「忍耐は諦めではありません。別のことです」。パパは「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」と書く聖ヤコブの手紙についてコメントした。「托鉢僧になるようにと招かれているかのようです」が、そうではありません。忍耐は、「わたしたちが望まない」試練を耐え抜くことです。それは「わたしたちの人生を成熟させます。忍耐のない人はあらゆるものをすぐに欲しいと望みます。なんでも急いで」。この忍耐の知恵を知らない人は、気まぐれな子どものような、気まぐれな人です。そしてその人にとってはどんなものもよいものではありません。「忍耐のない人は、成長しない人、子どもの気まぐれに留まる人、訪れる人生を、選ぶか捨てるか、責任をもって迎えることのできない人です。これが誘惑のひとつです。気まぐれになってしまうこと」。「もう一つの忍耐のない人の誘惑は、全能であることです」。イエスに「驚くべここと、奇跡を求めて」天からのしるしを求めたファリサイ派の人々にあったように、すぐに何かがあるようにと求めることです。
「彼らは神の働き方と魔法使いの働き方とを勘違いしています。そして神は魔法使いのようには働きません。神には前進していくそのあり方があるのです。神の忍耐です。神にも忍耐があるのです。ゆるしの秘跡に赴くたびに、わたしたちは神の忍耐の賛歌を歌っているのです!どれほどの忍耐をもって主はその背中にわたしたちを背負っていかれるのでしょうか。どれほどの忍耐をもって!キリスト者の生き方はこの忍耐の音楽の上で展開されなければなりません。なぜならまさにわたしたちの父祖の音楽、神の民の音楽、神の言葉を信じ主の掟に従った人々の音楽は、わたしたちの父祖アブラハムに与えられたからです。「わたしの現存のうちに歩みなさい。そしてとがめられるところのない者として生きなさい」。
ヘブラ人への手紙を引用しながらローマ司教は言った。神の民は、「とても苦しみました。迫害され、殺害されてきました」。けれど「遠くから神の約束に心を向ける喜びが」あったのです。「これこそが、試練においてわたしたちが持たなければならない忍耐です。大人の忍耐」、その背中にわたしたちを背負ってくださる「神の忍耐です」。そしてこれこそが「わたしたちの民の忍耐」なのです。
「わたしたちの民はどれほど忍耐強いことでしょう!今日にいたるまでです!小教区に行って、苦しみ、問題を抱え、障害や病気を抱えている子どもを持ちながらも忍耐をもって人生を前に進ませている人々と出会う時です。福音に出てきて[しるしを見せてください]としるしを求めるふりをするようなあの人々のようには、しるしは求めません。違います。求めないのです。けれど時のしるしを読むことができるます。いつイチジクが花を開くのか、いつ春がくるのか知っています。そうしたことを見分けることができるのです。一方、今日の福音に出てくる忍耐のないこうした人々は、しるしを欲しがり、時のしるしを読むことができず、そのためにイエスを認めることがないのです。
フランシスコはその説教を、わたしたちの民の人々、苦しむ人々、あまりに多くの、たくさんのことに苦しみながらも信仰の微笑みを失わず信仰の喜びを持っている人々」をたたえながら結んだ。
「そしてこうした人々は、わたしたちの民なのですが、わたしたちの小教区において、わたしたちの機関において、実に多くの人が、教会を前へと運んでいます。その聖性をもって、その毎日の、日々の聖性をもって。『わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります』(ヤコブ1章2-4節)。主がわたしたち全員に、忍耐を、喜びに満ちた忍耐を、働きにおける忍耐、平和の忍耐をわたしたちに与え、神の忍耐、神が持っておられる忍耐をわたしたちに与え、本当に模範的なわたしたちの忠実な民の忍耐をわたしたちにもたらしてくださいますように」。
(RC-RV)
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