2014年2月18日火曜日

2月10日(月)、朝ミサ説教:典礼は神の時間、神の空間。我々はそこに入っていくのであり、時計を見ているものではない。


 聖なるものの意義、ミサにおける神の本当の現存を再発見すること。これは月曜日の聖マルタの家での聖体祭儀の間になされたパパ・フランシスコによる招きであった。

 この日の第一朗読は、ソロモン王の時代の神の神顕現について語っている。主は神殿の上に、神の栄光に包まれてやって来て、雲のように下りてくる。主はその民に様々な仕方で語りかけます。預言者達を通して、祭司達を通して、聖書を通して。けれど神顕現をもってする場合、異なる仕方で語ります。「みことばとは別の形です。これは他の現存の仕方です。より近いものです。黙想のいらない、近い現存です。それは彼の現存そのものなのです」。「このことは典礼祭儀の中で生じています。典礼祭儀というのは社会的な儀礼、いい社会儀礼のようなものではなありません。一緒に祈るために信者達が集まる集会でもないのです。これは別のものです。典礼に於いて、神が現存するのです」。それももっとも近い現存です。ミサに於いて、実際に、「主の現存は本物で、まさしく本物なのです」。

 「わたしたちがミサを祝うとき、最後の晩餐の再現の劇をしているわけではありません。これは再現ではありません。別のものなのです。まさに最後の晩餐そのものなのです。まさに改めて主のあがないをもたらす受難と復活を体験することなのです。これは神顕現なのです。主が祭壇の上に現存し、父にささげられ、世を救うのです。わたしたちは次のように聞いたり言ったりします。「でも、ぼくにはできません、今、ミサに行かなくてはならないので、ミサを聞きに行かなければならないので」。ミサは「聞く」ものではなく、参与するものです。それも、この神顕現に参与するのです。このわたしたちの間にある主の現存の神秘に」。

 馬小屋や十字架の道行きは、再現です。ミサは一方、「本当の記念なのです。つまり、神顕現なのです。神は近づき、わたしたちと共にいて、わたしたちはあがないの神秘に参与するのです」。嘆かわしいことに、ミサの時に何度も時計を見ます。「何分かかったか数えるのです」。「それはまさに典礼がわたしたちに求めている態度ではありません。典礼というのは神の時間、神の空間で、わたしたちはそこに入っていかなければならないのです。神の時間、神の空間に入っていくのであり、時計を見に行くのではありません」。

「典礼というのは、まさに神の神秘のなかに入り、神秘に導かれるがままにし、神秘の内にいるがままにすることなのです。たとえば、わたしは皆さんがここに、神秘のうちに入っていくために来ていることを確信してはいますが、もしかすると、「あぁ、聖マルタの家のミサに行かなきゃ。だってローマの観光旅行のコースに聖マルタにいるパパを毎朝訪問するのが組まれているから。聖マルタの家って、観光地でしょ?」という人もいるかもしれません。皆さんは全員、ここに来て、わたしたちはここに、神秘のうちに入っていくために集まったのです。これが典礼です。神の時間、神の空間、わたしたちを包む神の雲なのです」。

 ローマ司教は、子どもの頃、初聖体の準備の間に、祭壇は「神の栄光、神の空間、神の時間の意義を」付すために天使たちによって見守られているのだと指摘する歌があったことを思い出した。そして試験の時に、ホスチアを持ってきて、子どもたちに、「ごらんなさい。ここにあるのは皆さんがもらうものとは別のものですよ。これにはなんの価値もないんです。というのはまだ聖変化が足りないからです!」と言われていました。このように、「典礼を祝うということは、神の神秘のうちに」、神の空間のうちに、神の時間のうちに「入っていき、この神秘に信頼するこの心構えを持つということなのです」。

「今日、わたしたち全員にこの『聖なるものの意義』、この、家で祈ったり教会で祈ったりロザリオを祈ったり他の様々な美しい祈りを唱えたり十字架の道行きや他の美しい行をたくさん行ったり聖書を読んだりすることと、聖体祭儀というのは別のことだということを理解させる意義がもたらされるように主に願うことはわたしたちにとって益となるでしょう。祭儀においてわたしたちは神の神秘、わたしたちにはコントロールできないあの道、ただ唯一の方、栄光である方、権威である方、すべてである方の神秘に入っていくのです。この恵みを求めましょう。主が神の神秘にどのように入れるかをわたしたちに教えて下さいますように。
 (RC-RV)

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