2014年2月18日火曜日

2月14日(金)、朝ミサ説教:キリスト者は「派遣されし者」であり「喜びをもって」福音を宣べ伝える。嘆きながらでは主の望みは行われない


 キリスト者は留まることなく、様々な困難のさらに向こうへといつも歩んでいきます。聖マルタの家での今朝のミサでパパ・フランシスコはこう語った。ヨーロッパの守護聖人であるシリロ(キリル文字の発明者)とメトジオの祝日に、教皇は弟子のアイデンティティに集中して語った。福音は、喜びを持って告げ知らされ、嘆きながらでは主の望みは行われない、と忠告した。そしてオオカミの間でオオカミになってしまう誘惑に気を付けるようにと語った。

 イエスの弟子はどうあるべきなのでしょうか?パパはキリスト者のアイデンティティに留まるためにシリロとメトジオのある方から着想を得て語った。そして使徒言行録からとられた第一朗読についてのコメントをしながら、キリスト者は「派遣されし者」であることを強調した。主はその弟子たちを派遣し、前へと進んでいくように求めます。「そしてこれは、キリスト者が歩む主、いつも前へと進む主の弟子であることを意味します」。

「動きの止まったキリスト者というのは考えられません。留まるキリスト者は病者です。自分のキリスト者としてのアイデンティティにおいて何らかの病に苦しんでいるのです。あのアイデンティティに何らかの病気があるのです。キリスト者は歩み、前進するための弟子です。最後に詩篇において、主の別れの時の言葉を聞きました。『全世界に行って福音を宣べ伝えよ』と。行きなさい。歩みなさい。これです。キリスト者の最初のアイデンティティは歩くことです。もし困難があったとしても歩くこと、困難のもっと向こう側へと行くことです」。

 これは、ピシディアのアンティキアでパウロに起こったことです。「そこではユダヤ人共同体との間に困難がありました」。イエスは、「道の交差点へと行き」、「良い人も悪い人も」招くように「勧告します」。そのように福音書は語っています。「悪い人にもです!」 ですからキリスト者は、「歩み」、「もし困難があっても、それよりもっと向こうへ行き、神の国が近いことを告げ知らせるのです」。キリスト者のアイデンティティの二つ目の局面は、「キリスト者は小羊でい続けなければならないということにあります」。キリスト者は、「小羊です。そしてこのアイデンティティを保たなければならないのです」。主はわたしたちを「オオカミたちのただ中にいる小羊のように」派遣します。けれど、「狼たちに対抗する力」を使うよう提案することができる人がいるでしょうか。ダビデのことを考えてみましょう。「ペリシテ人と戦わなければならなくなった時に、サウルの武具をすべて、それもそうしたら動くことすらできなくなるほどの武具を着せてあげたいと人々は考えました」。そのように、「ダビデ自身ではなく、謙虚ではなく、単純なダビデでは内容に従ったのです。最終的には、ダビデはただ縄だけを手にし、戦いに勝ったのです」。

「小羊のように…。オオカミになることなく…。なぜなら、しばしば、誘惑というのはわたしたちにこう考えさせます。「これは難しい。このオオカミたちはずる賢くて、自分はこのオオカミたちよりもずる賢くなれるんだろうか、一体?」と。小羊です。おろか者ではなく、小羊です。小羊。キリスト者の狡猾さをもって、しかしいつも小羊です。なぜなら、もしあなたが小羊ならば、主があなたを守ってくださるからです。けれどもしあなたがオオカミのように強いと感じているならば、主はあなたを守ることなく、あなたをひとりにし、本物のオオカミたちがあなたをすぐに食べてしまうでしょう。小羊を食べるように」。

 アイデンティティの三つ目の局面は、「キリスト者のスタイル」です。それは「喜び」です。キリスト者は、「主を知っていて、自分と共に主がいることを知っているために歓喜に心躍らせる人々です」。「喜びなくキリスト者として歩むことはできません。歓喜なく小羊として歩むことはできないのです」。「問題の渦中にあっても、困難のただ中でも、自分の過ちや罪のさなかでも、いつでもゆるし助けるイエスの喜びがあるのです」。福音はそういうわけで、「喜びをもって、歩み主によって派遣されたこうした小羊たちによって運ばれて、前進しなければならないのです」。

「アダージョ・ラメントーゾ(ゆっくり、悲しみに満ちて)のリズムのキリスト者、あらゆることに文句を言って、悲しく、そうやっていつも生きているキリスト者は、主にも教会にも喜ばれることをしません…。これは弟子のスタイル(生き方)ではないのです。聖アウグスティヌスはキリスト者たちにこう言います。『行け、前進せよ、歌え、そして歩め!』。喜びをもって。そしてそれこそがキリスト者のスタイルなのです。喜びをもって福音を宣べ伝えること。そして主はこのすべてを行ってくださるのです。一方、極端な悲しみ、この行きすぎの悲しみ、それから苦々しさも、言ってしまえば、キリストのいないキリスト主義を生きるようにと持っていきます。空の十字架がマグダラのマリアのように泣きながら墓の前にいるキリスト者の前にあります。けれどそこには復活者に出会った喜びが欠けているのです」。
(RC-RV)

0 件のコメント:

コメントを投稿