2014年2月26日水曜日

2月24日(月)、朝ミサ説教:救いとはイエスとともに、教会のうちで、家に帰ること

 イエスに従うということは「概念」ではなく、「継続的に家」、キリストがいつもすべての人を還らせる家、ここから遠く離れた人をも変えるようにする家「にとどまること」なのです。パパ・フランシスコは聖マルタの家の小聖堂で今朝のミサの説教で語った。発作に苦しむ青年が、驚き無防備な群衆の間で、地面でのたうちまわり、口から泡を出す。そしてその父親は、イエスにすこし飛び付くような感じで自分の子をその悪魔の憑依から解放してくれるようにと願い出る。これが今日の福音で繰り広げられているドラマで、パパはポイントごとに分析をした。そこのいた人々は、結果もなく議論しており、そこにイエスが到着して、「知名度が下がったことが」報告される。心配した父親は群衆の間から抜け出し、あらゆる希望に反してイエスに信頼することを決意します。そしてイエスは、あの父親の水晶のように透き通った信仰に心を動かされ、悪霊を追い出し、死んでしまったかのように見えた青年の前でやさしく身をかがめ、もう一度起き上がるのを助けます。

「あの無秩序状態、あの議論はすべて、ひとつの仕草で終わります。イエスは身をかがめ、青年の前で身を傾けます。このイエスの仕草はわたしたちに考えさせます。イエスは癒す時、人々のところに入り込んで誰かを癒す時、決してその人を一人きりにしません。イエスは魔術師や霊媒師のように言っていやし、そのまま自分の生き方だけを続けるような人ではありません。イエスは一人ひとりが自分の家に帰れるようにし、道端に置き去りにしないのです。こうした仕草は、主の最高に美しい仕草です」。

 ここに教えがあります。「イエスは、いつもわたしたちを家に返し、決して道端に置き去りにしないのです」。福音は、こうした仕草に満ちています。ラザロの復活、ヤイロの娘が息を吹き返したこと、あのやもめの息子の出来事。そしていなくなった羊を柵に連れ戻す話や、失われた銅貨がその持ち主の女性に見つけられる話も同様です。

「なぜならイエスはただ天から来ただけでなく、民の間で生まれた息子だからです。イエスは一つの民と交わされた約束そのものであり、そのアイデンティティも、アブラハムが約束に向かって歩いた、あの民への帰属にあるのです。そしてこうしたイエスの仕草は、あらゆる癒し、あらゆるゆるしが、いつもわたしたちの民、教会に帰れるようにしているのだということをわたしたちに教えています」。

 イエスはいつでもゆるし、その仕草は、そのゆるしが「とても」離れてしまった人、例えば徴税人のマタイやその同僚ザアカイといったような人に届くとき、「革命的」あるいは「説明不能」にもなります。しかも、イエスは「赦す時、いつも家に帰します。このような形で、神の民がいなければ、イエスを理解することはできないのです」。「教会なしにキリストを愛すること、教会を感じずにキリストを感じること、教会の枠の外でキリストに従うこと」はおこがましいことです。教皇フランシスコはもう一度パウロ六世のフレーズを引用して言った。「キリストと教会は一つです」、そして「キリストが誰かを呼ぶ時、教会に導くのです」。このため、子どもが「教会で、つまり母なる教会で洗礼を受けるために来ることは善いことなのです」。

「そしてあのイエスのやさしさたっぷりの仕草はこのことを理解させます。わたしたちの教義は、あるいはこう言えるでしょうか、つまりわたしたちがキリストに従うことは、概念ではなく、たゆまず家に留まることなのです。そしてもしわたしたち一人ひとりが罪や間違いのため -神さまは知っておられます- 家から出る可能性や現実にあるなら、救いとは、イエスと共に、教会において家に帰ってくることなのです。それらは温もりの仕草です。一人ひとり、主はそのようにわたしたち、その民を、その家族、わたしたちの母、聖なる教会の内側に、呼びます。このイエスの仕草について考えましょう」。
 (RC-RV)









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