2013年5月2日木曜日

5月1日、一般謁見:労働における尊厳を推進し、人身売買に対抗して働くように

バチカン、5月1日11時45分(ACI/EWTNニュース)

ビデオはこちら、どうぞ→ http://www.youtube.com/watch?v=fh-BN-RcjIQ

中央協議会のページで全文が読めます。こちらへどうぞ→http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/francis/msg0021.htm

今日の一般謁見の要理の時に、サン・ピエトロ広場に集まった7万人を超える信者に向かって、教皇フランシスコは人身売買と「奴隷のような仕事」に対する断定的な選択をするようにと願い、労働者の人権の重要性を強調した。

 教皇はまた、「もし、特にこの5月に、家族で集まって、あるいは友達と一緒に、あるいは小教区で集まって共にロザリオの祈りか、イエスへの祈りとおとめマリアへの祈りを捧げられたら、素晴らしいでしょうね」とその想いを表明した。

 「わたしたちは誰でも、子供たち、若者たち、あなたたちもですよ、今朝、こんなにも大勢来てくれていますけど、みんな、自分に問いかけないといけないで しょう。主にどんなスペースを自分は与えているでしょう?主と対話するために、他のことをストップさせているでしょうか?」と問いかけた。

5月1日、朝ミサ説教:はたらく人には尊厳がある、特別な尊厳、人間の尊厳がある

朗読個所:   使徒言行録15・1-6
            ヨハネ15・1-8

バチカンニュース、5月1日

今の社会では、労働の尊厳よりも、会社の利害関係の比較検討や収益のほうが重視されている。これが教皇フランシスコが今日5月1日の朝、聖マルタの家の小聖堂でささげたミサの間に巡らした考えである。教会が労働者聖ヨゼフを祝っていたこの日、教皇はキリストの扶養者である義父という側面の思い出が、「はたらく神」と聖ヨゼフの工房で働いただけでなく十字架までも「はたらくイエス」というイメージを思い浮かばせる。 

 この祭儀には、連帯センター「イル・ポンテ(橋)」に寝泊まりしている、成人前の幼い母親たちも参列していた。 このセンターは1979年に、組織の会長であるエジディオ・スマッキア神父に伴われて、チヴィタヴェッキアというイタリアの町に生まれた施設である。

 教皇はその日の典礼において、福音がイエスを「大工の息子」として述べていることを思い出しながらこの説教を始めた。ヨセフは労働者であり、イエスはヨセフと共に働くことを覚えた。事実、第1朗読で、世界を作るために神が働く所が読まれる。そしてこの「はたらく神の姿(イコン)」 こそ、仕事というのはパン(糧)を得るためということよりも何かもっと大きな次元のものであると私たちに告げている、とローマの司教(教皇)は確言した。

 「仕事はわたしたちに尊厳を与えるのですよ!はたらく人は尊厳のある人です。特別な尊厳があります。人間の尊厳です。はたらく人は、男性も女性も尊厳のある人です。はたらかない人には、この尊厳はありません。けれど、多くの人は、働きたいと思っているのにできずにいます。これはわたしたちの意識に重くのしかかってきます。なぜなら、社会がこのように造られている時、必ずしも全ての人がはたらく可能性、労働の尊厳によって一つになる可能性をもっているとは言えないからです。そういう社会というのは善い方向に向かっていません。正しくないのです!同じ神は逆なのです。神はわたしたちの尊厳がここから始まるようにと望まれたのです」。

 教皇は続けて言った。「尊厳というのは、権力や金、文化がもたらすものではありません。違うのですよ!尊厳は、仕事によってわたしたちに与えられるのですよ!」。そしてそれも尊厳ある仕事でなければならない。なぜなら今日、「実に多くの社会、政治、経済制度が人を搾取するという意味での選択をしてきたからです」。

  フランシスコの脳裏に、すぐに、ある工場の倒壊で400人以上もの人がいのちを失った、先週のバングラデシュでの悲劇が浮かんだ。そこで働いていた男女は、1か月の給料38ユーロ(5千円弱)で働いていたのである。

 「損得の比較検討ばかりを見て、しかも会社の損得で、そこからどれだけ純利益を得ることができるかばかりを見ているために、ふさわしく賃金を払わないこと、仕事を与えないことがあります。これは神と対立しています!《L'Osservatore Romano》誌に、ある記事があったのですが、何度これを読んだことでしょう。実に何度も読み返しました。バングラデシュでの悲劇の日にすごくわたしの興味を引いたタイトルがあったのです。「一か月38ユーロ(五千円未満)で生活する」というタイトルです。これが亡くなられた方々の給料だったのです……。そうです。これを『奴隷の仕事』と呼ぶのですよ!そして今日、世の中には、神が人間に与えた最も美しいこと、つまり創造の能力、働く力、自分自身の尊厳を立てる能力を、この奴隷状態にすることに用いているところがあるのです。どれほどの兄弟たち、姉妹たちが、世の中で経済的、社会的、政治的、また様々な分野でのこうした態度のせいでこのような状況に置かれていることでしょう!

 同様にその説教において、教皇は中世のラビ(ユダヤ教の教師)の言葉を引用した。それはバベルの塔の盛衰について自分のユダヤ人共同体に語った時のものである。その頃、レンガというのは最高に高価なものであった。

 「あやまってレンガが落ちてしまうようなことがあったら、それは怖ろしい事件、スキャンダルでした。『おい、なんてことをしやがった!』と。けれどもし棟を建設している人の誰かが落ちても、『安らかに憩わんことを!』と望むだけで、静かに時が流れていました。人よりも、レンガの方が大切だったのです。この話は中世のラビが語っていたことですが、ごらんなさい、今そのことが起こっているのです!人が、政治的、社会的、経済的権力をもっている人の収益を生み出すモノよりも大切に扱われずにいます。人類はどんなところに来てしまったのでしょうか? この人間の尊厳、この労働の尊厳に気づかないところです。けれど、今日、はたらく聖ヨゼフの姿、はたらくイエスの姿、はたらく神の姿を見ると、これこそわ たしたちの模範なのですが、わたしたちに尊厳に向かって行く道を教えてくれます」。

 教皇は観察して来ていることを述べた。「今日、聖パウロが言っていたように、『はたらきたくない者は、食べるな』などとはもはや言えません。むしろ、『はたらかない人は、尊厳を失っている!』と言わなければならないでしょう。なぜなら、『はたらく可能性が見いだせない』からです。いやむしろ、『社会がこの人からその尊厳をはぎ取ってしまった!』というべきかもしれません」。そして教皇は加えた。「今日、カインに向けられた神の声を改めて聞くのはわたしたちの益になります。『カイン、お前の弟はどこにいるのか?』。一方、今日、わたしたちはこのような声を聞きます。『あなたの、仕事のない兄弟はどこにいるのか?奴隷の仕事を強いられているあなたの兄弟はどこにいるのか?』という声を」。教皇は招きの言葉をもって結んだ。「祈りましょう。こうした状況にある、このような兄弟姉妹たちのために祈りましょう。なれかし(アーメン)」。

(マリア・フェルナンダ・ベルナスコーニ – バチカンラジオ).









前教皇ベネディクト16世、近日中にバチカンの修道院へ(バチカン放送局の記事へ)

http://ja.radiovaticana.va/news/2013/04/30/%E5%89%8D%E6%95%99%E7%9A%87%E3%83%99%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%8816%E4%B8%96%E3%80%81%E8%BF%91%E6%97%A5%E4%B8%AD%E3%81%AB%E3%83%90%E3%83%81%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%81%AE%E4%BF%AE%E9%81%93%E9%99%A2%E3%81%B8/gia-687771

4月30日、朝ミサ説教:教会にとって一番の危機は、教会が世俗化すること

朗読個所:  使徒言行録14・19-28
            ヨハネ14・27-31a

バチカン、4月30日10時34分(ACI/EWTNニュース)
今朝の聖マルタの家でのミサ中説教において、教皇フランシスコは、悪魔のせいで教会が世俗化する時、 福音、つまり十字架の「つまづき」を宣べ伝える能力を失ってしまうと述べた。「これは一番大きな危険です!」と。

 APSA(使徒座遺産管理局)の管理者数名を前に、教皇は「教会が世俗化する時、自分のうちに、世の精神をもつ時、『わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるようjに与えるのではない』とイエスが言っているあの主からのものではないそうした平和、そうした世俗的な平和を持つ時、教会は弱い教会となります。打ち負かされやすい教会、十字架のメッセージ、十字架のスキャンダル(つまづき)である福音そのものを運ぶ能力を失ってしまうのです……。もし世俗的であるならば、これを前に運ぶことはできないのです」と述べた。

 フランシスコはこう説明した。「教会を守ることはできるでしょう?教会の維持のために手入れをすることはできるでしょう?違いますか?わたしたちは努力してこれをしなければなりません。でも、一番大切なのは、主がなさることです。主だけがただ一人、顔と顔とを合わせて悪を見据え、これに打ち勝つことができる方なのです。世の支配者(王子)がやってきても、わたしに何もできません。世の支配者が教会をその支配下に置かないことをわたしたちが望むならば、この世の支配者に打ち勝つことのできる唯一のお方に信頼しなければなりません」

 「ここに一つの問いがあります。教会のために祈ると言いますが、全教会のために祈っているでしょうか?わたしたちは会ったことのない、世のあらゆるところにいるわたしたちの兄弟たちのために祈っていますか?これが主の教会です。そしてわたしたちは祈りの中で主に、ご覧下さい、主よ、ここにあなたの教会があります。これはあなたのものです。あなたの教会はわたしたちの兄弟姉妹です。と述べるのです。これこそ、日々ますます心から捧げなければならない祈りなのです」。

 教皇フランシスコは「主に恵みを求めるため、感謝するために祈ること」あるいは「何か必要な」時に「祈ることは簡単です」とその観点を述べ、しかし全ての人々のための願いを捧げること、「同じ洗礼を受けた人々」のために「彼らはあなたのものです。わたしたちの兄弟でもあります。お守りください」と祈ることが基本であることを説明した。

 「教会を主に託す ということは、教会を成長させる祈りです。それはまた、信仰活動のひとつでもあります。わたしたちには何もできません。わたしたち、すべてが、教会の哀れなしもべ、はしためなのです。けれどあの方がこの教会を前進させ、守り、成長させ、聖なるものとし、この世の支配者から、つまり教会がますます世俗的になるようにとするその存在から守ることができるのです。これが一番の危険です!」

 「教会が世俗化する時、自分のうちに、世の精神をもつ時、『わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるようjに与えるのではない』とイエスが言っているあの主からのものではないそうした平和、そうした世俗的な平和を持つ時、教会は弱い教会となります。打ち負かされやすい教会、十字架のメッセージ、十字架のスキャンダル(つまづき)である福音そのものを運ぶ能力を失ってしまうのです……。もし世俗的であるならば、これを前に運ぶことはできないのです」。

 教皇は「教会を」「主のみが与えることのできる平和」への道である「主に」託すための祈りの重要性を繰り返した。

 「主に教会を託す、お年寄りを託す、病人、子供、青年たちを託すこと、『主よ、あなたの教会を守ってください。あなたのですよ!』と委ねるこの態度で、主はわたしたちに、苦難を通して、主のみが与えることのできるあの平和をわたしたちに下さいます。この平和は世が与えることのできないものです。あの平和は帰るものでもありません。あの平和は教会のただ中でのイエスの現存という本物の賜物で、これを主はわたしたちに下さるのです」。

 「苦難にある教会を託すこと。大変な苦難が存在します。小規模の、病気や家庭問題などと言った苦難もあります。この全てを主に託すこと。『あなたの苦難にある教会を守ってください。信仰を失わないように、希望を失わないように』と」。

 結びに、全ての人にフランシスコは勧告した。「主が信仰を失わないため、希望を失わないためにわたしたちを力づけてくださいますように」。「この教会のための信頼の祈りをささげることは、わたしたちにとって善いことで、教会にとっても善いことです。わたしたちに大いなる平和を与え、教会にも大いなる平和を与えてくださいます。そしてわたしたちから苦難が取りはらわれることはないでしょうが、この平和が苦難の最中でわたしたちを強めてくれるのです」。

教皇、イスラエル大統領とお会いに(バチカン放送局からの記事)

教皇の5月の意向:正義を司る人々、神学校を運営する人々のため

バチカン、4月29日11時49分(ACI/EWTNニュース)

バチカン情報局は今日、教皇フランシスコの5月の意向を発表した。正義を司る人々(裁判官など)、また神学校を運営する人々、とりわけ宣教地にいるこうした責任者に向けられている。

 5月の教皇の「祈りの使徒職」の一般意向は次の通り:

・ 正義を司る人々が、つねに、公明正大に、そしてまっすぐな良心をもって働くように。

 宣教の意向は次の通り:

・ 神学校、特に宣教地の教会にある神学校が、神学生たちをキリストの心に従った牧者、全生活の端々まで福音を宣べ伝えることに捧げられた牧者として養成するように。

2013年5月1日水曜日

4月29日、朝ミサ説教:神の赦しを謙虚に受け入れるために、罪を恥じる


朗読個所:   使徒言行録14・5-18
           ヨハネ14・21-26
バチカン、4月29日11時37分(ACI/EWTNニュース)
Avergonzarse de los pecados con humildad para acoger perdón de Dios, pide el Papa

 教皇フランシスコは今朝の聖マルタの家でのミサの説教で、キリスト者は神の赦しを謙虚に受け入れるために、自分の罪を恥じることができなければならないと指摘した。

 この聖体祭儀には、APSAのバチカンの従業員や、使徒座遺産管理の従業員、シスターの一団が参列しており、教皇はヨハネの第一の手紙で「神は光であり、彼の内には闇はなかった」という個所についてコメントをした。

 教皇フランシスコは「わたしたちは全員、自分の人生の中で闇の部分をもっています。自分の意識においても、暗い時があるのです。けれど、それは闇の中を歩くという意味には直結しません」と強調した。

 「闇の中を歩むというのは、自分自身に満足しきっている状態、救いの必要性がないと信じ切っている状態です。それこそが闇なのです!この闇の道に入り込んでしまうと、そこから後に引くことは簡単ではありません」。

 「そのため、ヨハネは続けます。おそらくこの考え方は考えを巡らすのに役立ったからでしょう。『もし罪を犯さずにいるというなら、わたしたちは自分自身をだましており、真理はわたしたちのうちにありません』。自分の罪を見なさい。わたしたちの罪を。わたしたちは皆罪びとです。みんなです。……これが出発地点です」。

 「しかしもしわたしたちの罪を告白するなら、神さまは忠実で、罪をゆるしあらゆる悪からわたしたちを清めてくださるほど正しいのです。そして、わたしたちに、―そうでしょう?―あの、あれほど善意に満ち、忠実で、わたしたちをゆるすほどに正しいあの主を示して下さるのです」。

 教皇はさらに、「主がわたしたちをゆるしてくださる時には、何よりも自分自身に対して正義を行っておられます。というのは、主はわたしたちを救い、わたしたちをゆるすために来られたからです」と言った。わたしたちを息子たちに対する一人の父の優しさをもって受け容れながらである。「主は、ご自身を恐れる人に対して、また彼のもとに向かう人々にやさしい方です」。そして優しさをもって「わたしたちをいつも理解して下さいます」。

 わたしたちに「あの、彼のみが与えられる平和を」賜ろうとなさる。たとえわたしたちの服を洗って汚れを綺麗にするために、「ゆるしの秘跡に行くのは洗濯に行くのと同じようなものだと何度考えたとしても」、「これこそが和解の秘跡の時に起こる出来事なのです」。

 「けれど告解部屋のイエスは洗濯機ではありません。それはイエスとの出会いですが、このわたしたちを待っているイエス、わたしたちのあるがままを待っておられるイエスとの出会いなのです。『しかし主よ、わたしはこんなふうですが…』、本当のことをいうのは恥ずかしいです、『こんなことをしてしまったし、あんなことを考えてしまったし』というのは・・・。けれど、恥を感じるというのは、キリスト者としても人としても本物の徳です……。恥じる能力」。

 「イタリア語でこういう言い回しがあるか分りませんが、わたしたちのところでは、恥を感じられない人のことを『厚かましい人(恥知らず)』と呼びます。というのは、恥じる能力がないし、恥じるというのは謙虚jな人の徳、謙虚なあの男性、あの女性の徳だからです」。

 フランシスコはさらに、信頼すべきである、なぜなら罪を犯す時、父の前にわたしたちを弁護している方がおられるからです。「イエス・キリストは、正しい人」。そして彼は「主の前でわたしたちを支えておられ」、わたしたちの弱さを前に、わたしたちを弁護します。けれど、「わたしたちの罪びととしてのまことの姿」を、「信頼をもって、また喜びをもって、化粧で塗りたくることなく」主のみ前に据えなければならないのである。

 「絶対に、神の前で化粧をしてはなりません」。そして恥は徳のひとつなのです。「幸いなる恥」なのです。「これはイエスがわたしたちに望んでおられる徳です。つまり、謙虚さと素直さです」。

「謙虚さと素直さというのは、キリスト者の生活の枠のようなものです。キリスト者というのはいつもそのように進みます。謙虚さと素直さをもって。そしてイエスはわたしたちを赦すために待っておられるのです。主にわたしたちは問いかけることができるでしょう。赦しの秘跡に行くというのは、「拷問のワン・セッションに行くことではないんですか?と。違います!それは神を賛美しに行くことなのです。なぜなら罪びとのわたしが、主のおかげで救われたからです。

 「そして主はわたしを棒でたたいて懲らしめるために待っておられるのでしょうか?違います。わたしを赦すための優しさをもっているのです。『ではもし明日同じことをしてしまうとしたら?』もう一度行ってください。もう一度、もう一度、もう一度…と。主はあなたをいつも待っておられます。この主の優しさ、この謙虚さ、この素直さがあなたを待っています。

 その後この信頼が「わたしたちに呼吸の間を与える」ようにと指摘した。教皇は「主がわたしたちにこの恵みを与え、真理はその光であり、神の前での本物か偽物かというメディアの闇ではない部分であるため、真理をもって彼のもとにいつも行くこの勇気を下さるように」誓いを立てた。「神がわたしたちにこの恵みを与えてくださいますように!なれかし(アーメン)。