2022年10月26日水曜日

第17回 世界青年の日(ワールド・ユース・デー)メッセージ

 「マリアは立ち上がり、急いで出かけた」

(ルカ139節)

 

大好きな青年の皆さん、

 

 ワールドユースデー、パナマ大会のテーマは「わたしは主のはしため。みことばどおりにこの身に成りますように」(ルカ138節)でした。この出来事の後で、私たちは新しい目的地、2023年リスボンに向けた歩みを再開しています。そこで神さまは、私たちの心に、立ち上がるようにと、急かすような招きをこだまさせています。2020年には、「若者よ、あなたに言う、起き上がりなさい!」(ルカ714節)というイエスの言葉を黙想しました。去年は、使徒聖パウロの体験から着想をもらいました。パウロに向けた復活者イエスの言葉「起き上がりなさい! わたしはあなたを、あなたが見たものごとの証人とする」(使徒2616節参照)です。リスボンにたどり着く前に、まだもう少し歩むべき区間が残っていますが、そこを私たちは、ナザレのおとめマリアと共に歩むことになります。お告げのすぐ後に、「立ち上がり、直ちに出かけた」(ルカ139節)マリアは、いとこのエリサベトを助けに行きます。この三つのテーマに共通の動詞は「立ち上がる」です。それは、思い出しておくといいことですが、「再興(復活)させる」、「命へと目覚めさせる」という意味をも抱えた表現です。

 

 最近は、本当に大変な時で、人類が、すでに世界規模の感染症のトラウマによる試練を味わい、戦争の惨劇によってずたずたにされている中で、マリアはすべての人に、特にマリアのように若い皆さん青年たちに、寄り添いの道、出会いの道を再開します。皆さんの多くが来年の8月にリスボンで体験するであろう経験が、皆さん青年たちにとって、また皆さんと共に、全人類にとって、新しい始まりの時を代表するものとなってほしいと望みますし、そうなると私は確信しています。

 

マリアは立ち上がった

 

 マリアは、お告げの後で、自分自身にかかりきりになる可能性もありました。自分の身に降りかかった新しい状況の性で、心配もしたでしょうし、恐れもあったでしょうから。けれどそれはしませんでした。マリアは神に完全に信頼しました。むしろエリサベトのことを考えました。立ち上がり、太陽の光の下、命や動きのある所に出かけて行きました。たしかに天使の衝撃的なお告げは、彼女の人生計画にいわゆる「地震」を起こしたにもかかわらず、この若きマリアは、固まらせる力に身を任せることはありませんでした。なぜなら彼女はイエス、つまり復活の力と共にいたからです。マリアの中に、すでにいけにえの小羊がいました。いけにえでありつつも、いつも生きておられる方として。マリアは立ち上がり、歩みを始めます。なぜなら、神の諸計画こそが、彼女の人生にとってあり得る最高のプロジェクトであることを確信していたからです。マリアは神の神殿になりました。歩く教会の模範的姿になりました。出かけて行って奉仕を始める教会、良いニュース(福音)を運ぶ教会になりました。

 

 自分自身の中に復活したキリストの現存を体験すること、「生きた」キリストと出会うこと、これこそが霊的な最高の喜びです。これは、だれもが「のんびり」していられなくなる光の爆散なのです。私たちを即座に行動へと移させ、このニュースを他の人たちに伝えるように、この出会いの喜びの証しをするようにと後押しをします。この力が、復活後の日々に、最初の弟子たちの走りを支えたものです。「婦人たちは恐れていたが、喜びにあふれ、急いで墓から離れ、弟子たちにこの知らせを告げに行った」(マタイ288節)。

 

 復活のお話しは、頻繁に二つの動詞を用います。「気付く(目覚める)」と「立ち上がる」です。これらを持って、主は和得た士たちに光のもとに出ていくように、私たちのもとにある閉ざされた扉すべての敷居をまたぐため、主に導かれるに任せるようにと促します。「これは教会にとって意味深いイメージです。私たちも主の弟子として、またキリスト者共同体として、即座に立ち上がるように招かれています。それは、復活の躍動力の中に入って行くためであり、また主が私たちに示そうとしておられる道のさなかで主に導かれるに任せるためです」(2022629日、聖ペトロとパウロの祭日説教)。

 

 主の母は、行動する青年たちの模範です。鏡の前で自分の姿に見とれて動かない人や、ネットに「囚われている」人ではありません。マリアは完全に、外向きの方向性を持っています。マリアは復活を生きる女性です。いつも出エジプトの状態にあります。自分から出て、偉大な「他者」、つまり神に向かい、また他の人びとに向かいます。他の人びとというのは、ちょうどいとこのエリサベトがそうであったように、兄弟姉妹、特に助けを必要としている人々です。

 

 

…そして直ちに出かけた

 

 ミラノの聖アンブロジオは、ルカによる福音の注解の中で、こう書いています。マリアは山間部に向けて出かけましたが、それは「喜びに満たされ、直ちに、慈愛を果たすべきという願いに促されているのを感じたからです。何か奉仕できないかと心から望み、その激しい喜びに急かされるように向かいます。もはや完全に神に満たされたマリアは、急いで高みに向かう以外、どこに向かっていくことができたというのでしょう。実際、聖霊の恵みは、遅さというものを知りません」。マリアの迅速な動きは、そのようなわけで、奉仕の要求への対応であり、喜びに満ちた福音の宣言であり、聖霊の恵みに対する迅速な応答なのです。

 マリアは高齢のいとこの必要性を前に問い質されました。たじろぐことも、無関心にとどまることもありませんでした。自分のことよりも、他の人たちのことの方を考えていました。この態度が彼女の生き方に躍動感と熱意をもたらしました。皆さんも一人ひとり、自問してみるといいでしょう。「自分の周りの人に見られる必要性に、自分はどのように関わっているだろうか」「すぐに見過ごすための言い訳を考えてしまうだろうか、それとも関心を持ち、いつでも助けられる心構えをするだろうか」 当然のことながら、皆さんには、世界の問題のすべてを解決することはできません。けれどきっと、一番近くにいる人たちや、自分の住んでいる地域の問題から始めることができるでしょう。かつて、マザーテレサはこのように言われたことがあります。「あなたがなさっていることは、大洋の一滴にすぎません」。これに対してマザーテレサは、「けれどもしそれをしないなら、大洋には一滴分が不足するでしょう」。

 

 具体的で緊急の必要性を前にしたら、迅速に行動しなければなりません。世の中で、どれほどの人が誰か世話をしてくれる人の訪問を待っていることでしょう! どれほどの高齢者、病人、囚人、難民が、私たちのいつくしみに満ちたまなざし、私たちの訪問、無関心の障壁を崩す兄弟姉妹を待っていることでしょう!

 

 大好きな青年の皆さん、どんな「急ぎの用事」が皆さんを動かしていますか。じっとしていられなくなるような、皆さんに動こうという促しを感じさせるものは何ですか。世界規模の感染症や、戦争、強制力を受けた移民、貧困、暴力、自然災害のような現実によって苦しむ多くの人びとは、自問しています。「なぜ私にこんなことが?」「なぜよりによって私に?」「なぜ今?」ですから、私たちの実存の中心的な質問は、「私はだれのためにいるのだろう?」なのです(シノドス後勧告『キリストは生きている』286参照)。

 ナザレの若きおとめの急ぎの用事は、主から尋常ではない賜物をいただいた人たちの持つそれです。これを分かち合わずにはいられず、体験した計り知れないほど大きな恵みをあふれ返らせずにはいられません。

 それは、自分の必要性よりも他の人びとの必要性を第一に据えることのできる人たちの持つそれです。マリアは他の人たちからの評価を求めることや、人の注意を引くことで時間を無駄にするようなことのない、若い人の模範です。ソーシャルネットワークで「いいね」を押してもらうことに依存するようなものとは違います。むしろ、出会いや分かち合い、愛や奉仕から生じてくる、よりほんもののつながりを求めて自ら行動します。

 

 お告げの瞬間に始まり、はじめてその親戚のエリサベトを訪問しに行った時から、マリアは助けを求める子らを訪問するために時間も空間も乗り越えるのをやめたことがありません。私たちの歩みは、もし神が宿っておられるなら、直接、私たちの兄弟姉妹の一人ひとりの心に私たちを連れて行きます。イエスの母であり、私たちの母であるマリアによる「訪問を受けた」人々の証言が、本当にたくさん私たちの所に届くんですよ! 遠く離れた地で、何世紀もの間、ご出現や特別なお恵みを伴って、マリアはその民を訪問してこられました。実際、マリアによる訪問を受けた所のない場所など、この地上にはありません。神の母は、愛に満ちた優しさに突き動かされてその民のさなかを歩み、人びとの苦悩や世の移ろいを自分のものとして受け止めます。そういうわけで、マリア聖地やマリアに捧げられた教会、小聖堂に足を運ぶ子らの数は多いのです。本当に多くの信心業の表現があるのですよ! 巡礼や祝祭日、嘆願や家庭での聖母像訪問、まだまだ他にもいろいろな具体的な形で、主の母とその民が互いに訪問し合う、生きた関係性が紡がれています。

 

「良い」急ぎの姿勢は、いつも私たちを高みへ、また他の人びとへと後押しする

 

 「良い」急ぎの姿勢は、いつも私たちを高みへ、また他の人びとへと後押しします。良くない急ぎの姿勢も存在しています。例えば、表面的に生きることや、すべてを軽く受け止めること、献身の約束もなく、人のことを気にすることもなく、自分がしていることに本当に参与することもないような、そういう生き方へと導くものです。そういう急ぎは、思考も、ましてや心も使うことなく、他の人たちと生活し、学び、働き、遊びに出かける時の性急な態度です。こうしたことは、相互の人間関係において生じうることです。家の中だと、家族のことにしっかり耳を傾けない時や、家族のために時間をかけない時に生じます。友情の場合、友だちが自分を楽しませ、必要を満たしてくれるようにとは期待するのに、相手が危機に陥るとか、こちらに何かを要求してくるとなると、すぐに相手を避け、他の人に身を寄せるような時です。さらには、愛情面の絡む関係にもあります。恋人同士の場合、互いを深く知り合い、深く理解し合うための忍耐を持っている人は多くはありません。こうした態度は学校や職場、また他の日々の生活の場面にもあり得るでしょう。ともかく、こうしたことが性急に体験される場合、実りをもたらす可能性はかなり低くなります。不毛のままであり続ける危険性が存在しています。これが、箴言の書で読んでいるものなのです。「勤勉な人はよく計画して利益を得、あわてて事を行う者は欠損をまねく」(箴言215節)。

 

 ついにマリアがザカリアとエリサベトの家に到着したとき、すばらしい出会いの場が生み出されました。エリサベトは神から自分に向けられた驚異的な介入を体験し、その老齢にも関わらず息子を授かりました。自分のことをまず語ってもおかしくない十分な理由がありましたが、自分のことでいっぱいにはならず、若い親戚のマリアとその胎内の御子を出迎えるように心が傾いていました。マリアの挨拶を聞くや否や、エリサベトは聖霊に満たされました。こうした聖霊による驚きや侵入の出来事は、ほんもののホスピタリティを体験する時、つまり中心を自分自身ではなくホスペス(宿泊者)を据えた時に生じます。このようなことは、ザアカイの物語でも見受けられます。ルカ1956節にはこう書いてあります。「イエスはその場所[ザアカイがいた所]に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」。

 

 私たちの多くは、イエスが予期せぬ時に、私たちに会いに出て来られたことを体験しています。最初は、イエスの中に親近感や尊重、偏見の不在、断罪の不在、他の人の中には見たことのないようないつくしみのまなざしを味わいます。それだけでなく、イエスは遠くから私たちを見つめるだけでは飽き足らず、私たちと共にいて、私たちとその生活の時を分かち合いたいと望んでおられるのを感じます。この体験の喜びは、私たちの中に、イエスを向か入れるのに急ぐ態度、イエスと共にいて、よりよくイエスのことを知ることの緊急性が目覚めます。エリサベトとザカリアはマリアとイエスを迎え入れました。この二人の高齢者たちから、ホスピタリティとは何を意味するのかを学びましょう! 皆さんのご両親や祖父母の方々、また共同体にいらっしゃる高齢者の皆さんに、彼らにとって神さまや他の人たちに対するホスピタリティを提供するとは何を意味するのか、質問してごらんなさい。皆さんに先立つ方々の体験に耳を傾けるのは、皆さんにとって益となるでしょう。

 

 大好きな青年の皆さん、今こそ、若いマリアと年老いたエリサベトの間に生じたように、具体的な出会いの歩み、自分とは異なる人たちを真に迎え入れる歩みを、もう一度始める時です。こうして初めて、私たちは世代間の距離、社会層間の距離、あらゆる民族やあらゆるグループ間の距離、さらには戦争までをも凌駕することができるのです。青年たちは、いつでも断片化され分断された人類にとっての新たな一致の希望です。けれどそれが可能なのは、しっかりと記憶に結び付いていること、年輩の方々の体験談や夢に耳を傾けたときだけです。「前世紀に戦争を体験した世代がいなくなりつつある今、ヨーロッパで戦争が再び起きたことは偶然ではないでしょう」(第2回「祖父母と高齢者のための世界祈願日」教皇メッセージ)。歴史の教訓を忘れないため、また現代の二極化や過激思想を乗り越えるために、青年たちと高齢者の間の契りが必要です。

 エフェソの信徒たちに書簡をしたためながら、聖パウロはこう告げます。「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し(たのです)」(21314節)。イエスは、各時代に人類が抱える挑戦に対する神の応答です。そしてこの応答を内に携え、エリサベトとの出会いの場に赴くのです。高齢の親戚エリサベトに対するマリアからの一番のプレゼントは、イエスを彼女のもとに連れていくことでした。確かに、具体的なお手伝いもかけがえのないものです。けれど、おとめマリアを生ける神の聖所に変えた、おとめの胎内のイエスの現存ほど、ザカリアの家を大きな喜びと意味で満たすことのできるものはありませんでした。この山間部で、イエスは、その現存だけで、一言も発せず、その最初の「山上の垂訓」を行ったのです。沈黙のうちに、神のいつくしみに信頼する小さき者やへりくだった者の祝福を宣言したのです。

 

 青年の皆さん、私が皆さんに伝えたいのは、教会が運ぶ大きなメッセージはイエスだ、ということです! そうです、イエス自身、私たち一人ひとりへのその無限の愛、その救い、私たちに与えられた新たな命です。そしてマリアは、この計り知れないほどすばらしい賜物を私たちの生活に迎え、他の人びとにそれを伝えるにはどうすればいいかの模範です。そこでマリアは私たちをキリストの運び手とし、苦しむ人類にその共感に満ちた愛や寛大な奉仕を運ぶ者とするのです。

 

 

みんな一緒にリスボンへ!

 

 マリアは、皆さんのような青年でした。私たちのうちの一人でした。トニーノ・ベリョ司教は、マリアについてこう書きました。「聖マリアよ、[…]周知のとおり、あなたは岸から離れた航海へと連れて行かれました。けれどもし私たちがあなたに、岸の近くを帆走するようにと強いるなら、それは、あなたを私たちの小さな沿岸輸送に狭めようと望んでのことではありません。あなたを私たちの落胆の海岸線からこれほど近くに見据えることで、私たちもあなたのように、自由と言う大洋を進む冒険へと招かれていたのだという意識を取り戻すことができるからです」(『マリア、私たちの時代の女性』、マドリッド、1996年、11頁)。

 

 この三連のWYDメッセージの最初のメッセージで喚起したように、ポルトガルから、十五世紀や十六世紀に、多くの青年たち――その多くは宣教師でした――が、未踏の地に向かって船出しました。自分のイエスとの体験を他の人びとや国々に分かち合うためでした(2020WYDメッセージ参照)。そしてこの地に、二十世紀の初頭、マリアは特別な訪問をしたいと望み、ファティマから全世代の人びとに、回心と真の解放へと招く神の愛の強力で驚くべきメッセージを投げかけました。改めて、来年の8月にリスボンのワールドユースデー国際大会で頂点を迎える青年による国際巡礼に参加するように、そして今度の1120日、王たるキリストの祭日には、全世界のそれぞれの教会で世界青年の日を祝うようにと、熱い想いで皆さん一人一人をお招きします。この点について、いのち・信徒・家庭省が最近出した文書『それぞれの教会で世界青年の日を祝うための司牧的手引き』は、青年司牧で働くすべての人にとって、大きな助けとなるでしょう。

 

 大好きな青年の皆さん、ワールドユースデーで、皆さんが今一度、神との出会いの喜び、兄弟姉妹との出会いの喜びを体験できることを私は夢見ています。距離感と孤立の長い期間の後で、リスボンで、神の助けのもと、国籍と世代を超えた兄弟愛に満ちた抱擁の喜び、和解と平和の抱擁、新たな宣教的兄弟愛の抱擁の喜びを共に再発見しましょう。聖霊が皆さんの心に、シノドス(共同の道づくり)らしいスタイルで、偽りの境界線から離れ、立ち上がる望み、皆で共に歩む喜びを、燃え立たせてくださいますように。今こそ、立ち上がるときです! 直ちに立ち上がりましょう! そして、マリアのように、私たちの内にイエスを運び、すべての人とこのイエスを分かち合いましょう。この皆さんの人生の美しい瞬間に、前進し続けてください。そして聖霊が皆さんの中で行いうることを後回しにしないでください。心を込めて、皆さんの夢と皆さんの歩みに祝福を送ります。

 

2022815日、聖母被昇天祭に、

ローマ、ラテランの聖ヨハネ大聖堂より

フランシスコ

2020年12月30日水曜日

使徒的書簡『父親の心で』 終わりに

 


 「起きて、子供とその母親を連れていけ」(Mt 2,13)と、神は聖ヨセフに言いました。

 この使徒的書簡の目的は、この偉大な成人への愛が育つためです。そうしてその取次ぎを求め、その諸徳を模倣し、またその解決への向かい方をも模倣するようにと皆さんが促されるようにと望みました。

 実際、聖人たちの具体的な使命というのは、奇跡やお恵みをくださることだけではなく、アブラハム[1]やモーセ[2]がしたように、そして「唯一の仲介者」であり(1 Tm 2,5)、御父の前でのわたしたちの「弁護者」であり(1 Jn 2,1)、「常に生きていて、人々のために執り成しておられる」(Hb 7,25; cf. Rm 8,34)イエスがしているように、神の前でわたしたちのために取り次ぐことにあります。

 聖人たちはすべての信者が「キリスト者の生活の[3]十全な状態と愛徳の完成」に至るようにと助けます。その生涯は、福音を生きることは可能であるということの具体的な証拠です。

 イエスは「わたしに学びなさい。わたしは柔和で謙遜な心の持ち主だから」(Mt 11,29) と言い、彼らは同時に模倣する生き方の模範です。聖パウロは「わたしに倣う者になりなさい」(1 Co 4,16)とはっきりと勧告しました[4]。聖ヨセフはその雄弁な沈黙を通してこれを告げました。

 多くの聖人聖女の模範を前に、聖アウグスティヌスは自問しました。「あなたはこうした聖人聖女の一人になれないのか?」と。そうして決定的な回心に至った時に、「これほどまでに古く、これほどまでに新しい美であるあなたを愛するのに、こんなにも遅くなってしまいました!」と叫びました[5]

 あらゆる恵みの中の一番の恵み、つまりわたしたちの回心という恵みを、聖ヨセフに求めるほかありません。

 このようにヨセフに祈りを向けましょう。

 贖い主の庇護者、おとめマリアの夫。

 神はあなたに御子を託し、マリアはあなたにその信頼を寄せ

キリストはあなたと共に人としての成長を果たしました。

 

 あぁ、幸いなるヨセフ、

 わたしたちにも父親としてご自身を示し、人生の歩みの中で導いてください。

 わたしたちに恵みといつくしみ、勇気を与え、

 あらゆる悪からお守りください。アーメン。

 

ローマ、ラテランの聖ヨハネ聖堂にて。

2020年、私の教皇職8年目の128日、聖母マリアの無原罪の宿りの祭日に。

フランシスコ



[1] Cf. Gn 18,23-32.

[2] Cf. Ex 17,8-13; 32,30-35.

[3] Conc. Ecum. Vat. II, Const. dogm. Lumen gentium, 42.

[4] Cf. 1 Co 11,1; Flp 3,17; 1 Ts 1,6.

[5] 『告白録』、8, 11, 27: PL 32, 761; 10, 27, 38: PL 32, 795.

使徒的書簡『父親の心で』 7.影にいる父親


 

 ヤン・ドブラチンスキーというポーランド人の作家は、その本『父の影』という本[1]の中で、聖ヨセフの生涯を小説化しました。影を想起させるようなイメージをもってヨセフの人物像を定めています。イエスにとって天の御父の地上における影、つまり彼を助け、守り、その歩みを続けるために決して彼のそばから離れない存在として見ているのです。モーセがイスラエルの民に思い起こさせていたあのことを考えましょう。「荒れ野でも、…あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た(Dt 1,31)。そのようにヨセフは全生涯を通して父としての役割を果たし切りした[2]

 誰も父親として生まれることはなく、父親になっていくものです。そして子を世に生み出すことだけで父親になれるのではなく、責任感を持って子の面倒をみることによって父親になるのです。誰かの人の人生の責任を引き受ける時はいつも、何らかの意味で、その人に関して父の役割を果たすことになります。

 わたしたちの現代の社会において、しばしば子どもたちには、父親がいないかのように見えることがあります。近年の教会も、父親たちを必要としています。聖パウロのコリントの人々に向けられた警告は、いつでも時宜にかなっています。「養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない」(1 Co 4,15)ですし、司祭や司教も使徒パウロのように語ることができるはずです。「福音を通し、キリスト・イエスにおいてあなたがたをもうけたのはわたしです(わたしがあなたがたをもうけたのです)」(ibíd.)。そしてパウロはガラテヤの人々にはこう言います。「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、あなたがたを産もうともう一度苦しんでいます」(4,19)

 父親であるということは、子どもを人生の経験へ、現実へと導くことを意味します。留めおくためでも、閉じ込めておくためでも、独占するためでもなく、選び、自由であり、出かけていけるようにするためです。おそらく、この理由で、伝統は、ヨセフに、父親という愛称に、「最も貞潔な」という言葉を添えてきたのでしょう。これは単に愛情面の指摘だけではなく、独占することとは正反対のことを表現する一つの態度のまとめです。貞潔とは、人生のあらゆる環境において所有の願望から自由であることにあります。愛が貞潔なものである時のみ、ほんものの愛であると言えます。所有したがる愛は、最終的に、危険で、閉じ込め、窒息させ、不幸にします。神ご自身が人を貞潔な愛で愛し、誤ったり神に対立することまでも含めて自由なままにしたのです。愛の論理はいつも自由の論理であり、ヨセフは特に尋常ではないほど自由な仕方で愛する能力のある人でした。決して自らを中心に置きませんでした。自分の人生の中心にマリアとイエスを置くために、自らを中心から外すにはどうすればいいかをよく知っていたのです。

 ヨセフの幸福は、自己犠牲の論理にあるのではなく、自分自身の賜物のうちにあります。この人の中では決して欲求不満は感じられず、ただ信頼のみが感じられます。その徹底した沈黙は、不平を見つめるのではなく、信頼という具体的なしぐさを心の目で捕えます。世界は父親を必要としており、オーナーを拒絶します。つまり、自分の虚しさを埋めるために他者の所有物を用いたがるような人を拒みます。権威を権威主義と履き違え、奉仕を屈従と履き違え、取り組みを圧迫と履き違え、愛徳を福祉マニアと履き違え、力を破壊と履き違える人々を退けます。ほんものの召命はすべて、単純な犠牲が成熟した状態である、自分自身という賜物から生まれます。司祭であることや奉献生活にもこのタイプの成熟が求められます。結婚生活であれ、独身生活であれ、処女性であれ、召命が、犠牲という論理にのみとどまり、自分自身を捧げるという成熟に至らないときには、愛の美しさと喜びのしるしとなる代わりに、不幸や悲しみ、欲求不満を表現する危険に陥ります。

 子どもという生き方をする誘惑を退ける父性は、いつも新しいスペースに対して開かれています。子どもは誰でも自分と共に神秘を携えています。それは、その自由を尊重してくれる父親の助けと共にのみ開かれうる、何か形容しがたいものです。自分が「使えない」ものになった時、子どもが自律的になり、ひとりで人生の小道を歩めるようになった時、いつも幼子が自分のものではなく、単に面倒を見るようにと託されたものであるということを知っていたヨセフの状況に身を置いた時、その教育活動が完成し、その父親としての役割が完全に生き抜かれたことになるということを父親は自覚するのです。結局、それこそイエスが提言していることになります。「地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」(Mt 23,9)

 父親の役割を果たす状況にある時はいつも、これが決して所有するという行為ではなく、より上位の父としてのあり方を思い起こさせる「しるし」であるのだと心に刻んでおかなければなりません。ある意味で、誰もがヨセフの状況にあります。「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」唯一の天の御父の影であり(Mt 5,45)、御子について回る影なのです。

 

* * *



[1] 原本:『Cień Ojca, Varsovia 1977.

[2] Cf. S. Juan Pablo II, Exhort. ap. Redemptoris custos, 7-8: AAS 82 (1990), 12-16.

使徒的書簡『父親の心で』 6.労働するの父親

 


 聖ヨセフの特徴を表し、最初の社会回勅、レオ十三世の『レールム・ノヴァールム』の時代から強調されてきた一つの局面は、ヨセフの労働との関係です。聖ヨセフは、家族の生計を成り立たせるために正直に働いていた大工でした。ヨセフから、イエスは、自分の労働の実りであるパンを食べるということの意義に見られる価値、尊厳、喜びを学びました。

 わたしたちのいる現代というのは、労働がまるで緊急の社会問題を代表するようになり、時に無職がものすごいレベルにまで達する時代にあり、しかも何十年もの間ある程度の生活の安定を体験してきた国々においてすら、意識を新たにして尊厳を与え、わたしたちの聖人(ヨセフ)が模範的な保護者である労働の意味を理解する必要があります。

 労働は、救いのわざそのものへの参与、自らの可能性と質を社会と交わりへと奉仕させつつ発展させるために、御国の到来を早めるための機会となります。労働は、自分自身のためだけではなく、何よりもその社会の起源的な核である家族のためにも自己実現の機会となります。労働に欠ける家族は、より多く困難や緊張、断絶、さらに絶望的で崩壊という絶望をもたらす誘惑にさらされています。全員、そして一人一人が尊厳ある生活条件の可能性を持てるように献身することなくどうして人間の尊厳について語ることなどできるでしょうか。

 労働する人は、その務めが何であれ、神ご自身に協力し、わたしたちを取り囲む世界の創造者に少しだけなります。わたしたちの生きる現代の危機は、経済危機、社会危機、文化危機、霊的な危機とありますが、全ての人に対して、誰も除外されたままではない、新しい「日常」に場をゆずるための労働の意義、重要性、必要性を再発見するようにとの呼びかけを代弁し得るものです。聖ヨセフの仕事は、人となられた神ご自身は労働を軽蔑しなかったことを思い起こさせます。多くの兄弟姉妹をむしばんでおり、新型コロナウイルスの世界的蔓延によって最近さらに増加をしてきた労働の喪失は、わたしたちが何を優先すべきかについて再考するための呼びかけに違いありません。青年の誰も、どんな人も、どんな家族も、仕事のない状態にありませんように!とわたしたちが言うようになれる道を見出せるように、労働者聖ヨセフに祈りましょう。

使徒的書簡『父親の心で』 5.クリエイティブな勇気のある父親

 


 もしも真の内なる癒しのあらゆるステージの最初の段階が自分自身の歩みの歴史を歓迎すること、つまり、自分自身の中に、自分の人生において自分で選んだわけではないものも含め、そのための場を作ることであるならば、もう一つの重要な特徴を付け加える必要があります。クリエイティブな勇気です。これは、特に困難に出会うときに生じます。実際、ある問題に直面する時、わたしたちは、自分の動きを止めて、両腕を下げてしまうこともあり得ますし、あるいは何らかの仕方でこれに対処できるすべを身につけることもあり得ます。時々、困難は、まさに持てると思いもしなかったような能力を私たち一人一人の中で輝かせるきっかけになり得ます。

 しばしば、「幼児期の福音」を読みながら、なぜ神は直接明白な仕方で介入しなかったのだろうかと自問することがあります。けれど神は、出来事や人々を通して行動します。ヨセフは、贖いの歴史のはじめに神がその存在で満たした人です。ヨセフは、神が彼と共に幼子とその母親を救ったという、ほんものの「奇跡」でした。天は、この人のクリエイティブな勇気を信頼して介入しました。ヨセフがベトレヘムに着いて、マリアが出産するための場所を見つけることができなかった時に、馬小屋に入って環境を整え、そこを世に来られようとしていた神の御子のためのもっとも歓迎する精神に満ちた場へと変えたのです(cf. Lc 2,6-7)。幼子を殺したがっていたヘロデの差し迫る危険を前に、幼子を守るために今一度夢の中で忠告を受け、夜中にエジプトへの逃亡計画を整えました(cf. Mt 2,13-14)

 こうした物語の表面的な読書からは、いつもは世界が強い人、権力ある人に都合の良いようにできているような印象が与えられるものですが、福音の「良い知らせ」とは、地上的な為政者の傲慢や暴力にもかかわらず、神がその救いの計画を実現するための道をいつも見出す方法を示して下さることにあります。わたしたちの人生も、より強い権力の手の上にあるように思われることがしばしばですが、福音は、「摂理」に信頼をいつも何よりも前において、問題を一つの機会に変容させることができたあのナザレの大工と同様のクリエイティブな勇気を持つことを条件として、神は重要であるものをいつも救うことができると語っています。

 もし時々、神がわたしたちを助けてくれないと思われるならば、それはわたしたちを神が見捨てたということではなく、わたしたちにある、計画し、発明し、出会う能力に信頼しているということなのです。

 これは、中風の人の友だちが、イエスに彼を連れていくにあたり、天井から彼を下した時に示したあのクリエイティブな勇気と同じです(cf. Lc 5,17-26)困難はあの友人たちの大胆さと意地を留めることはできませんでした。彼らは、イエスが病人を癒すことができると信じて疑いませんでした。そして「群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた」(vv. 19-20)。その人たちが病気の友人をイエスの下まで何とかして連れて行こうとしたクリエイティブな信仰を認めたのです。

 福音はマリアとヨセフ、イエスがエジプトにとどまった時に関する情報を一切与えていません。しかしながら、確かなことは、食べたり、家を見つけたり、仕事を見つけたりする必要性があっただろうということです。この点にかんして福音の沈黙を生めるためにはそれほど多くの想像力を必要とはしません。聖家族はほかのどの家族とも同じような具体的な問題、わたしたちの移民兄弟姉妹たち、逆境や飢えのために否応なく命を危険にさらしている今日の移民の皆さんと土曜に、具体的な問題に向き合わなければなりませんでした。この点に関して、聖ヨセフは本当に、戦争や憎悪、迫害や悲惨な状況が理由で自分の土地を離れなければならないすべての人々にとって特別な聖なる保護者であるとわたしは思います。

 ヨセフが主人公になっている各物語の最後に、福音はヨセフが立ち上がり、幼子とその母親を連れて、神が自分に命じたことを行ったと指摘しています(cf. Mt 1,24; 2,14.21)。実際、イエスとその母マリアは、わたしたちの侵攻のもっとも貴重な宝物です[1]

 救いの計画において御子を、「信仰の巡礼の旅路を進み、忠実にその子との一致を十字架に至るまで保った母から分けることはできません」[2]

 常にわたしたちは自問しなければなりません。神秘的な仕方で私たちの責任、ケア、見守りに託されているイエスとマリアをわたしたちは全力で守っているかどうか、と。全能者の御子は世に来て、大いなる弱さという条件を引き受けました。防護され、保護され、ケアされ、育てられるためにヨセフを必要としました。ヨセフの中に自分の命を救うだけではなく、いつもマリアやその幼子のために目を覚ましていることになる姿を見出したマリアがヨセフにするのと同じ仕方で、神はこの人に信頼しました。この意味で、聖ヨセフは、教会の庇護者でなくなるということはあり得ません。なぜなら「教会」は歴史におけるキリストの「体」の延長であり、同時に、教会の母性のうちにマリアの母性を示すからです[3]。ヨセフは、教会を保護し続けると同時に、幼子とその母親を庇護し続けています。そしてわたしたちも、教会を愛しながら、幼子とその母を愛し続けるのです。

 この幼子こそ、後に「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(Mt 25,40)と言うことになる方なのです。このように、困窮にある人、貧しい人、苦しむ人、死が間近な人、外国人、刑務所の人、病人一人一人が、ヨセフが庇護し続けている「子」なのです。そのため聖ヨセフを貧しい人の保護者、困窮者の保護者、流刑者の保護者、苦しむ人、貧乏な人、死が間近な人の保護者として呼びかけられるのです。そして同じ理由で、教会はより小さな者たちを愛さずにはいられません。というのも、イエスが彼らを優先し、個人的に彼らと自分を同類とみなしたからです。わたしたちはヨセフから、同じケアと責任を学ばなければなりません。幼子とその母を愛することを。諸秘跡と愛徳の業を愛すること、教会と貧しい人たちを愛すること、こうした現実の一つ一つの中で、いつも幼子とその母を愛することを。



[1] Cf. S. Rituum Congreg., Quemadmodum Deus (8 diciembre 1870): ASS 6 (1870-71), 193; B. Pío IX, Carta ap. Inclytum Patriarcham (7 julio 1871): l.c., 324-327.

[2] Conc. Ecum. Vat. II, Const. dogm. Lumen gentium, 58.

[3] Cf. Catecismo de la Iglesia Católica, 963-970.

使徒的書簡『父親の心で』 4.歓迎する父親



 ヨセフは前提条件をつけることなくマリアを迎え入れました。天使の言葉に信頼しました。「ヨセフはその心の貴さをもって、律法において学んだことを愛徳の下に従属させました。そして今日、女性に対する心理的暴力、言葉の暴力、身体的な暴力が明らかなこの世界の中で、ヨセフはまだあらゆる情報がないうちに、マリアの名誉、尊厳、生命によって決断する、尊重と繊細さを兼ね揃えた男性像として現れます。そして、よりよくするにはどうすればいいかとういうその疑いの中で、神は彼の判断を照らしながら選択の助けとなりました」[1]

 人生の中ではしばしば、意味が理解できないような出来事が起こります。わたしたちの最初の反応と言えば、しばしば落胆や反抗です。生じたことに対して歩を進めるために自分の理性判断を脇にやり、どれほど神秘に満ちているように思えても、これを受け入れ、責任を引き受け、自らの歴史と折り合いをつけます。もしわたしたちが自分たち自身の歴史と折り合いをつけられないなら、次の一歩に踏み出すこともできないでしょう。なぜならそのままではいつもわたしたち自身が思い描いた期待と、この結果もたらされる幻滅の囚人となってしまうでしょうから。

 ヨセフの霊的生活は、わたしたちに説明の方法ではなく、歓迎の方法を示します。この歓迎、この和解(折り合い)に端を発してのみ、より大いなる歴史、より深い意義をも感じ取ることがでるのです。どうやらヨブが、生じたあらゆる災厄に対して反抗するようにとの妻の招きを前に答えとして発した情熱的な言葉をこだまさせているかのようです。「わたしたちは、神から良いもの(幸福)をいただいたのだから、悪いもの(不幸)もいただこうではないか(Jb 2,10)

 ヨセフは、受動的に仕方なくあきらめる人ではありません。ヨセフは勇気と力に満ちた主人です。歓迎とは、聖霊からわたしたちにもたらされる剛毅の賜物がわたしたちの生活の中で示される一つの方法です。主のみがわたしたちに、人生をありのままに受け入れ、その矛盾的で予期せぬ、存在の失望の部分にも場を与える力をくださることがおできになる方なのです。

 わたしたちの間へのイエスの到来は、御父からのプレゼントであり、そうして一人一人が、すべてのことについて理解せずとも、自分自身の歴史の肉(本質)の部分と折り合いをつけることができるようにしてくれます。

 それは、神がわたしたちの見ている聖人に向かって言っていることと同じです「ヨセフ、ダビデの子、恐れることはない」(Mt 1,20)という言葉は、わたしたちにも繰り返されているかのようです。「皆さん、恐れることはありません!」と。わたしたちの怒りや失望を脇にやり、この世的な諦めなしに、希望に満ちた力をもって、自分たちが選んだわけではないけれどそこにあるものに対して場を与えなければなりません。このような形で人生を歓迎することは、私たちを隠された意義との出会いへと導きます。わたしたち一人一人の人生は、もし福音がわたしたちに語るようにそれを生きるための勇気を見出すならば、奇跡的に新たに始められるものになるのです。そしてたとば今すべてが誤った道を選んできてしまったかのように見えたり、ある問いが不可逆的に見えたとしても、それは重要ではありません。神は花を岩の間に芽生えさせることができるお方なのです。自分の良心が何かについてわたしたちを咎める時ですら、「神は、わたしたちの良心(心)よりも大きく、すべてをご存じだからです」(1 Jn 3,20)

 存在するものを一切拒まないキリスト教の現実主義が今一度回復します。現実とは、決して簡略化されうることのない複雑さのうちに、その光と闇をそなえた存在の意義を持つものです。それゆえ使徒パウロはこう断言しています。「神を愛する者たち…には、万事が益となるように貢献するということを、わたしたちは知っています」(Rm 8,28)。そして聖アウグスティヌスはこう付け加えています。「たとえ悪とわたしたちが読んでいるものですら(etiam illud quod malum dicitur)[2]。この一般的なものの見方において信仰は、幸福でも悲しくても、一つ一つの出来事に意味を与えます。

 そこで、信じるよりも考えることが良いとは、慰めるよりも簡単な解決を見出すほうが大切だということを意味しているというようなもののとらえ方は、わたしたちから遠くにあってほしいものです。他方、キリストがわたしたちに教えてくださった信仰は、聖ヨセフのうちにわたしたちが見ている信仰であり、これによってヨセフは近道を探すことなく、「目をよく見開いて」自分に生じたことに向き合い、第一人称でその責任を引き受けたのです。

 ヨセフにある歓迎の姿勢は、他の人々を、例外なく、ありのままに、弱者への優先性を持って歓迎するようにわたしたちを招いています。なぜなら、神は弱い者を選び(cf. 1 Co 1,27)、「みなしごの父となり、やもめの訴えを取り上げてくださる」方であり、他国から来た人を愛するようにと命じる方だからです[3]。わたしは、イエスがヨセフの態度を、放蕩息子といつくしみ深い父親のたとえ話のためのモデルとしたのではないかとイメージしたのではないかと思いたくなってしまいます(cf. Lc 15,11-32)



[1] Homilía en la Santa Misa con beatificaciones, Villavicencio – Colombia (8 septiembre 2017): AAS 109 (2017), 1061.

[2] Enchiridion de fide, spe et caritate, 3.11: PL 40, 236.

[3] Cf. Dt 10,19; Ex 22,20-22; Lc 10,29-37.


使徒的書簡『父親の心で』 3.聴き従う父親

 


 神はご自分の救いの計画をマリアに示した時と同様に、ヨセフにもそのご計画を啓示し、あらゆる古代の諸民族におけると同様、聖書において神が自らの意志を表明する時に使った方法の一つと考えられていた、夢見を通してこれを行いました[1]

 ヨセフはマリアの理解不能な妊娠によって大変苦悩していました。「マリアのことを表ざたにするのを」望まず、「ひそかに縁を切ろうと」決心しました(Mt 1,19)[2]。最初の夢の中で、天使は彼の重大なジレンマを解決する手助けをしました。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアに宿っている胎の子は聖霊からのものだからです(新共同訳:マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである)。マリアは男の子を産む。その子をイエス(主は救うという意味)と名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(Mt 1,20-21)。ヨセフの答えは即座になされました。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたにした」のです(Mt 1,24)。聞き従うことによってその劇的な出来事を乗り越え、マリアを救ったのです。

 二つ目の夢では、天使はヨセフにこう命じました。「起きて、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」(Mt 2,13)。ヨセフは立ち向かうことになるであろう困難について問うこともせず、疑わずに聞き従いました。「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた」(Mt 2,14-15)

 エジプトで、ヨセフは自国に戻るために天使によって約束された連絡を信頼と忍耐のうちに待ちました。そして第三の夢の中で神の使いは、幼子を殺そうとしていた者たちは死んだということを伝えた後で、起きて幼子とその母親を連れて、イスラエルの地に戻るようにと命じ(cf. Mt 2,19-20)、ヨセフは今回も、動揺せずに聞き従いました。「ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に入った(新共同訳:イスラエルの地へ帰ってきた)」。けれど帰りの旅の間に、「アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので―そしてこれが四度目の出来事でしたが―、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ」(Mt 2,22-23)

 他方、ルカ福音記者は、ヨセフが自分の出身地で登録をするために、皇帝セサル・アウグストゥスの住民調査の法律に従って、ナザレからベトレヘムへの長く快適ではない旅に取り組んだことを記述しました。そしてまさにこのような状況下でイエスは生まれ、他のすべての子どもたちと同様に、帝国に住民登録されたのでした(cf. Lc 2,1-7)

 聖ルカは、特別な仕方で、イエスの両親が律法の定めをすべて守っていたことを強調することに気を回しました。イエスの割礼の儀式と、産後のマリアの浄めの儀式、神に長子を捧げる儀式についての記述です(cf. 2,21-24)[3]

 ヨセフは、人生のあらゆる状況の中で、お告げの時のマリアやゲッセマニでのイエスのように、自分の「fiat(なれかし)」を口にすることができました。

 ヨセフは、家長という役割の中で、神の戒め(十戒)に従って、両親に対して従順であるようにとイエスに教えたことでしょう(cf. Ex 20,12)

 ナザレでの目立たない生活の中で、ヨセフの導きの下、イエスは御父のみ旨を行うことを学びました。そのみ旨はイエスの日々の糧と変容していきました(cf. Jn 4,34)。しかもその人生で最も困難だった瞬間、つまりゲッセマニにおけるその時間に、自分の気持ちよりも御父のみ旨を行うことを好み[4]、「十字架の死に至るまで…従順」になりました(Flp 2,8)。そのため、ヘブライ人への手紙の著者は、イエスが「多くの苦しみによって従順を学ばれました」(5,8)と結んでいます。

 こうしたすべての出来事は、ヨセフが「その父性の実践を通してイエスの人柄と使命に直接奉仕するために神から呼ばれた」ということを示しています。このような形でヨセフは時が満ちると、贖いの大いなる神秘に協力しますし、そして本当にヨセフは「救いの奉仕者」なのです[5]



[1] Cf. Gn 20,3; 28,12; 31,11.24; 40,8; 41,1-32; Nm 12,6; 1 Sam 3,3-10; Dn 2; 4; Jb 33,15.

[2] この場合、石打の刑に処せられることになっていた (cf. Dt 22,20-21).

[3] Cf. Lv 12,1-8; Ex 13,2.

[4] Cf. Mt 26,39; Mc 14,36; Lc 22,42.

[5] S. Juan Pablo II, Exhort. ap. Redemptoris custos (15 agosto 1989), 8: AAS 82 (1990), 14.