2019年1月26日
演説部分はこのビデオの1:30:15 –
2:00:28
大好きな青年の皆さん、こんにちは!
「命の木」についての美しいショーを見せてもらいました。そこで、イエスがわたしたちにプレゼントしてたいと望む命は愛の歩み、わたしたちと混じり、一人一人の土地に根を下ろしたいと望む命の歩みであることをわたしたちに示すショーでした。その命は、ダウンロード待ちで「クラウド」にあげられた救いでも、これから見つけようとしている新しい「アプリケーション」でも、自分を乗り越えるテクニックの実りという脳内エクササイズでもありません。私たちに神様が提供する命は最新のニュースを学ぶための「チュートリアル」でもありません。神様が私たちにプレゼントしてくださる救いは、わたしたちの歩みに編み込まれる「愛の歩みの一部を為すようにとの招き」なのです。この救いは生きており、わたしたちのあるがままに、いっしょに居る人と共に、わたしたちが居るその場所で実を結ぶために私達の間で産まれようと望んでいます。そこに主が来て苗を植え、ご自分を植えられるのです。主はわたしたちの命をまず先に「うん」と言って(肯定して)くださる方です。主がいつも先行します。主こそがわたしたちの歩みをまず先に「うん」と言って(肯定して)下さり、主と共にわたしたちもこれに「うん」と言う(肯定する)ことを望んでおられるのです。主がわたしたちに先立つのです。彼がまず先です。
そのように主は、マリアを驚かせ、この愛の歩みの一部を成すようにとマリアを招きました。ナザレの少女が当時の「ソーシャル・ネットワーク」に顔を出さなかったのは疑う余地のないことでしょう。マリアは「影響者(インフルエンサー)」ではなかったのです。けれど求めも探しもせずに、歴史においてもっとも大きな影響を及ぼす女性となったのです。子どもたちとしての信頼のうちに彼女のことを、神の「影響者」マリアと呼ぶこともできるでしょう。言葉数わずかに勇気を出して「はい」と答え、愛において信頼し、神の約束において信頼しました。それがあらゆることを刷新すること、新しくすることのできる唯一の力なのです。そしてわたしたちには皆、今日、何か内面で新しくすることがあります。今日、自分の心の中で何か神さまが新しくできるように委ねなければなりません。ちょこっと考えてみましょう。自分の心の中で神さまに新しくしてもらいたいものって何だろう?
いつも若いマリアの「はい」という答えの力に興味がそそられます。その天使に答えた「そうなりますように」という言葉の力に。これはあきらめて仕方なしに受動的に受け入れることとは違うものです。これは、「まぁ、とりあえずどうなるか見てみようか」、というような「はぁい」とは違いました。マリアは「どうなるか見てみよう」というその表現は知りませんでした。決定的で、何のことか知っており、うだうだ言わずに「はい」と言ったのです。献身し危険に身をさらしたいと望んでいる人の「はい」という返事であり、一つの約束の運び手で会ったことを知る確信以外に確かさのないすべてを賭けたいと望んでいる人の「はい」という返事です。そしてわたしは皆さん一人一人に質問します。皆さんは一つの約束の運び手であると感じていますか? 未来へと進んで行くために心の中に抱いている約束は何ですか? マリアが抱いていたのは間違いなく、難しい使命だったはずです。けれど困難は「いやです」と答える理由にはなりませんでした。当然困ったことも待ち受けていたでしょう。けれど事前にすべて明確にしたり確実にならなかったりしたがために臆病がわたしたちを中風のように動けなくするときに生じる面倒とは同じにはならないはずです。マリアは生命保険を買いませんでした! マリアは賭けに出ました。だから強いのです。だから影響者なのです。神の影響者なのです。「はい」という返事と奉仕のやる気は、幾多の疑いや困難よりも強かったのです。
この夕刻、いかにマリアの「はい」という返事がこだまし、何世代にもわたって世々に倍増しているかにも耳を傾けました。多くの青年たちがマリアに倣って一つの約束に導かれ身を危険にさらし、命を懸けています。エリカさんとロヘリオ君、わたしたちにプレゼントしてくれた証し、ありがとう。二人とも勇気をもってしてくれました。拍手に値します。ありがとう。イネスの誕生を前に体験したあらゆる危険、困難、怖れを分かち合ってくれました。こんなことを言っていましたね。「親にとって、様々な状況によって、何らかの病気や障害を負った赤ちゃんの訪れは受け入れにくいものです」。その通りでしょう、よく理解できます。けれど驚いたのは、そのあとに付け加えてくれた言葉です。「娘が生まれた時、わたしたちは心から彼女を愛そうと決意しました」。その訪れと向き合い、現れてきたあらゆる宣告と困難を前に、一つの決断をし、マリアのように「そうなりますように」と言ったのです。あなたたちは弱々しく無防備で助けを必要としていた娘さんの命を前に、エリカさんとロヘリオ君、あなたたちの応答は、「はい」でした。そうして二人にはイネスちゃんがいます。あなたたちは勇気を出して、世界は強い者のためだけにあるのではないことを信じたのです。ありがとう!
主に「はい」と告げるということは、もろさや小ささ、さらにはしばしば様々な矛盾や意味の無さもすべてひっくるめてやってくる人生を、エリカさんとロヘリオ君が語ってくれた同じ愛をもって、勇気を出して抱きしめることです。やってくるがままに人生を受け止めること。それは、わたしたちの出身国や家族、友人たちを、同様にそのもろさも小ささも含めてありのままに抱きしめることです。人生の抱擁は、完璧でないものや清くもなく純化されてもいないものすべてを歓迎するときにも示されます。しかし完璧でも清くも純粋でもないからといって愛の対象としてあまりふさわしくなくなることはありません。障がいを負っていたりもろかったりという理由で愛の対象としてふさわしくないと言うのですか。皆さんに質問します。障害を負っている人、もろい人は、愛の対象としてふさわしいですか? (みんな:「スィ=はい!」)よく聞こえないですよ・・・(みんな:「はい!」)理解してくれたのですね。もう一つ質問します。どう答えるかな。外国人であるとか、間違いを犯したとか、病気になったとか、刑務所に入ったといういわくつきの人は、愛の対象としてふさわしいですか?(みんな「はい!!!」) まさにイエスさまはそうなさいました。ハンセン病の人、目の見えない人、中風で体が動かない人を抱きしめ、ファリサイ人も罪びとも抱きしめました。十字架上の泥棒を抱擁し、自分を十字架に架けている人たちまでをも抱擁し、ゆるしました。
なぜですかね?なぜなら、愛を知る人だけが救われうるからです。君は誰かを救うことはできません。君はある状況を救うことはできません。その人を愛するのです。愛を知る人だけが救われる。繰り返しましょうか。愛を知る人だけが救われる。(みんな:「愛を知る人だけが救われる」)。忘れないようにしましょう。だからわたしたちはイエスに救われるのです。なぜならイエスはわたしたちを愛し、その気質からその逆ができないのです。わたしたちは何千回も彼に逆らうことができてしまうのですが、イエスはわたしたちを愛し、わたしたちを救います。なぜなら愛を知る人だけが救われうるからです。抱きしめることを知る人だけが変えられます。主の愛はわたしたちにあるどんな矛盾よりも、どんなもろさよりも、どんな小ささよりも偉大です。けれどまさにわたしたしたちの矛盾やもろさ、小ささを通して、主はこの愛の歩みの物語を書きたいと望むのです。放蕩息子を抱きしめ、否んだ後のペトロを抱きしめました。そうやってイエスは私たちをいつも抱きしめます。いつもです。わたしたちの転びの後いつも、わたしたちを立たせ、自分の足で立てるように助けながら。なぜなら本当の転びは、よく注意して聞いてくださいね、本当の転びは、つまりわたしたちの命を崩壊させる能力のある転びは、地面にとどまり助けの余地を与えない転びだからです。登山家が山を登るときに歌うとてもきれいな歌があります。「登るときの秘訣。勝利は転ばないことではなく、転んだままでいないことにある」。転んだままでいないようにしましょう・・・君が立ち上がれるようにする手があります。転んだままでいないようにしましょう。
最初のステップは、やってくるがままに人生を受けることを恐れないこと、ありのままに人生を抱きしめるのを恐れないことです!これが、わたしたちが今日見た「命の木」です。
アルフレド君、わたしたち全員に分かち合ってくれた証しとその勇気、ありがとう。とても印象的なことを言っていましたね。「建設の仕事を始め、その建設プロジェクトが終わるまでしました。雇用も無く物事は異なる色彩を放ち始めました。学校もなく、することもなく、仕事も無かった」。要約すると四つの「~の無さ」という、わたしたちの人生を根無しで枯れさせるものになります。仕事が無いこと、教育が無いこと、共同体が無いこと、家族が無いこと。つまり根の無い人生です。仕事の無さ、教育の無さ、共同体の無さ、家族の無さ。この四つの「~の無さ」が息の根を止めるのです。
しっかり支えとなり地面に根を張るのを助ける強い根がないなら育つことはできません。根ざさず、支えも無いときには簡単に「吹き飛ばされ」ます。そしてこれこそが、わたしたち大人が、ここにいるわたしたちが否が応でもさらされる問いです。さらに言えば、皆さんがわたしたちにしなければならない、皆さん青年たちがわたしたち大人にしなければならない問いで、答えられなければならない問です。どのような根をわたしたち大人は与えているでしょうか。人として建てられていくためにどのような土台をわたしたち大人は皆さんに入手しやすくしているでしょうか。これはわたしたち大人に対する問いです。捕まるところや未来を夢見るところから仕事や教育、共同体の機会を奪っていつつも、青年たちのことを批判し、ぶつぶつ言いながら時間を過ごすのはどれほど簡単でしょう。教育が無ければ未来を夢見るのは難しく、仕事がなければ未来を夢見ることは難しく、共同体がなければ未来を夢見ることはほぼ不可能です。なぜなら、未来を夢見るということは、何のために生きるかだけではなく、誰のために生き、誰のためなら自分の人生を消費する甲斐があるかに応えることを学ぶことだからです。そしてそれは、わたしたち大人たちが、仕事や教育、共同体や機会を提供しながら、手に届きやすくしなければならないことです。
アルフレド君が言ってたように、滑り落ち、仕事も教育も共同体も家族が無くなると、一日が終わるときに空しくなり、そのむなしさをなんでもいいから、適当な草でも何でもつめて満たしてしまうのです。なぜならだれのために生き、奮闘し、愛するのか分からなくなってしまっているからです。ここにいる大人たち、これを見ている大人たちにわたしは質問します。あなたは今日の青年たちの中に、未来や未来へのやる気を生み出すために何をしていますか? あなたは彼らが教育を受け、仕事を持ち、家族を持ち、共同体を持つために奮闘する能力がありますか?大人の皆さん、自分の心の中で答えましょう。
ある時数人の青年たちとだべっていた時に、一人の青年が質問してきました。「なぜ現代では青年たちの多くは神が存在するかも問わず、神を信じることも困難で、人生への献身が足りないのでしょうか?」 わたしは彼らにこう答えました。「では君たちは、このことについてどう考えているの?」 その会話の中でで上がってきた答えの中に、心にぐっときた答えがあり、それはアルフレド君がわかち合ってくれた体験に関係しています。「神父さん、というか、彼らの多くは、少しずつ、ほかの人のために存在することをやめたと感じ、しばしば透明人間のように感じているからでしょう」。青年たちの多くは、他の人々や家族、社会、共同体のために存在することをやめてしまったと感じていて、それでしばしば透明人間のように感じている。これは放棄の文化、配慮不足の文化です。すべては言いませんが、多くの人たちは、自分には提供できるものがあまりない、あるいは何もないと感じています。なぜなら自分が呼ばれていると感じるほんもののスペースに頼らないからです。もしそういった青年たちが、長いこと自分の兄弟たちや社会のために存在することをやめてずいぶんと経ってしまっているなら、どうして神が存在していることについて考えるでしょうか。そのようにわたしたちは彼らが未来を見ない方向に押しているのです。そうして麻薬や彼らを破壊するようなものの爪、誘惑に落ちるようにと押しているのです。自問してみましょう。わたしは自分が見ている青年たちと何をしますか? 彼らを批判しますか、それとも自分には興味が無いですか。彼らを手伝いますか、それとも自分には関係ないですか? 自分に対して、ずいぶんと前から存在するのをやめてしまったというのは本当でしょうか。
わたしたちはよく知っています。認められ、愛されていると感じるために毎日つながっているだけでは十分ではありません。何かに向かって配慮され招かれている感じることは、「ネットに」いることよりも偉大なのです。それは、自分の手、心、頭で、自分たちを必要とし、青年の皆さん、あなたたちも必要としているより大きな共同体の一部であると感じることのできるスペースを見つけることを意味します。
そして聖人たちはこうしたことをよく理解していました。たとえばドン・ボスコのことを考えます。彼は青年たちを探すためと言ってどこにも行きませんでした。さて、ここに、ドン・ボスコ好きの人いますか?はい、拍手。ドン・ボスコは青年たちを探すために、遠い所や特別なところにはどこにも行きませんでした。単純に、神のまなざしで自分の街の周囲に起きていることをすべて見、見つめることを学んだだけです。そうして、その心は何百もの子どもたちや青年たちが勉強も仕事も共同体の友情に満ちた手もなく放棄されている現実に打ちのめされたのです。その多くは同じ町に住んでいて、多くの人がそうした青年たちを批判していましたが、神のまなざしで彼らを見ることはできませんでした。青年たちは、神のまなざしで見なければなりません。彼はそうしました。ドン・ボスコは最初の一歩を踏み出そうと気分を高めました。出てきたままの命を抱きしめ、そこから、二歩目を踏み出すのには恐れはありませんでした。それは、彼らと共に一つの共同体、仕事も勉強もあって愛されていると感じられる家族を作ったのです。彼らに、天国に到達できるために支えとなる根を与えること。社会のなかで「だれか」となることができるために。彼らがつかまり、吹き寄せる最初の風で落とされてしまわないための根を与えること。そういうことをドン・ボスコはしていました。聖人たちはそういうことをしました。神のまなざしで青年たちを見ることのできる共同体はそういうことをするのです。大人の皆さん、皆さんは青年たちを神のまなざしで見る気になりましたか? (大人たち:「はい!」)
わたしたちのラテンアメリカの多くの場所のことを思います。そこでは家族をキリストの家庭と呼ぼうと推進しています。他のセンターと同じ精神で、命をその全体性と複雑さのうちに訪れるものとしてありのままに受け入れようとしています。なぜなら「木」はいつも一つの希望を保っていると知っているからです。「木には希望がある、というように、木は切られても、また新芽を吹き、若枝の絶えることはない」(ヨブ14章7節)。
そしていつも、「新芽は若枝を吹き」ます。共同体や、必要な信頼を差し出す根を張ることのできる家庭のぬくもりがあり、新しい地平、愛され、探され、見いだされ、一つの使命にささげられた息子の地平を見出すための心を準備するとき、いつも新しく始めることができます。主が現存するのは、具体的な顔ぶれを通してです。この愛の歩みにマリアのように「はい」と言うのは、街を歩き回ることのできる教会共同体を自分の住んでいる地域に建設し、新しい人間関係を抱きしめ織りなすための道具となるために「はい」と言うことなのです。21世紀の「インフルエンサー(影響者)」になるということは、根の擁護者、わたしたちの人生が炭酸飲料のようになり、わたしたちの人生が蒸発して無に帰することを妨げるあらゆるものの擁護者になるということです。あなたたち大人たちは、互いに互いの部分であると感じさせてくれるあらゆるものの擁護者となってください。わたしたちが居場所があると感じられるようにするあらゆるものの擁護者に。
クラクフの世界青年大会でニルメエンさんはそのように体験しました。出会いに来て、自分の居場所を与え、つまりアイデンティティを与え、喜び、つまりイエスに見いだされるということを体験させてくれる、生きた喜びに満ちた共同体に出会いました。ニルメエンさんは、イエスから逃げていました。イエスを避けていたのです。誰かが彼女に根を見せ、居場所を与えるまで距離がありました。そしてその共同体は彼女が話してくれたようなその道を始めるようにと彼女を盛り立たせました。
あるラテンアメリカの聖人が、こう自問したことがあります。「社会の発展は、最新の車を手に入れ、市場で最新の技術を手に入れられるようになることだけを意味するのでしょうか。そこに人間の偉大さのすべてが集約されるのですか。このために生きる以外のことは無いのでしょうか」(聖アルベルト・ウルタード、1946年青年のための聖週間の黙想)。青年の皆さん、質問します。皆さんが欲しているのは、この偉大さですか、それとも違いますか?(みんな:「違います!」あやしいですね。ここまでよく聞こえません、よく聞こえませんよ。どうしたんですか。(みんな:「違います!」) 偉大さというのは、最新の車や市場で最新の技術を手に入れるに至ることだけではありません。皆さんはなにかもっとすごいことのために創られたのです。マリアはこのことを理解し、言ったのです。「そうなりますように!」と。エリカさんとロヘリオ君はこれを理解し、言ったのです。「そうなりますように!」と。アルフレド君はこれを理解し、言ったのです。「そうなりますように!」と。ニルメエンさんはこれを理解し、言ったのです。「そうなりますように!」と。わたしたちは彼らの声をここで聞きました。友だちのみなさん、質問します。皆さんには「はい」と言う心構えがありますか? (「はい!」)やっと返事の仕方を覚えましたね、さっきよりもずっと好きです。福音はわたしたちに、世界は病人が今より少なかったり、弱い人がもっと少なかったり、もろい人や面倒を見ないといけない老人がもっと少なかったり、さらには罪びとがもっと少なかったりしてもよりよくはならないと教えています。違いますよ、だからといってよりよくはならないのです。世界はがよりよくなるのは、こうした友だちがわたしたちに話してくれたように、明日をつくり出し神の愛の変容をもたらす力を信じる心構えを持ち、そうなるように気分を高める人が増えた時です。青年の皆さんに質問します。マリアのような仕方でインフルエンサーになりたいですか?(みんな:「はい!」)マリアは勇気を出して「そうありますように」と言いました。愛だけがわたしたちをより人間的にするのです。けんかやいじめではありません。勉強だけでもありません。愛だけがわたしたちをより人間的に、より完全にするのです。ほかの残りのものは皆、よいけれど空しいプラセボなのです。
まもなく、わたしたちはイエスさまに、聖体のうちに生きるイエスさまに会います。きっと皆さんにはイエスさまに言うことがたくさんあるでしょう。皆さんの生活や家族のこと、国のこと、様々な状況についてイエスさまの語ることがたくさんあるでしょう。
わたしたちはイエスさまと顔と顔を合わせます。勇気を出して、心を開くことを恐れないで。イエスさまがその愛の炎を再燃させ、皆さんがそのもろさも小ささもすべて持って、でもその偉大さと美しさをも見据えて人生を抱きしめるようにと促しますように。イエスさまが、生き生きとし、目覚めてあることの美しさを見出す手助けをしてくれますように。活き活きと、目覚めて。
皆さんも世界の中でその愛の歴史の一部となりたいとイエスさまに言うのを恐れないで。その愛の歴史はより多くの人のためにあるのです!
友だちの皆さん、この皆さんの、イエスさまとの顔と顔とを合わせた面会の時間がよいものであるようにと祈ります。わたしも根を大切にできるためにマリアのように「お言葉どおりになりますように!」と言うために命を抱きしめることを恐れないようにと、わたしのためにもお祈りしてください。
0 件のコメント:
コメントを投稿