2014年2月18日火曜日

2月13日(木)、朝ミサ説教:信仰を持つということは、信仰宣言をそらで言えるということとは別のこと


 信者はその情欲や虚栄のせいで自分の信仰を失うこともあるかもしれないが、異教徒でその謙遜を通して信仰者になることもあり得る。これが、木曜日の聖マルタの家で支えゲラレ民差での朝の説教でのパパ・フランシスコのメッセージの要約である。

 当日の朗読は、二重の道について回想させる。「偶像崇拝から生きた神へ」の道か、そうでなければ、「生きた神から偶像崇拝へ」の道である。パパの黙想はひとりの「勇気ある女性」、カナン人女性、つまり異教徒の女性が、イエスに娘を悪霊から解放してあげてほしいと願う福音に端を発した。彼女は「絶望的な」女性であり、「母であります。子どもの健康のためには、なんでもします」。「イエスは自分がもとはイスラエルの家の羊たちのために来たのだと説明しますが、きつい言い回しでこれを説明しています。『まずは子どもたちを満腹させなさい。子どもたちのパンを取り上げて犬どもにやってしまうのは良くない』と。この女性は、間違いなく大学に行ったこともない女性ですが、どのように応えるべきかを知っていました」。そして「その頭を使うのではなく、母のはらわたの想い、その愛をもって応えます。『その通りです、主よ、でも犬たちも、食卓の下で、子どもたちがこぼしたパン屑を食べます』と」。この女性は、「恥じらいがありませんでした」。そしてその信仰のおかげでイエスは「奇跡を行ったのです」。

「大騒ぎを起こしそうな危険に身をさらしながらも、しぶとく求め、異教主義と偶像崇拝から出てきて自分の娘のための健康(救い)に出会い、娘のために生きた神に出会ったのでした。ここに、善意の人の歩み、神を探し神に出会う歩みがあります。主は彼女を祝福します。どれほど多くの人がこの歩みを行い、どれほど主がそうした人々を待っていることか!とはいえ、同じ聖霊こそがこの人々を前へと導き、この歩みを実現させてくださるのです。主の教会で日々、この歩みを実現する人々がいます。静かに、主に出会うために。なぜなら彼らは聖霊によって前へと運ばれるがままに任せているからです」。

 「けれど、その反対の道も存在します」。それは第一朗読で語られているように、ソロモンがとったあの歩みです。ソロモンは「地上で最も知恵ある人」でした。神から多大な祝福を受けていました。「普遍的な名声、全権」を手にしていました。「神を信じる人」でした。「けれど、何が起こったのでしょうか?」 彼は女性好きで、異教の側女がたくさんいました。彼女たちは「他の神々に従うようにと心を脱線」させました。このようにしてイスラエル(神の民)に偶像たちが導入されたのです。「そしてこうした女性たちが、ゆっくり、ゆっくりとソロモンの心を弱めていきました。その心は、父親のダビデの心のようには、主に完全に留まることはありませんでした」。

「その心は弱まって、弱まって、こうして信仰を失いました。信仰を失ったのです。世界で一番知恵ある人が、無分別な愛、慎み深さのない愛に流されたのです。自分の情慾に流されたのです。『でも神父さん、ソロモンは信仰を失わなかったでしょう。神を信じていて、聖書を暗唱することができたではないですか』。そうですね、それはほんとうです、けれど信仰を持つということは、信仰宣言をそらで言えるということとは別のことなのです。あなたには信仰宣言をそらんじながら、信仰を既に失っているということはあり得るのです」。

 「ソロモンは、父親のダビデと同様に、罪ある人でした。けれど、そのあとで、これを続け、腐敗者になり下がってしまいました。その心は偶像崇拝によって腐敗していたのです。父親は罪びとでしたが、主はそのすべての罪を赦しました。なぜならダビデは謙遜で、ゆるしを乞うたからです」。ソロモンは反対に、「あまりに知恵が」あったものの、虚栄とその情慾がソロモンを腐敗まで導いたのです。まさに心の中でこそ、信仰というのは失われるのです」。

「その情慾の悪い種はソロモンの心の中で育ち、彼を偶像崇拝へと導きました。そしてわたしたちは、第一朗読の後で、アレルヤのところでこの美しい助言を聞きました。『素直にみ言葉を受け入れなさい』と。素直に。『あなたちのうちに受けられたみことばはあなたたちを救いへと導くことができるのです』と。あのカナンの女性、あの異教の女性の歩んだ道を、わたしたちのうちに植えられわたしたちを救いへと導く神の言葉を受け入れながら歩みましょう。神の力強いみことばが、この歩みにおいてわたしたちを見守り、わたしたちを腐敗へと招くことなく、そしてその腐敗がわたしたちを偶像崇拝へと至らせることがありませんように」
(RC-RV)

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