, enséñanos a seguir. Amén.

5月25日(日)アレルヤの祈り:マリアにゆだねます

(未翻訳)5月25日(日)聖地にて:イスラエルの皆さん、パレスチナの皆さん、幸福な出エジプトを始めてください

(RV).- (se actualizó con voz y texto completo del Papa y con video) Es hora de poner fin al sufrimiento y tener la valentía de la paz, que traerá incontables beneficios para los pueblos de esta región y para todo el mundo, los cristianos anhelan seguir contribuyendo al bien común. En Belén, donde nació Jesús, el Príncipe de la Paz, el Papa desde lo más profundo de su corazón, alentó, por el bien de todos, a poner fin a las dramáticas consecuencias de la duración del conflicto en Oriente Medio. En la ceremonia de bienvenida, agradeciendo al presidente del Estado de Palestina, Mahmoud Abbas, con un saludo cordial a los representantes del Gobierno y a todo el pueblo palestino, exhortó a emprender con sabiduría «el precioso camino de la paz, para que las espadas se transformen en arados y esta Tierra vuelva a florecer en la prosperidad y en la concordia».
Reiterando su cercanía a los que sufren ante esta situación, cada vez más dolorosamente inaceptable, el Papa señaló la apremiante necesidad de que «se redoblen pues los esfuerzos y las iniciativas para crear las condiciones de una paz estable, basada en la justicia, en el reconocimiento de los derechos de cada uno y en la recíproca seguridad. Ha llegado el momento de que todos tengan la audacia de la generosidad y creatividad al servicio del bien, el valor de la paz, que se apoya en el reconocimiento, por parte de todos, del derecho de dos Estados a existir y a disfrutar de paz y seguridad dentro de unos confines reconocidos internacionalmente». «Animo a los pueblos palestino e israelí, así como a sus respectivas autoridades, a emprender este feliz éxodo hacia la paz con la valentía y la firmeza necesaria para todo éxodo. La paz basada en la seguridad y la mutua confianza será el marco de referencia estable para afrontar y resolver los demás problemas y una ocasión para un desarrollo equilibrado, que sirva de modelo para otras áreas en crisis», afirmó el Obispo de Roma.
Y refiriéndose luego con afecto a la activa comunidad cristiana, recordó que los cristianos desean seguir desempeñando su significativa contribución al bien común de la sociedad, participando de las alegrías y sufrimientos de todo el pueblo como ciudadanos de pleno derecho, junto con los demás ciudadanos a los que consideran como hermanos.Poniendo de relieve asimismo las buenas relaciones entre la Santa Sede y el Estado de Palestina, los trabajos para elaborar un Acuerdo entre las Partes, abarcando diversos aspectos de la vida de la comunidad católica, la libertad religiosa – una de las condiciones para la paz – así como la hermandad y la armonía, el Papa destacó que las cosas que tenemos en común son tantas y tan importantes que es posible encontrar un modo de convivencia serena, ordenada y pacífica, acogiendo las diferencias y con la alegría de ser hermanos en cuanto hijos de un único Dios.
(CdM - RV)
Texto y audio completo del discurso del Papa :
«Señor Presidente,
Queridos hermanos:
Agradezco al Señor Presidente Mahmoud Abbas su bienvenida y saludo cordialmente a los representantes del Gobierno y a todo el pueblo palestino. Doy gracias al Señor por estar hoy aquí con ustedes en este lugar donde nació Jesús, el Príncipe de la Paz, y les agradezco su calurosa acogida.
Desde hace decenios, Oriente Medio vive las dramáticas consecuencias de la duración de un conflicto que ha causado heridas difíciles de cerrar y que, incluso cuando afortunadamente no se desata la violencia, la incertidumbre de la situación y la incomprensión de las partes producen inseguridad, negación de derechos, aislamiento y éxodo de comunidades enteras, divisiones, carencias y sufrimientos de todo tipo.
Desde lo más profundo de mi corazón, y a la vez que manifiesto mi cercanía a cuantos sufren en mayor medida las consecuencias de este conflicto, deseo decir que, por el bien de todos, ya es hora de poner fin a esta situación, que se hace cada vez más inaceptable. Que se redoblen pues los esfuerzos y las iniciativas para crear las condiciones de una paz estable, basada en la justicia, en el reconocimiento de los derechos de cada uno y en la recíproca seguridad. Ha llegado el momento de que todos tengan la audacia de la generosidad y creatividad al servicio del bien, el valor de la paz, que se apoya en el reconocimiento, por parte de todos, del derecho de dos Estados a existir y a disfrutar de paz y seguridad dentro de unos confines reconocidos internacionalmente.
En este sentido, deseo que todos eviten iniciativas y actos que contradigan la voluntad expresa de llegar a un verdadero acuerdo y que no se deje de perseguir la paz con determinación y coherencia. La paz traerá consigo incontables beneficios para los pueblos de esta región y para todo el mundo. Es necesario pues encaminarse con resolución hacia ella, también mediante la renuncia de cada uno a algo.
Animo a los pueblos palestino e israelí, así como a sus respectivas autoridades, a emprender este feliz éxodo hacia la paz con la valentía y la firmeza necesaria para todo éxodo. La paz basada en la seguridad y la mutua confianza será el marco de referencia estable para afrontar y resolver los demás problemas y una ocasión para un desarrollo equilibrado, que sirva de modelo para otras áreas en crisis.
Deseo referirme con afecto a la activa comunidad cristiana, que ofrece su significativa contribución al bien común de la sociedad y que participa de las alegrías y sufrimientos de todo el pueblo. Los cristianos desean seguir desempeñando este papel como ciudadanos de pleno derecho, junto con los demás ciudadanos a los que consideran como hermanos.
Señor Presidente, Usted es conocido como un hombre de paz y artífice de paz. El reciente encuentro en el Vaticano con usted y mi presencia hoy en Palestina atestiguan las buenas relaciones entre la Santa Sede y el Estado de Palestina, y espero que crezcan para el bien de todos. En este sentido, expreso mi aprecio por el compromiso de elaborar un Acuerdo entre las partes, que contemple diversos aspectos de la vida de las comunidades católicas del País, con una atención especial a la libertad religiosa. En efecto, el respeto de este derecho humano fundamental es una de las condiciones irrenunciables de la paz, de la hermandad y de la armonía; proclama al mundo que es necesario y posible encontrar un buen acuerdo entre culturas y religiones diferentes; atestigua que las cosas que tenemos en común son tantas y tan importantes que es posible encontrar un modo de convivencia serena, ordenada y pacífica, acogiendo las diferencias y con la alegría de ser hermanos en cuanto hijos de un único Dios.
Señor Presidente, queridos hermanos reunidos aquí en Belén, Dios omnipotente los bendiga, los proteja y les conceda la sabiduría y la fuerza necesaria para emprender el precioso camino de la paz, para que las espadas se transformen en arados y esta Tierra vuelva a florecer en la prosperidad y en la concordia. ¡Salam!

(未翻訳)5月24日(土)聖地にて:難民や障がい者のうちにあるイエスの顔

(RV).- (con audio de las palabras del Papa) En los refugiados y los jóvenes discapacitados, Francisco ve el rostro de Jesús y su amor, que restituye dignidad y dona salvación. En su tercer discurso, pronunciado en Bethany beyond the Jordan - Betania más allá del Jordán, el Papa se mostró sensible a la difícil situación que enfrentan personas golpeadas por las crueles situaciones del mundo, expresando en primer lugar su especial interés en encontrar a quienes “a causa de sangrientos conflictos, han tenido que abandonar su Patria y han encontrado refugio en la acogedora tierra de Jordania y a los queridos jóvenes, que experimentan el peso de alguna limitación física”.
Recordando el bautismo de Jesús en este mismo lugar, el Santo Padre hizo hincapié en la humildad de Jesús quien, compartiendo la condición humana, vino aquí para ser bautizado y “con su amor nos restituyó la dignidad y nos dio la salvación”. En este contexto, el Obispo de Roma manifiestó su aflicción por “los dramas y las heridas de nuestro tiempo, especialmente, por las que son fruto de los conflictos todavía abiertos en Oriente Medio”. Su pensamiento se dirigió en primer lugar a la tierra siria, lacerada por tres años de lucha fratricida y a sus innumerables víctimas: un drama que ha obligado, recordó, a millones de personas a convertirse en refugiados y a emigrar a otros países.
Las palabras del Papa peregrino se dirigieron luego a las autoridades y al pueblo jordano, agradeciéndoles por la generosa acogida de “un número elevadísimo de refugiados provenientes de Siria y de Iraq”, y a todos los que prestan asistencia y solidaridad, como así también a las obras de caridad desarrolladas por instituciones de la Iglesia que, “sin distinción de credo religioso, pertenencia étnica o ideológica, manifiestan el esplendor del rostro caritativo de Jesús misericordioso”.
El Obispo de Roma exhortó a la comunidad internacional a que "no deje sola a Jordania ante la emergencia humanitaria”, sino que continúe e incremente su apoyo y ayuda, al tiempo que renovó su llamamiento a la paz en Siria insistiendo en que “nadie se empeñe en que las armas solucionen los problemas” y se regrese al camino de las negociaciones, indicando como única solución el diálogo y una solución política.
Francisco invitó también a los jóvenes a unirse a su oración de paz y a colaborar en la construcción de una sociedad respetuosa de los más débiles y a ser “signos de esperanza”.
(MCM-RV)

Estimadas Autoridades, Eminencias, Excelencias,
Queridos hermanos y hermanas,
En mi peregrinaje, tanto he querido encontrarme con ustedes que, a causa de sangrientos conflictos, han tenido que abandonar sus casas y su Patria, y han encontrado refugio en la acogedora tierra de Jordania; y al mismo tiempo, ustedes, queridos jóvenes, que experimentan el peso de alguna limitación física.
El lugar en que nos encontramos nos recuerda el Bautismo de Jesús. Viniendo aquí, al Jordán, para hacer bautizar por Juan, Él mostró su humildad, y comparte la condición humana: se rebajó hasta nosotros y con su amor nos restituye la dignidad y nos dona la salvación. Nos sorprende siempre esta humildad de Jesús, cómo se inclina ante las heridas humanas para sanarlas. ¡Este inclinarse de Jesús sobre todas las heridas humanas, para sanarlas! Y, por nuestra parte, nos sentimos profundamente afectados por los dramas y por las heridas de nuestro tiempo, especialmente por aquellas provocadas por los conflictos todavía abiertos en Medio Oriente. Pienso, en primer lugar, en la amada Siria, lacerada por una lucha fratricida que dura ya tres años y que ha cosechado innumerables víctimas, obligando a millones de personas a convertirse en refugiados y a exilarse en otros países.

Todos queremos la paz, pero miren: ¡ésta es la raíz del mal, el odio y la codicia del dinero, y las fábricas en la venta de las armas! ¡Esto nos debe hacer pensar! ¿Quién está detrás, que nos da a todos, a todos aquellos que están en conflicto, las armas para continuar el conflicto? Pensemos desde nuestro corazón, y digamos una palabra por esta pobre gente criminal, para que se convierta
Agradezco a las Autoridades y al pueblo jordano por la generosa acogida de un número elevadísimo de refugiados provenientes de Siria y de Iraq, y extiendo mi agradecimiento a todos aquellos por su obra de asistencia y solidaridad con los refugiados. Pienso también en la obra de caridad que desarrollan instituciones de la Iglesia como Caritas Jordania y otras que, asistiendo a los necesitados sin distinción de credo religioso, pertenencia étnica o ideológica, manifiestan el esplendor del rostro caritativo de Jesús, que es misericordioso. Que Dios Omnipotente y Clemente los bendiga a todos ustedes y a todos sus esfuerzos por aliviar los sufrimientos causados por la guerra.
Me dirijo a la comunidad internacional para que no deje sola a Jordania, ¡que es tan acogedora y valiente!, en el afrontar la emergencia humanitaria causada con la llegada a su territorio de un número tan elevado de refugiados, sino que continúe e incremente su acción de apoyo y ayuda. Renuevo mi ardiente llamado a la paz en Siria. Que cese la violencia y se respete el derecho humanitario, garantizando la necesaria asistencia a la población sufriente. Que de parte de todos se abandone la pretensión de dejar a las armas la solución de los problemas y se vuelva al camino de las negociaciones. De hecho, la solución sólo puede venir del diálogo y de la moderación, de la compasión por quien sufre, de la búsqueda de una solución política y del sentido de la responsabilidad para con los hermanos.
A ustedes jóvenes, les pido que se unan a mi oración por la paz. Pueden hacerlo ofreciendo a Dios sus fatigas cotidianas, y así su oración será particularmente preciosa y eficaz. Y les animo a colaborar, con su esfuerzo y sensibilidad, en la construcción de una sociedad respetuosa de los más débiles, de los enfermos, de los niños, de los ancianos. A pesar de las dificultades de la vida, sean signo de esperanza. Ustedes están en el corazón de Dios; ustedes están en mis oraciones, y les agradezco su calurosa, alegre y numerosa presencia. ¡Gracias!
Al final de este encuentro, renuevo mi deseo que prevalezca la razón y la moderación y, con la ayuda de la comunidad internacional, Siria reencuentre el camino de la paz. ¡Dios convierta a los violentos! ¡Dios convierta a aquellos que tienen proyectos de guerra! ¡Dios convierta a aquellos que fabrican y venden armas! Y fortalezca los corazones y las mentes de los agentes de paz y los recompense con toda bendición. ¡Que el Señor los bendiga a todos ustedes!